前回に引き続きもう少し時代が下がった「戦時中の大坊」の様子をお伝えします。
(蓮華・昭和48年5月号より抜粋)
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「戦時中の大坊」 前川慈肇
我々が子供の頃には、得度式または衣や袈裟の免許が済むと、所化頭に連れられて塔中の挨拶廻りをしたものである。
「本日得度致しました御前様の弟子の◯◯でございます。よろしくお願いいたします」と所化頭の口上があり、本人も「よろしくお願い致します」と、口の中でもそもそ言うや否や、「おめでとう」の言葉と同時に、青く剃ったばかりの頭をピシャリと叩かれるのである。
左端 日恭上人と右三人は小僧さん
そしてこの時の新発意(しんぼっち)が差し上げる御供養は5銭で、表には、得度披露 日恭上人徒弟 前川慈肇 と書かれたものを持って廻ったのである。
衣免許の時も確か5銭で、袈裟免許になると10銭になったはずである。
そしていずれも間違いなく倍になって還ってきた。
当日草取りの日当が50銭の時代であったから実に豪義なものである。
その頃、商店での買物は全部ツケで、支払いはお虫払いとお会式の二回きりである。
開満の割り出し(給金の支払い)があると、柏木、下店、牛屋等の各店が、待ってましたとばかりに半年間の未払い金を集めに来るのであるが、借りる方も貸す方ものんびりしたもので、この年二回支払い方式を疑う者は一人もいなかったようである。
現在では考えられない経済機構である。
商店への支払い後がまた大変である。
ほとんどの所化さんはマイナスで、黒字になった人は少なかったようである。
割り出しの時のうれしそうな顔、店屋に持って行かれて何も残らなかった時の寂しそうな顔、一喜一憂する所化さん達の姿を覚えているが、本山に来たばかりの小僧にしてみると、何か別世界へ来たような不思議な光景であった。
我々小僧の日常の行務、それはまず第一に「御開帳ぶれ」から始まるのである。
「御免ください、2時からご開帳(御開扉)です」
「2時から御開帳、引き続き満山供養です」
ご宝蔵前の御開扉の様子
などと一軒々々ふれて歩くのであるが、よそ目にはまことに長閑な風景である。
しかし小僧にしてみれば大変な仕事である。
通れる所はどこでも通り抜け(当時はほとんどの塔中境内には畑があった)遠くの方からできるだけ大声を張り上げ、玄関まで行かずに出来るだけ早く済まそうとして、小僧は小僧なりに頭をひねったものである。
しかも戦時中であるから武運長久の御開扉が臨時であったりして、午前と午後の2回飛ばされる事もあり、とにかく御開帳ぶれは小僧同士の喧嘩のタネでもあった。
#出征兵士の御開扉
塔中廻りには御開帳ぶれのほか、回章(回覧板)や判取り(御開扉のあと隠尊の書き判を請書に書いて頂く)を持って廻るのであるが、こんな時に「小僧、ちょっと来い!」と声が掛かればしめたものである。
サツマイモ、みかん、とうもろこし等がいただけるのである。
こんなことを言うと不思議に思うかも知れないが、チーズやプリン等と言うものは、英語の教科書では名前だけは知っていたが、実際に見たのは戦後のことである。
そういえば源氏の君や藤原業平がデートした時の間食は木の実、餅、ホシイイ(蒸して乾燥させた保存用の飯)であったから、戦前の食生活とあまり変わらなかったことになる。
電話の普及した今日では、「御開帳ぶれ」とか「判取り」などの日常用語は消えてしまったが、コトバというものは人間の必要により生まれ、用が無くなれば消えて行くものであるという事を、ここでもしみじみと感じさせられるのである。
〜次回に続く〜
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宗祖日蓮大聖人新池御書にのたまわく
無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、地獄の使のきをふものなり寸善尺魔と申すは是なり
【創価学会のみなさんへ】
現在創価学会では、このように日蓮大聖人様の御教えを法燈連綿と伝えてきた歴代法主上人を無視し、学会会長をその位置に座らせるなどと大謗法を繰り返しています。
このような大恩をないがしろにする宗教団体に明日はありません。
一日も早く脱会し、大聖人様まします清浄なる大石寺に御登山申し上げ、真っ当な信仰生活を送りましょう。
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でわまた、しーゆー