日蓮正宗のススメ

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【神本仏迹論と狸祭り事件(3)(4)】

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創価教育学会々員の中には多数の現職小学校教員あり、

この教説は日蓮宗にいう曼荼羅の掛軸をもって至上至尊の礼拝対象となし、
他の一切の神仏の礼拝を排撃し、さらに謗法払いと称して神札、

或いは神棚・仏壇などを撤去焼却し、はなはだしきは信者になると
妻が夫の留守中に謗法払いをしたため離婚問題にまで発展した」

これが創価教育学会に対する弾圧のきっかけとなりました。
 

つまり牧口会長の強い折伏姿勢(これを強折:ごうしゃく:といいます)と

神宮に対する不敬な行動が軍部の反感を買い、

特高警察も創価教育学会との蜜月関係を破却して取り締まりに乗り出しました。

昭和18年に入りまず皮切りに幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕。
同6月には陣野忠夫、有村勝次が行き過ぎた学会活動(布教)をしたという容疑で逮捕。
翌7月にはとうとう本命の牧口会長を初め戸田城聖も逮捕されました。

逮捕された場所は伊豆の下田。
牧口会長は折伏旅行で当地を訪れていたときに逮捕されました。
 

特高警察はずーっと尾行してたんですね。

この事件で逮捕拘留された創価教育学会幹部は21名。
罪状は不敬罪』と『治安維持法違反』

その後牧口会長は1年4ケ月後の翌19年11月、74才で獄死します。
 

死因は栄養失調。
 

74才の老人には獄中生活はかなりキツカッたでしょうね。

 

(当時の創価教育学会幹部 堀米尊師をはさんで牧口と戸田)

一方、大石寺でも宗史に残る大事件が起きます。
日本の敗戦が色濃くなってきた昭和19年12月、つまり終戦8ケ月前です。

陸軍の兵隊用宿舎に客殿や書院を提供せざるをえなくなりました。
将校は書院に、兵隊は客殿にと寄宿します。

そして書院に駐屯する将校が富士宮浅間神社の神札を祀ってしまったのです。

この頃のお話を我が妙光寺の土居崎住職から座談会の折、

回顧録でうかがったことがありますので掲載しておきます。

『私は昭和18年、名古屋の妙道寺より総本山に上がりました(昔は各末寺で弟子をとっていました)
その時、本山には農耕隊が書院を接収していました。
書院には農耕隊が神札を置いていたかもしれませんが、

本山の管轄外(手が及ばない)だったため中の様子は分かりませんでした。
書院以外のところでは神札は見ていません。』

昭和20年6月、終戦2ケ月前。なんと駐屯する兵士の火の不始末から出火。
書院、客殿はもちろんのこと、さらに六壷と火の手は延び、

とうとう対面所にも火が回り大奥まで焼け落ちてしまいました。

時の御法主、第62世日恭上人はその責任を御一身に背負われたのか、

火中に無念の御遷化(ごせんげ:おなくなりになること)をなされました。
 

ご存知のように大石寺は住宅地のように建物が密集している訳でもなく、

また大奥(御法主上人のお住まい)も高層住宅でもありません。
逃げようと思えばどこにでも逃げられます。

その証拠にこの火災では負傷した人すらいないのです。

しかし血脈法水を継ぐ御法主上人が焼死(自決)なさったという事はまぎれもない事実なのです。
日亨上人はこの事件のことを“不祥事”とされています。


その時のご様子は『小説・人間革命』第一巻に詳しく書いてありますので抜粋で載せておきます。

『焼けただれた管長室には、第六十二世日恭猊下が、おいたわしくも、

身を火焔にみずから焼き、端座(たんざ)したままの姿であられたのである。
 

しかも、正装であり、袈裟をかけたお姿である。
 

そして、一閻浮提総与の大御本尊を御安置した、御宝蔵にむかっていた。
 

猊下はお逃げになることは、いくらでもできたのである。
 

その証拠に、数百人の罹災(りさい))者の中で、負傷者は一人もなかった。

客殿の焼亡とともに、なにゆえに、わが身をお焼きになったのか。
 

凡庸(ぼんよう:凡人のこと)の推察は、さしひかえなければならない。
~中略~ 
彼(※戸田)は、日恭猊下は一国謗法の苦を、御一身にお受けなさったものと拝察した。
ありがたいきわみではないか、と思った。』

