日蓮正宗のススメ

法華講員の千夜一夜随想録

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創価学会・会長考(3)(4)

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創価学会の二代会長の戸田城聖氏は、実質的な初代会長と言っても過言ではありません。

なぜなら初代会長の牧口常三郎氏は戦中、不敬罪、及び治安維持法違反で逮捕され獄中死してしまいます。

 

その後、氏が創立した「創価教育学会」は壊滅してしまい、戦後、新たに戸田氏が「創価学会」として発足したからです。

また「創価教育学会」は教員が主体でしたが、戸田氏は広く一般民衆を布教の対象にしました。

その後の創価学会は、以前書いたように破竹の勢いで会員数が増え、宗門を呑み込む位の勢いになっていきました。

さて、その頃の老僧の回顧録を紹介します。

「昭和24.5年頃であったかと思います。

 

神田の創価学会本部に在京の在勤者が数名招かれ、訪問して学会幹部と懇談したことがありました。

 

責任者のような形で日顕上人が参加しておられましたが、終わって外に出ると、路上にて日顕上人と戸田会長が50センチくらいの間隔で向かい合い、ジーっとにらみ合ったまま数分間続いた後、別れて帰った、という事がありました。

 

 

どのようなことからそのような状況になったか分かりませんが、学会がもの凄い勢いで折伏を始めた頃で、僧俗の筋目に関わる問題で意見が分かれたかもしれません。(中略)

 

その時分、学会は、お寺で集まりがあった時によく “唄を忘れたカナリアは、後ろの山に捨てましょか、いえいえそれは可わいそう” という歌を歌いながら僧侶のほうを見ていました。

 

明らかに嫌がらせで、僧侶は折伏をしないで、という目でした。」(主意)

 

(藤本日潤御尊能化の追悼談より)

 

    【右下、その頃の日顕上人】

 


時に戸田先生 50才
日顕上人 28才

また、昭和27年、創価学会が宗教法人設立する際、宗門内では反対意見が大多数を占めるなか、『生活の面倒は見るから』と言う口約束のもと、一本釣りで僧侶を買収していきました。
(買収される側もどうかと思いますが・・・)

そんな中、『それは違います!』と最後まで反対した青年僧侶が故、日顕上人でした。

戸田氏は疲弊しきった総本山に見切りを付けていたのか、小ばかにしていたのかは分かりませんが、その数年後起きた『狸祭り事件』でも分かるように「坊主何するものぞ!」と言う考えはあったかも知れません。

実は師匠の牧口先生も掘米師(後の日純上人)を吊し上げると言う不遜な事件を起こします。

また私が学会に所属していた平成の頃でも『お寺に行くな!行くと寺信心になる』と叱られたものです。

『寺に行くな』と言う指導は戸田先生の時代からあったのです。

 

 

しかし、私は良い意味でも悪い意味でも戸田先生は『日蓮正宗の昭和の功労者』だと考えています。

私は登山した時はまず三師塔にお参りし、その後で戸田先生のお墓参りをしています。

35年くらい前の出来事です。


ある時、涙を流しながら戸田先生のお墓参りしているご婦人がいました。


話を聞くと当時、戸田先生の納骨式に立ち会っていたそうです。


その時の感慨に浸っていたのでしょう。


戸田先生のお骨はすごく大きかったと話されておりました。



さて、
ここで一つの疑問があります。


戸田先生の死相です。


私は信じたくないのですが、その死相を見た原島昭氏の手記です。 

公明党初代委員長を歴任した原島宏治氏の長男で、元・学会教学部長だった嵩氏の兄

 

「4月8日の朝、遺体は白金台の自宅を出発して、池袋の常在寺に着いたのは御前10時半頃でした。

それから常在寺の二階に移して、一階で祭壇を作るまでの短い間に、学会の主だった人達と最後のお別れをしました。

このとき、私も戸田さんの死に顔を見ました。

苦悶の表情でした。

戸田さんの死に顔は、目をかっと見開いていました。

顔は青白く、歯もむきだしにした怖い顔でした。

でも、こんなことは当時だれにも言えませんでした」
 

とあります。
 

また同じく、その死相を見た池田センセーは原島氏に『師匠が地獄に落ちたら、弟子のお前も一緒に地獄に落ちるか?』
と詰め寄ったそうです。

これを以て、思うにセンセーも師匠である戸田氏の死相に疑問を持ったことが分かります。


 

大聖人様はこの「死相」について


『色をば 悪 ( あ )しくして 人に笑わせたもうな』(兄弟抄)

 

『我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し。其の時我を恨む可らず』(顕立正意抄)

 

とまで厳しく御指南されています。

御書の銘文に従えば、残念ながら戸田先生は地獄の相を現じたことになります。

戦後「一人立つ」の精神から、会員を75万世帯にまで増やし、現在の創価学会の礎を築いた会長としては、あまりにも悲しい結末ではないでしょうか?


