日蓮正宗のススメ

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1238夜:天皇陛下が入信することには、たいした意味などない?

天皇陛下が、戒壇の大御本尊様を受持される日をお待ちしております。

kofukuと申します。創価系ブロガーです。
貴殿は、天皇の入信が広宣流布だと言っていますが、大聖人様はそのようなことを仰っていません。
そんな広宣流布観は、とうの昔に戸田先生が破折済みですよ。
もっと勉強しなさい。
世界中の人々が信心することを広宣流布って言うんです。
そもそも天皇制自体が民主主義に反します。
民衆の時代に時代錯誤です。

kofukuさん、メールへの投稿ありがとうございます。
御意見は、コメント欄でもメール porigin@yahoo.co.jp でも随時受付中です。
忌憚のない御意見、お待ちしています。

目次

天皇陛下の受戒が順縁広布の出発点

1 戸田城聖の思惑について

創価学会が「国立戒壇」の建立をその最大の目標とし始めたのは1950(昭和25)年である。それまでは抽象的表現として「広宣流布」を唱えていたに過ぎず、この時から具体的に「国立による本門戒壇」建立を目指した宗教活動=折伏が活発化し始めたのである。
1950(昭和25)年11月12日、第5回本部総会の席上で戸田城聖は学会トップの座=理事長職を辞任した。
後任には彼のライバルでもあった矢島周平(のちに出家し、日蓮正宗僧侶となった故・矢島秀覚)を推し、戸田自身は、《第二代の会長、第三代の理事長を推薦、推戴、学会の前途を、あくまでも見守って》いくとして、自らは第一線での活動から身を引くが如く語った。そして、その直後の発言において、《広宣流布は、仏意であり、仏勅であります。(中略)しかし、国立の戒壇は、まだ建立せられず、現在にいたっております。それこそ、末代にのこされた仏勅といわなくて、なんでありましょう》と「国立戒壇」について初めて言及したのである。
これを契機として学会員の間には急速に「王仏冥合」「国立戒壇建立」の思想が浸透して行った。
1951(昭和26)年5月3日に、戸田は学会の第二代会長として復活しトップの座に着いたが、その就任式の席上で再び「国立戒壇」の必要性について次ぎのように述べている。
天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書(みきょうしょ)を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに、御本尊様を持たせることだ。こうすることによって、はじめて国立の戒壇ができるのである》
この段階に於ける「国立戒壇」建立の条件は発言にあるように、「天皇」の帰依や「一日も早い「御教書」の下附(かふ)」にあるのではなく、「国中」の人間「みんな」を日蓮正宗に帰依・入信させるということにあったが、これはあくまでも「国立戒壇」建立に到る手続きであって、具体的な方法論は未だ明らかではなかった。
その方法論が示されたのは1954(昭和29)年4月29日の“一支部一部隊結成式”であった。
そこで戸田は、《戦争で負けたということになって、広宣流布は、ずっと早くなってくる。必ずできる。軍隊という、おっかないものがありません。枢密院という、じゃまなものもありません。もう、こわいものは国会ひとつなんです。こうなると、御教書は出る。広宣流布にはもってこいの態勢が整っている》と述べ、広宣流布を果たし国立戒壇を建立するには「御教書」を必要とするという考えを示した。

2 創価学会が政治進出した理由

1954(昭和29)年11月22日、創価学会に本部組式として「文化部」が設置された。
初代部長として鈴木一弘男子青年部第一部隊長(後に公明党参議院議員・現在、創価学会埼玉県本部)が任命され、翌1955(昭和30)年2月9日に54名の文化部員が誕生した。
彼らは国会進出前の小手調べとして、地方議会への進出を目的として任命された者達であった。
同年4月に行なわれた統一地方選挙の結果は、立候補52名の当選を見た。この選挙を通じて学会は組織の地域割りに着手した。
従来の折伏系統による=タテ線に対しこの地域によるヨコの連帯はブロック(制)と呼ばれ、以後その役割を増し、1970(昭和45)年のタテ線廃止により学会の基本組織となった。
ブロック制への移行の主な要因として、ひとつには選挙の際の票割り、そして社会への対応化=市民権の獲得のための地域活動重視をあげることができよう。
もちろんこの場合の対応化は、日常の近所づきあいや折伏を通して選挙の際の票集めを兼ねるという性格のものであったことは言うまでもない。
これ以降、1970年の「言論出版妨害事件」収束まで、創価学会の選挙活動は「文化闘争」と呼ばれ、「折伏闘争」「題目闘争」とならんで日常活動の「三大闘争」といわれるようになったのである。
1954年は他に9月の東京練馬の区議選挙で文化部員藤井富雄(現・東京都議、新宿)が初出馬にかかわらず最高得票で当選した。
学会が地方選挙において計53名の当選者を出したのは、彼らの政策等が国民の支持を得たということではなく、戦後政治の再編成期にあってその余勢を借りてのものであったと言えよう。
すなわち1954(昭和29)年11月には吉田内閣が倒れ、1955(昭和30)年8月には第一回の原水爆禁止世界大会が行なわれ日本原水協が結成された。
また、左右両派社会党の統一が10月に実現し、11月には自由党民主党による保守合同が行なわれるなど、政治の潮流も55年体制という新たな動きを見せた時期であった。
そのような政治に対する国民の関心の高まった社会状況の中に進出した学会は、巧みにその流れを利用し、また、その勢いに乗じて翌1956(昭和31)年の参議院進出を果たしたのである。

