1015夜:魔説
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以前、「唱題行について」と題してブログを書いたところ、先日、長野の妙相寺のご信徒さんから
「この指導はどなたのですか?」
と質問がきました。
なにせ、30年以上前、法華講に入講した時に入手したもので、当時から記名がなかったので、分からないことをお伝えすると、その方が根性で調べてくれました。
作者は南之坊・蘇生講講頭の
(故)福島源次郎氏でありました。
ここに改めてご報告いたします。
さて、唱題行について、
今回は出処が明確な御法主上人の御指南を記しておきます。
「(唱題は)御本尊様を仏様と拝し、境智冥合するところに功徳があるのです。
ところが今の創価学会はどうですか。
そのように拝するのではなくて、
『我々の身体に具わっておる仏界を涌現するのだ』というのです。
いわゆる‟仏界涌現”ということでありまして、この言葉は皆さん方も聞かれたことがあると思います。
もっとも、今申し上げた『一心を見れば仏なり』という境界を感じた時に、それがそのまま、仏様の仏界によって我々の仏界がそこに顕れたという事であれば、その『仏界涌現』という言葉自体が特に間違っておるということは無いかも知れません。
しかし、最近では
『御本尊は実体ではなく、象徴である』
という事を言っているようであります。
つまり
『御本尊といえども、妙法の法理を象徴的に表しているのに過ぎないのであって、本体は自分自身の内にある。したがって、その自分自身に具合わっておる妙法十界互具の当体の上から、象徴である御本尊に向かって唱題を唱えることにより、自分の仏界をそのまま顕すのである。それが‟仏界涌現”ということである』
という趣旨であります。
ちょっと聞くと、あるいは正しいように聞こえるかも知れませんが、
これは大きな魔説であります。
この『仏界涌現』は、実際は仏界ではないのであって、池田大作の大邪見、大魔見により、そのような狂った見解・指導が出てくるのであります。
それはともかく、我々日蓮正宗の正しい僧俗は、御本尊を御本仏様の御当体と拝し、その仏界に我々が境地冥合させていただくことによって、我々の仏界を開かせていただくということでなくてはならないのです。
そこを忘れて‟仏界涌現、仏界涌現”と拝んでいても、観心本尊抄に『但仏界計り現じ難し』と仰せのとおり、我々凡眼では仏界を拝し難いのです。
特に今の創価学会の者どもが、御本尊のことを象徴と軽く考え、いわゆる浅織謗法、憍慢謗法の考え方を持ちつつ、いくらお題目を唱えて‟仏界涌現”を待ち望んでも、絶対に仏界は出てきません。
これについては充分に気を付けてもらいたいと思います。
このところは唱題行の根本であり、池田大作の指導に見られるような狂った考えをもっていかに唱題に励んでも、結局は地獄に行く以外ないのです」
日顕上人御指南
平成6年 第一回講頭・副講頭指導会の砌
創価学会員の題目は兎に角早い!
それは、何でも数にこだわるからです。
学会にいた頃は3,000遍/時間で計算していました。
ですが、このテンポで唱題をしていると
「お前の唱題は遅い!」と叱られマス
なので男子部時代は3,300~3,400遍くらいだったでしょうか。
早い人は1秒に1遍ですから1時間に3,600遍位になります。
「私は4,000遍よ~」なんて自慢してるツワモノの女子部がいましたが
4,000遍になるともう「南無妙法蓮華経」が
「なめこ」になってしまいます。
唱題会は「なめこ、なめこ」の大合唱です。
今となったら笑い話ですね〜
日寛上人は
「唱題は遅からず、早からず」と御教示です。
いずれにせよ
このニセ本尊に、
「なめこ、なめこ」と血の涙を流して唱えても、「境地冥合」どころか「仏界涌現」すら遠く及ばす、地獄の一丁目行きのバスに乗って
こんなものさっさと取っ払いましょう!!
小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ
(光日房御書)
次の話は沼津の本広寺の(故)本間義乗住職から直接聞いたお話です。
昭和40年代後半、時の日達猊下に呼ばれ
「最近学会では会長本仏論が当たり前のように指導されているそうだが、この事実を調べるように」
と仰せつかり、佐々木秀明師と調査に乗り出したそうです。
すると、熊本で発行されていた「火の国」という小冊子に「池田先生に帰命する」という文言を皮切りに、学会内には「池田先生は現代の仏様」「現在の大聖人」などという「会長本仏論」が当たり前のように広がり、洗脳されておりました。
このことを日達上人に御報告すると、
「最近どこかに新しい仏が出現したようなことを聞く」
「日蓮正宗の教えではないものが広まっても広宣流布とはいえない」
と、あの有名な御発言があり、その後あの52年路線が始まりました。
(アタシも少年部時代から洗脳され、池田センセーは仏様だと信じて疑わなかったなぁ~)
この「火の国」の記事を書いたのが、前出の福島源次郎氏です。
古い学会員の方ならご存知のとおり、氏は「次期会長候補」の一人でした。
当時の大幹部たち 福島源次郎氏は後列右端。東大経済学部出身。
本部第一庶務出身の女子部員いわく「それはもう魅力的な話をする方だった」そうです。
しかし氏は「会長本仏論」を振りかざした張本人であり、52年路線の一端を担った人であります。
このように信心は紙一重であり、ちょっとしたミスで沢山の人を地獄の道ずれにしてしまうということです。
コワいですね~
ただ、過去の信心に問題があっても、改心した後、唱題行についてここまで記した文章は称賛に値するでしょう。
御本尊様は象徴ではありません。
唱題は単なる「誓願文」でもありません。
「御本尊を御本仏(日蓮大聖人)様の当体」と拝し、唱題は「早からず・遅からず」朗々と唱えてまいりましょう。
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宗祖は生きている!
「常住此説法」
大聖人様のお声をお聞きましょう!
仏界湧現。。。多くの人が騙されていたんじゃないでしょうか?
今もそんな風に捉えている人もいるかもです。
仏性があるということの誤解。
仏性とは空性のことで、心田です。
人界のことなんですよ。人界も空性ですから。
御題目を唱える修行は人間でなければできませんよね。
変化することが許された心とでもいうのでしょうか。
時間の発現の場でしょうか。
心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや。十界互具・百界千如・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり。(法華取要抄文段)
の通りです。
創価の魔説を洗い流し、心から祖道の恢復を実現いたしましょう。
日蓮正宗聖典を購入し、地道に研鑽の努力をしていきましょう。