日蓮正宗のススメ

人生談義と時事放談

PVアクセスランキング にほんブログ村 日蓮正宗のススメ - にほんブログ村

1232夜:日蓮正宗の修行は、御供養で功徳を積むことだと思った件

上野殿御返事    弘安三年一二月二七日  五九歳
 
  鵞目一貫文送り給び了んぬ。
  御心ざしの候へば申し候ぞ。よくふかき御房とおぼしめす事なかれ。
  仏にやすやすとなる事の候ぞ、をしへまいらせ候はん。人のものををしふると申すは、車のおもけれども油をぬりてまわり、ふねを水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候なり。仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃にかわけるものに水をあたへ、寒氷にこゞへたるものに火をあたふるがごとし。又、二つなき物を人にあたへ、命のたゆるに人のせにあふがごとし。
  金色王と申せし王は其の国に十二年の大旱魃あて、万民飢え死ぬ事かずをしらず。河には死人をはしとし、陸にはがいこつをつかとせり。其の時金色大王、大菩提心ををこしておほきに施をほどこし給ひき。
せすべき物みなつきて、蔵の中にたゞ米五升ばかりのこれり。大王の一日の御くごなりと、臣下申せしかば、大王五升の米をとり出だして、一切の飢えたるものに、或は一りう二りう、或は三りう四りうなんど、あまねくあたへさせ給ひてのち、天に向かはせ給ひて、朕は一切衆生のけかちの苦にかはりてうえじに候ぞと、こゑをあげてよばはらせ給ひしかば、天きこしめして甘露の雨を須臾に下し給ひき。この雨を手にふれ、かをにかゝりし人、皆食にあきみちて、一国の万民、せちなのほどに命よみがへりて候ひけり。
  月氏国にす達長者と申せし者は、七度貧になり、七度長者となりて候ひしが、最後の貧の時は万民皆にげうせ、死にをはりて、たゞめおとこ二人にて候ひし時、五升の米あり。五日のかつてとあて候ひし時、迦葉・舍利弗・阿難・羅睺羅・釈迦仏の五人、次第に入らせ給ひて、五升の米をこひとらせ給ひき。其の日より五天竺第一の長者となりて、祇園精舍をばつくりて候ぞ。これをもてよろずを心へさせ給へ。
  貴辺はすでに法華経の行者に似させ給へる事、さるの人に似、もちゐの月に似たるが如し。あつはらのものどものかくをしませ給へる事は、承平の将門、天喜の貞任のやうに此の国のものどもはおもひて候ぞ。これひとへに法華経に命をすつるゆへなり。またく主君にそむく人とは天御覧あらじ。其の上わづかの小郷にをほくの公事せめにあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣なし。
  かゝる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんとおもひやらせ給ひて、ぜに一貫をくらせ給へるは、貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたへ、りだが合子の中なりしひえを辟支仏にあたへたりしがごとし。たうとし、たうとし。くはしくは又々申すべし。恐々謹言。
   十二月二十七日                   日蓮花押    
  上野殿御返事

業が深い上に、功徳を積んでないからだよ

先日、我が家の愛犬を先祖代々の墓に納骨しました。
犬を一番かわいがり、幼少の頃は一緒に寝ていた息子が功徳主となり、御塔婆を建立してくれました。

息子の建てた塔婆を携え、妻と私で御僧侶のお供をしてお墓に行きました。
そこで御僧侶の声に唱和しながら、方便品・自我偈・唱題・頓証菩提祈念。
納骨を無事済ませ、御僧侶に御供養袋をお渡ししました。

心がスッキリしたのを感じました。
作法受得。
末法の本門戒は、正しき一連の作法によってその身に受けるのです。

応受持    持戒清潔にして作法受得の義なり。
斯経     三大秘法の中の本門戒。

『上行所伝三大秘法口決』(平成新編1704㌻)

末法本門戒の作法を教えてくれるのが、御経本と呼んでいる勤行要典です。
初座・二座・三座は諸天・本尊・三師への供養。
四座が広宣流布祈念。
五座が功徳回向。
御供養と生者・死者への折伏が修行です。