3 選挙活動と折伏がリンクし始める

1956(昭和31)年7月の参議院選挙に先立つ3月31日に行なわれた本部総会の席上で戸田は、折伏活動と選挙活動、宗教活動と政治活動とを“功徳と罰”の理論で関連づけて、選挙活動に対する学会内部の消極性を批判したが、それを受けて『大白蓮華』6月号では、「本年度三大闘争方針の意義」と題して、《信じる信じないにかかわらず、全民衆に、殊に指導階級の人々に、国立戒壇建立への深い理解を持たしめねばならない。ここに文化活動の必要が生じてくる。そして、主権在民の今日における、『勅宣御教書』への道は、真に憂国の真心によって、国会議場へ送り出すことによって拓けてくるのである。今回の参議院選挙は、広布の一段階として、対外的に考えられる一つの文化活動の姿である》と学会員の文化活動を煽った。
学会でいっていた「文化活動」もしくは「文化闘争」とは前述したとおり「選挙活動」のことであり、これは政教一体の印象を回避するためのテクニカル・タームであった。
また、「対外的に考えられる一つの文化活動の姿」という考え方が、後の池田時代にいたって「総体革命」という全方位浸透路線へとつながっていくのである。
更に同文ではつづけて、《若しもこの戦いに敗れて、会長先生の大構想の一角を崩し、広布途上におおきな蹉趺を来すようなことになったら、我々は(中略)仏の聖業を阻む、魔ではないか。自ら魔の動きを現じて、無間地獄に堕ちるか、はたまた仏勅のままに大勝利への戦いに勇猛精進し、大功得を受けきるか。大御本尊様の御前に、自らを省み、自ら悔いなき真心の闘争を、固く固くお誓いしようではないか》として“罰論”をもって会員自身が積極的に選挙活動に参加するよう義務づけた。
ここで注目されるのは「仏の聖業」という言葉である。ここで言われている「仏」とは文脈からみて、戸田のことを指すものと判断することが妥当と思われる。
つまり、後年、池田時代になって学会批判の格好の材料となった「池田本仏論」の前段としての「会長本仏論」の萠芽が、ここにすでにあったといってよいのではないだろうか。
ただし、この段階での「会長本仏論」はけっして個人崇拝的な色彩が強い「戸田本仏論」などというものではない。
いづれにせよ、これらの定義づけによって、純粋に信仰による幸運を求めて来た学会員は、否応なく宗教的政治運動への参加を余儀なくされたのである。

