日蓮正宗のススメ

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1234夜:『報福原式治状』日寛上人 全文

世間では切り抜き動画が流行ってますが…

皆さんこんにちは。
御訪問下さり、ありがとうございます。
やっと、休日です。
仕事が定着しなかった頃を思い出しますと、とても有り難いことです。
今の仕事に就職したのが、2017年。
2010年に顕正会を離脱し、勧誡式(​かんかいしき)を受けましたので、法華講に再入信(創価2世なので赤ん坊の時に、御授戒は受けていました)してから7年かかりました。

2007年には、顕正会での悪業が積もり積もって、自殺を毎日考えるようになるほどの大罰を受けました。そこから3年、何をやってもうまくいかず、職を転々としなくてはならない状態に。

3年間、七転八倒の苦しみと、喪失感からくる虚脱状態に苦しみました。
身体も重度の糖尿病、痛風を発症し、30代で死ぬかもしれないような、そんなボロボロの状態になりました。

それでも、御授戒を受けたお寺を訪問し、当時の在勤僧侶から折伏されて法華講に戻ることが出来て助かりました。
この間、父も亡くなりましたが、昭和の創価時代に亡くなった母同様、日蓮正宗の葬儀と追善供養で成仏させてあげることができました。
罪障消滅の時期は、罰の時期とは自分の心持は変わっていましたが、かなりつらいものでした。
それでも、かつてのような自殺願望は消えました。
不思議で仕方がありません。

さて、今日は日寛上人様の『報福原式治状』全文をご紹介いたします。
先日、勤行要典の解説をアップしましたので、現実に修行の基本である勤行・唱題にどのように向き合うべきか、私個人の考えを書いてみたいと思います。
正式な勤行は勤行要典の解説を御参照ください。

 

nichirendaihonin.hatenablog.com

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『報福原式治状』日寛上人 (原文は漢文)

林氏勤行の次第を尋ねられ候。当山行事の次第、

 初座は 十如 寿量 諸天供養、
 二座は 十如 世雄 寿量 本尊供養、
 第三座は 十如 寿量 祖師代々、
 四座は 十如 寿量 祈祷、
 五座は 十如 寿量 法界回向 なり。
 
是れ則ち丑の終わり寅の始の勤行なり。

 若し黄昏は

 初座 十如 寿量 本尊供養、
 二座 十如 寿量 祖師代々、
 三座 自我偈三巻 法界回向なり。

若し堪えたらん人は本山の如く相(あい)勤むべし。
若し爾不(しからず)んば 十如 自我偈 題目なりとも五座三座の格式、相(あい)守るべし。

但し仕官の身 公用抔(など)の時は乃至題目一遍なりとも右の心向けに相勤むべしと御伝え候可く候

林さんという方が、勤行の仕方について教示を願い出られていたようです。
そのお返事という形での返報でしょうね。
当時の五座三座の形式を最初に書かれています。
そして、可能な人は本山の勤行の通りに修行しなさいと御指南されています。
これは、現代の日蓮正宗の化儀と同じですね。
化儀即化法ですから。
化法というのは三大秘法です。本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇です。
この三大秘法は、人即法の戒壇の大御本尊様に全て具わっています。
故に一大秘法とも、三秘総在ともお呼びするのです。
そして仏力・法力・信力・行力の源泉です。
化儀というのは人が実践する方法です。
いわゆる信力・行力ですが、その源泉は丑寅勤行ですよということです。
本門の題目には信行具足といって、大聖人様の信力・行力が具わっています。
そこに人界の衆生が唱題し、境智冥合することで仏力・法力が流れ通ってきます。
これを信心の血脈というのです。
夕勤行は、一日を生きて過ごせたことへの感謝です。
さて、在家の人は生活スタイルが様々ですから、機根に応じて頑張ってくださいとのお励ましが続きます。
まず、在家の人で時間的余裕があっても、長時間の勤行がしんどくて無理という人は、せめて十如 自我偈 題目でいいから五座三座の形式を守りましょうと。
これはどういうことかと言いますと、現在の引き題目の部分を題目100遍唱えていたからなんです。
超ロングスタイルですね。正式な勤行は勤行だけで、1時間くらいかかってたんじゃないでしょうか?
私の場合、現在の五座は勤行で35分くらいかかりますが、これでもかなり短くなっているんですね。
上代は、座の意味通り、天壇・本堂・御影堂・客殿・墓所を巡回して行われていたようです。
そして、最後にお勤めに出るような人は、お題目一遍でもいいので御本尊様に唱えてから出かけましょうと。
これは、懈怠を許しているのではないのだと思っています。
懈怠というのは、創価学会顕正会のように化儀を勝手に簡略化・改変してしまって、それを正式の勤行・化儀だと主張し、自己流の流儀を立ててしまうことなのです。
もちろん、創価学会顕正会は破門・講中解散を言い渡されていますから、化法の受持が出来ていません。
そもそも、同列に議論できないのですが、相手の邪難に応戦する言説がSNSで流通していますから、五座三座じゃないと懈怠謗法になる、みたいな強弁が法華講諸氏から出てしまうのでしょう。