冒頭の御書は、南条時光に与えられた御書で、御供養こそが成仏への最短ルートであるとの御指南。
御供養の大切さを指南するのは、相手の誤解を招きやすいため珍しいことです。
南条殿だからこその御指南でしょう。
本抄を賜わった上野殿とは南条七郎次郎時光のことで、駿河国富士郡上方荘上野郷(静岡県富士宮市上条・下条・精進川一帯。現在、総本山大石寺、本山妙蓮寺などの建っている地域)の地頭であったところから、こう呼ばれました。
 南条時光という方をひとことで申せば、日蓮正宗の信徒の信心の手本を示した大檀越であり、かつ、大信行者と申せましょう。
 文永初年の頃、時光の父、南条兵衛七郎が鎌倉幕府番役を勤めた際に、大聖人様の教化を受けたことによって、南条家の信仰は始まりました。このとき、五・六歳であった時光も父に従って入信したのです。
 しかし、南条兵衛七郎は文永二年三月、幼い時光たちを残して亡くなりました。兵衛七郎死去の報告を受けた大聖人様は、鎌倉からはるばる上野の南条家を弔問され、墓参をされたことが『春の祝御書』(御書 758頁)に記されています。
 このような大聖人様の格別の御配慮は、南条兵衛七郎の人格・信心が他に抜きん出ていたことと、大聖人様と南条家の深い絆を物語るものであり、幼い時光を御覧になられた大聖人様は、その純真な姿に、未来の大檀那たる資質をお認みとめになられたことと拝されます。
 時光の信行上の功績については、到底ここで述べ尽くせるものではありませんが、概略を述べてみます。
 まず、身延に入山された大聖人様への御供養は、諸檀越中随一であり、現存する御消息から、定期的に継続されていたことが推察され、水の流れるが如き不退の信心と、厚い外護の姿を知ることができます。
 次に、不自惜身命の折伏行が挙げられます。本門戒壇の大御本尊御建立の契機となった熱原法難に際しては、農民信徒のリーダーとして、身命を顧みずに、信仰の団結を支える活動に挺身し、二十一歳の若さで、大聖人様から「上野賢人殿」との尊称を賜わりました。
 次に、特筆すべきことは、大聖人様の御入滅後、五老僧等は一同に二祖日興上人に背反しましたが、その中を大聖人様に対し奉るのと少しも変わらぬ信心で御奉公され、血脈の仏法を厳護されたことです。すなわち民部日向と波木井実長の謗法により、身延を離山された日興上人を上野の地へお招きし、戒壇建立の霊地、大石寺を寄進されたことは、末法に永遠に輝く大功績であり、故に本宗では特に大行尊霊として、その徳を報ずるのです。
 また、長姉(蓮阿尼)は新田五郎重綱に嫁した日目上人の母であり、娘も新田家へ嫁して日道上人の母となっています。更に、日時上人・日影上人・日有上人も南条家出身の方々であり、上代日蓮正宗の法脈伝持は、まさしく南条家によってなされたといっても過言ではなく、一族を挙げて、大聖人様の仏法の内護・外護に尽くされたのです。

この御書が与えられたのは熱原法難の時節に、大聖人様に味方した南条殿が幕府から嫌がらせを受けていた時期ですね。

南条殿はかなりの窮乏を強いられたようです。
そんな中、身延の大聖人様に対して、御供養の志を貫かれていたのです。
現在、日本の国は新型コロナウイルス感染症の脅威、ロシアによるウクライナ侵略により、不況とインフレのダブルパンチを喰らっています。
こういう苦難の時節こそ、御供養の志が大事なのです。
かつて創価学会日蓮正宗の信徒団体だったころ、お寺に親しんでいた方には大きな功徳が存在しました。
お寺から功徳を戴いた体験を、創価学会に功徳があったかのように喧伝していたのが、生まれながらの異流儀団体創価学会だったのです。
創価の見当違いの信心でも、日蓮正宗に御供養していた時には功徳もありました。
功徳乞食の餓鬼道題目に功徳があったわけではないのです。

私事ではありますが、この度の愛犬の御弔い後、大きな功徳を頂戴いたしました。
長年の悩みであった、肩こりから来る慢性疲労・倦怠感が消えたのです。
気づいた時には驚きました。
毎週のように整骨院で骨格調整してもらっても、数日のうちに元の木阿弥。
そのループが断ち切れたのです。

功徳は感じ、報恩感謝するもの。
このブログを読みに来てくださった方にも、御供養をオススメいたします。
創価・顕正に多額のお金を費やしていた人が、日蓮正宗に来るとなかなか御供養が出来ないという話を聴きました。
寸善尺魔。
魔に負けてはなりませぬ。
日蓮正宗の御僧侶が居てこその仏法です。

信心の志を示しましょう。

白米一俵御書  弘安3年(1544頁)

 仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細いさいにかんがへて候へば、観心かんじんの法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。へたるに、これはなしては、けう今日の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候れうを仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢをやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをとらぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供じくやう、凡夫のためにはくやう供養、止観の第七の観心の檀はら波羅蜜と申す法門なり。まことのみちは世間の事法にて候(1544頁)

 法華経しからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。爾前の経々の心は、心より万法を生ず。たとへば心は大地のごとし草木は万法のごとしと申す。法華経
しからず。心すなはち大地、大地則ち草木なり。爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし、法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり(1545頁)