 

         総本山第62世 鈴木日恭猊下

昭和20年8月15日、終戦を迎えます。
 

それから約7年後の昭和27年4月27日。
総本山大石寺では翌日の“立宗開教七百年慶祝大法会”を控えておりました。

驚くことに塔頭の本住坊になんと小笠原が御登山して滞在していたのです。
 

小笠原は水魚会を牛耳りその後は『世界之日蓮社』なる怪しげな会まで立ち上げそこの主幹をしておりました。
 

そしてこの『神本仏迹論』をいう邪義を振りかざし、時の軍部にこびへつらい日恭上人を攻撃した罪により擯斥処分(つまりクビ)
になっていましたが、今回の大法要の特赦(特別に過去の罪が許される)により僧籍復帰していたのです。
 

しかも岐阜県美濃市の本玄寺の住職にまでなっていたのです。

(`o´)ノあちょ 信じられない大甘な処分ですなぁ~)

当時、戸田会長(二代目に就任)は『神本仏迹論』を徹底的に糾明するように、と学会青年部に指示を出していました。
 

青年部長の辻武寿をはじめとする牛田寛、龍年光石田次男池田大作(3代会長)森田一哉、北条浩(後の4代会長)

の7名の幹部と志願者40名、計47名が小笠原を糾弾する実行部隊が結成されました。
 

偶然にも赤穂浪士を同じ人数です。

 


    (戸田会長の右隣が辻武寿、左隣が池田大作
 

その計画とはこういう手順です。

まず辻青年部長の辻が直接『神本仏迹論』を糾弾して小笠原から謝罪状を取る。
 

がしかし拒絶された場合は小笠原を強引に牧口会長の墓(墓は大石寺にあります)まで連れ出し更に糾弾する。
 

最初の辻の糾弾で事が収まらなかった場合、次の強攻策に出た時の作戦が『狸祭り』でした。

4月27日夜8時半、用意周到、準備が整ったところで柏原ヤスが小笠原に面会しこう切り出します。
 

『学会青年部があなた様から法門をおうかがいしたいと言うので夜分にうかがいました。

こちらが青年部長の辻です』と丁重に挨拶をしました。


その夜の小笠原は随分と愛想がよく

『ああ、そうですか、どうも遠くから来て疲れてな、ちょっと奥に引っ込んで居りましたところじゃ』
 

辻は小笠原の前に正座するといきなりこう切り出しました。
『小笠原さん、あなたの神本仏迹論は当宗の教義ですか?!』

小笠原『今でもそういうことはある!』
『神本仏迹論は本当に正しいのですか?!』
 

小笠原『そういうことはあるのじゃ!!』
『確かに大聖人の教義のなかにあるのですか?!神本仏迹論は正しのですか!』
 

小笠原『君たちは何しに来たのじゃ?!教えを聞きに来たのならそれらしくしたらよかろう!

教えを聞くふるをして法論にきている!
それならそれらしく改めて来たらよかろう!

君らには話しをしない!』
 

『はじめから法論だ!神本仏迹論の法論をしたいから会ってくれといっても会わぬだろう!

神本仏迹論は何を根拠とするのか!』
 

小笠原『御義口伝のなかにある。神力品を読んだことがあるか!』
『御義口伝がなんで神本仏迹論かはっきり根拠をしめしなさい!』
 

小笠原『神力品の神力がそうじゃ!相伝のなかにもある』
『神力がなんで神本仏迹論か、久遠元初の御本仏が迹で十界の中の神が本か、

御本尊が迹で神が本などと、どこの仏法にあるものか!神本仏迹論を誤れ!!』

さてさて、狸祭り事件の始まりです。

~以下、次号に続く~

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