本来、修行の励ましは御僧侶から信徒へ向けてなされるべきことですから、信徒ですらない創価民・顕正民と化儀の話をする必要はないのです。
彼奴等は法盗人ですから、こちらの手の内を知ってディスってくるのでしょうが、それに乗っからされてしまうことはないのです。

まずは、日蓮正宗の御授戒・勧誡式を受けましょう。
こころから懺悔して、御本尊様を下付していただき、自宅に安置させていただきましょう。
そして、毎日の御給仕(樒の水換え・お水のお供え・御仏飯のお供え)をしましょう。
蠟燭に火を灯し、お線香を焚いてお題目三唱から始めてください。
末法にここまで自発的にできれば、大したものだと思います。
そして、五座三座の正式な勤行の仕方をお寺で学び、実践できるようになったら実感できます。
本物の勤行はこんなにスッキリした気持ちになれるのかと。
これは作法受得の戒の効用です。
口業(お題目を口で唱えること)と身業(御本尊様の御前で正座し合掌すること)で、自然に意業(心の姿)に如是作として作用する事の修行だからです。
ブラック企業にお勤めの方や、不規則な勤務の方も大勢おられると思います。
私もその一人です。
仏法を捨てることなく、死ぬまで続けて行きましょう。
今は、SNS等で自分の修行っぷりを自慢する人もいます。
それがいつの間にか消えてしまって、音信不通になるひとがいます。
それが拙きものの習いというものです。
他人の信心を気にせず、自分に可能な限り精一杯やっていきましょう。
創価学会が一時期どんなに折伏したり、御供養したと自慢したところで今はゼロなんですよ。
他山の石として、退転さえしなければ成仏できるんだから、続けて行きましょう。

そして、創価学会顕正会で苦悩に沈んでいる皆さん。
よくよく思い返して日蓮正宗に帰って来ましょう。
池田大作も浅井昭衛も、日蓮正宗で信心して途中までの自分をつくったのです。
慢心して、自分のおかげと思った時点で終わったのです。
戒壇の大御本尊様から離れてしまっては、何の意味もない根無し草。
流れ着く先は無間地獄です。
元祖異流儀の京都要法寺・驥尾日守と日應上人様との対論、弁惑観心抄を読んでみてください。
大きな気付きが訪れます。
驥尾日守は、日蓮正宗を日寛党と呼んでいます。
まるで創価日顕宗と呼んでいるのと同じなのです。
京都要法寺はかつて、日蓮正宗猊下を輩出した傍系門流です。
それがあの為体。
北山本門寺は日興上人様の建立された学問所ですよ。
それが身延の手先。
異流儀とは戒壇の大御本尊様を忘れたところから起こるのです。
そして、信心の血脈は、猊下様から御授戒を受けた御本尊様を経て、自分の師匠の御住職様から流れてくるということも。
日寛上人様の『報福原式治状』が御教示くださる真意は、信徒の分際は流れてくる血脈を化儀を真似て信力・行力とするということなんです。
まさに、作法受得ですね。

宗教の宗とは「宗とは所作の究竟なり、受持本因の所作に由つて口唱本果の究竟を得(本因妙抄)」ですからね。

 

法華取要抄文段 三七  

本門の題目とは信行具足するなり。何ぞ止(ただ)唱題のみならんや

 

 


 第六  本門の題目を明かす

 

 れ本門の題目とは即ち是れ妙行なり。聖人垂教の本意、衆生入理の要蹊ようけいただ此の事に在り。あに池に臨んで魚をあえて網を結ばず、かてつつみて足をつかね、安座して行かざるべけんや。故によろしく妙行を励むべき者なり。

当に知るべし、行に始終有り。いわく、信心は是れ唱題の始めなり。唱題は是れ信心の終りなり。是れ則ち刹那せつなの始終、一念の因果なり。妙楽大師云く「理に依って信を起す。信を行の本と為す」等云云。亦云く「一念信解とは即ちれ本門立行のはじめ」等云云。を以て之を言わば、信心は目の如く、唱題は足の如し。目足具足して能く寂光におもむくなり。天台云く「智目ちもくぎょうそくをもって清涼しょうりょういたる」等云云。

当体義抄に云く「当体蓮華を証得してじょう寂光じゃっこうの当体のみょうを顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」云云。
 此の一文に三大秘法は了々明々たり、学者見るべし。当に知るべし、心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心にみ、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、しきしん何ぞ別ならんや。十界
・百界千如せんにょ・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり。

当流深秘の血脈抄に云く「しゅうとは所作しょさ究竟くきょうなり、受持本因の所作にってしょうに本果の究竟を得」等云云。
 甚深甚深、口外すべからず。故に本門の題目とは信行具足するなり。何ぞただ唱題のみならんや。若し他流のやからは口に妙法を唱うと雖もただ是れ宝山の空手なり。是れ即ち本門の本尊を信ぜざるが故なり。
 法蓮抄に云く「信くして此の経を行ぜんは手くして宝山に入り、足なくして千

里の道をくわだつるが如し」等云云。いかに況んや本迹一致のだい僻見びゃっけん、蓮師違背の大罪をや。何ぞ無間むけんまぬかれん。悲しむべし、悲しむべし。