4 王仏冥合理論

参議院選挙の結果は全国区2名、地方区1名の当選者を見、半数当選を一応の勝利とした。また戸田は機関誌『大白蓮華』8月号から「王仏冥合論」の連載を開始し、6回にわたって政治進出の教学的理論づけを行なった。
その冒頭において戸田は、《このたびの参議院選挙戦では、大いに社会の注目をひいた。宗教団体であるわが学会人のなかから、政治家をだすのかということについて、内外ともに、いろいろの議論がでている。たとえば、日蓮正宗を国教にするとか、また何十年後には、衆参両院の議席を学会人で占めるとか、または創価学会が日本の政治をとるとかいう、あらゆる妄説が唱えられている現状である》と述べて、「国教化」「衆参両院の議席獲得」「政権獲得」などの議論を全て「妄説」として否定したが、続けて、《しかしわれらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである》と全く矛盾する内容を述べている。
たしかに戸田の存命中は「衆参両院の議席獲得」「政権獲得」は否定され続けたが「国教化」については否定も有名無実であったと言えよう。
これに反し第二期に入ると池田会長のもとに「国教化」は完全否定され、残る二つは公明党の結成によって反古となってしまった。
もっとも戸田が「衆参両院の議席獲得」「政権獲得」を打ち消しても、彼の愛弟子のひとりであった池田大作参謀室長(当時)は12月の第五回男子部総会において、《身延を代表した内閣(引用者註・石橋湛山内閣を指す)が組織されることは、まさしく戒壇建立の暁にはわが学会員にとり、かつ、わが男子青年部の手によって内閣を結成して、王仏冥合を、大聖人様の御予言を達成すべき瑞相ともいえる》と述べ、後の政権を目指す政党としての公明党の誕生を予言するかのような発言をしている。
もしくは、この発言を踏まえて公明党の結成および衆議院進出が決定されたと言うべきであろうか。
池田の発言は往々にして大言壮語の観があるが、かつての1954(昭和29)年3月に行なわれた男子青年部第一部隊総会でも、《今後の闘争は、政界、経済界、教育界への進出にある》と激をとばし、政界への進出、更には今日の創価学会の広範な活動、つまり総体革命路線を予測させる内容を、その発言中に示唆していた。

5 三大秘法抄と一期弘法付属書の位置づけ

三大秘法抄は御書を学ぶものが、まず第一に学ぶべき重要法門書である。
一期弘法付属書は相伝書である。
それぞれの御書の位置づけは違うのであって、相伝書のほうが重い。
相伝書でも総付・別付の違いがあり、一般に公開閲覧できる相伝書は総付にあたる。

日蓮一期弘法付嘱書    弘安五年九月  六一歳
 
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
   弘安五年壬午九月 日                日蓮花押    
血脈の次第 日蓮日興 

国主が御授戒を受けたならば、本門寺に事の戒壇を建立しなさいとの仰せである。

四十二、下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり。(新編1699㌻)

一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(日興跡条々事1883㌻)

戒壇建立のときは、富士山に本門寺を建立して本堂に、戒壇の大御本尊様を御安置しなさいという、日蓮大聖人様の御遺命である。
しかし、戸田さんの広宣流布観は三大秘法抄に重心が置かれているようだ。

戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。此の戒法立ちて後、延暦寺戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山の座主始まって第三・第四の慈覚・智証、存外に本師伝教・義真に背きて、理同事勝の狂言を本として、我が山の戒法をあなづり、戯論と謗ぜし故に、思ひの外に延暦寺の戒、清浄無染の中道の妙戒なりしが、徒に土泥となりぬる事云ひても余りあり、歎きても何かはせん。彼の摩黎山の瓦礫となり、栴檀林の棘となるにも過ぎたるなるべし。夫一代聖教の邪正偏円を弁へたらん学者の人をして、今の延暦寺戒壇を踏ましむべきや。此の法門は理を案じて義をつまびらかにせよ。此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。(三大秘法稟承事1595㌻)

特に赤字部分が戸田→浅井に受け継がれる、国立戒壇思想の要文だ。
私はこの三大秘法稟承事の「王法仏法に冥じ」が、一期弘法付嘱書の「国主此の法を立てらるれば」に符合すると考えるのだが、いかがであろうか?
つまり、戸田も浅井も順序を逆に読んでいるのである。
王様が正しい仏法を信じ、広宣流布の先頭に立つことが一番ですよってこと。
民主主義が一番だと思っている人には、なんで?ってなるかもしれないけど、つまらない民衆に広まったあやしい宗教を、帝王がしぶしぶ承諾するってんじゃ、王の威徳もへったくれもなくなってしまうだろう。
戸田さんも浅井さんも、敗戦前の日本を知っている。
天皇御神体に奉じて、世界大戦に敗北した姿を見ているんだ。
だから、天皇に怨嫉の心がある。
池田さんにいたっては、在日帰化人の噂が絶えない。
朝鮮を文化大恩の国とか、韓日友好なんて言うくらいだから、絶対に天皇の権威なんて受け入れられない。
たとえ、この国が根本の妙国であっても、天皇が仏法外護の大使命ある国主であっても。
ちなみに、大聖人様がお生まれになったのは、日本史上初めて天皇が臣下に敗北して島流しになった、承久の乱の翌年なんだよ。
御書を読めば天皇家が正しい仏法を奉じないことが、国家の衰亡に直結する旨を多岐に述べられている。
神国王御書と諌暁八幡抄を熟読して欲しい。
今日はこの辺で。