現在の創価学会「僧侶不要論」を喧伝し、学会葬なる独自の葬儀を執り行っております。

しかし、平成12年、戸田先生の奥様がお亡くなりになった際の葬儀は、日蓮正宗の化義により厳粛に執り行っなわれました。

(この事実は創価学会員には秘匿されました)

 


【正宗の化義により行われた戸田 幾さまの葬儀】


私もこの葬儀に会葬させて頂き、亡き戸田先生の御冥福もご一緒に祈念させて頂きました。

師弟不二』を標榜する池田センセーは、この師匠の奥様の葬儀に参加しなかった事は言うまでもありません。

しかも葬儀会場には一見してそれと分かる目つきの悪い創価学会員がウロついていたのが不気味でした。



それでは創価教育学会を創設した牧口常三郎とはどんな人物だったのでしょう?

いわゆる『戸田門下生』と呼ばれる(私の母など)人達はまだ存命の方もいらっしゃるでしょうが、戦中に壊滅した『牧口門下生』なる人々は存在しておりません。

池田センセーですら、会ったことがない方です。

氏の著した『創価教育学体系』などを読んでもピンと来ない人が多いのではないでしょうか?

肖像写真を見ると、口をへの字に結び、いかにも『教育者然』としております。

 



以前も書きましたが、牧口先生を折伏した人物は、同じ教育者だった三谷素啓氏(目白学園・校長)です。

(この三谷素啓氏を折伏したのが総本山・第56世日応上人と書いたのは前回のとおりです)


 

 

【牧口氏が入信に至った経緯】

ある時、経済誌の取材で牧口氏の考え方などを取材した記者・藤本秀之助氏が、三谷氏に牧口氏を紹介したのが始まりでした。


当時、三谷氏は東京の信徒有志で作った直達講(日蓮正宗)の講頭をしていました。


藤本氏もまた直達講の信徒でした。

当時はまだ法華講連合会などは無く、各寺院の信徒の小さな集まり(講)でした。

私が所属する妙光寺も草創の頃は「三ツ木講」や「蛇窪講」「京橋講」などの小さな講の集まりでした。

(現在は1区~11区まで区分けされています)


牧口氏が入信したのは昭和3年の春、その年の秋に戸田城外氏も三谷氏に折伏され日蓮正宗に入信しましす。

妙光寺に三谷氏が御所持されていた日応上人御図顕の常住御本尊が所蔵されていますが、その御本尊の授与書きには『大正7年3月18日 日蓮正宗東京信徒 三谷素啓』とあります。

三谷氏はそれ以前に入信したことが分かります。

また「東京信徒」とあることから、まだ「直達講」を立ち上げる前だったのでしょう。


 

ここから話しがややこしくなりますが、日蓮正宗の近代史が詳しい方なら理解も早いはずです。

妙光寺初代住職は冨士本智境師で、冨士本師の姉弟子は佐野広謙尼(日蓮正宗始まって以来の尼さん)

 

【冨士本智境師】

             【佐野広謙尼

 

 

佐野広謙尼と冨士本智境師は元々「完器講」の在家僧でしたが、その後、日霑上人代に正宗に帰服しました。

 

完器講とは江戸末期、越後(新潟)に生まれた堅樹院日好の流儀を信ずる一派が起こした講の名前です。

 

日好は本迹一致派(日朗門)から転向し、一時は大石寺に帰伏しましたが、我流を主張し、大石寺教学に傾倒しながら、『折伏をしないのはけしからん!』と大石寺を誹謗、攻撃しました。

 

しかし、広謙尼は師僧であった日報の死にざまに疑問を抱いいた後、改心して大石寺の門に入りました。

 

 

日蓮正宗では女性は出家できませんが、広謙尼は帰伏僧ということで特別に日霑上人のお弟子に許され、「妙寿日成」という名を賜り、九州に10ケ寺を建立しました。

 

 

三谷氏はその完器講に所属していました。

 

 

その頃の牧口氏は田中智学氏が作った「国柱会」に入っていたのです。

国柱会・・・元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。

田中智学の弟子が山川智応。

 

正宗史にはあまり関係ありませんが、戸田先生の講演集など読んでいると、時々出てきますので名前ぐらいは覚えといてください。(笑)

~ 続く ~

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