1139夜:最蓮坊とは誰だったのか?
- 公式ジャンル記事ランキング:
- 団体・サークル546位
こんにちは
今回は久しぶりに上古に戻って歴史のお話です。
題して
「宗史(勝手に)三大ミステリー」
以前「まりのよう光たる物」という題名で、龍ノ口の頸の座に現れた「光りもの」をちょこっと(勝手に)ミステリアスに検証いたしました。
今回は第二弾!
「最蓮坊は実在した僧侶か?」と題して推理したいと思います。
御書の各所にこの名前が登場するので、みなさまよくご存じの僧侶だと思います。
「最蓮坊」を学会版・御書辞典で引いてみると
・生没年不詳 京都生まれ。
天台宗の学僧であったが、罪を得て佐渡に流罪中、日蓮大聖人に帰依した。
病弱で折伏はできなかった。
とあります。
では時系列で当時をおさらいしましょう。
本日10/10(文永8年の)
神奈川県の依智を出発して10/28日に佐渡に到着します。
幕府から「大罪人」のレッテルを貼られた大聖人様の元に念仏者たちが大挙として押し寄せます
ご存じ「塚原問答」ですね~
この問答があったのが年明けの1/16~17日
この時の御様子は種々御振舞御書に
「阿弥陀仏の大怨敵日蓮憎し」のシュプレヒコールで、佐渡全土はもちろん、越後・越中・出羽・奥州・信濃と
つまり北日本全域より数百人の念仏僧や真言の小法師が塚原の堂の前に集結したとあります。
三密どころではありません。
「震動雷電の如し」とあります。
それほど
「阿弥陀仏の大怨敵日蓮」の名声は鎌倉~北日本全体に広まっていたのでしょう。
それらの念仏者がわめき散らしているところを
「利剣をもって瓜を切り」
「大風が草をなびかすが如し」
とバッサバッサと破折します。
すると
その場で袈裟をと平念珠を捨てて
「念仏はもう唱えません」と誓約書を書きだす坊さんまで出てきます。
1対数百人の法論は大聖人様の圧勝で終わりました。
最蓮坊さんは同じ天台宗の僧侶として、この問答をつぶさに見ていたのかも知れません。
驚いたでしょうね~
同じ天台宗の先輩僧侶の舌鋒あざやかな法戦を目の当たりにして
で
その2週間後、最蓮坊さんが入信(帰依)します。
とまあ
ここまでの話は納得できますよね~
最蓮坊さんの入信動機としても、
問題はここからです。
この直後、入信間もない最蓮坊さんに
「生死一大事血脈抄」と「草木成仏口決」という重要な書をたて続けに書かれます。
開目抄や観心本尊抄を著される前段階の重要な御書です。
そしてこの大聖人様のニ大重書をお著しになったあとも
「諸法実相抄」や佐渡三部作といわれる「当体義抄」を贈られます。
特に「諸法実相抄」の追伸には
「日蓮が相承の法門を書きまいらせ候き、(中略)此の文あひかまえて秘し給え、日蓮が己証の法門等書きつけて候ぞ」
とあり、また「当体義抄」の送状にも
「此の法門は妙法所詮の理にして釈迦如来の御本懐・地湧の大士に付属せる末法に弘通せん経の肝心なり、国主信心あらん後始めて之を申すべき秘蔵の法門なり、日蓮最蓮坊に伝え畢ぬ」
とあります。
よっぽど大聖人様の御目に叶った僧侶だったんでしょう。
御自分のお弟子さん(日興上人)たちより優秀な僧侶のように見えます。
果たして本当にこのように傑出した僧侶が大聖人様のおそばにおいでになったのでしょうか??
このように大聖人様から重書を贈られ、期待された僧侶が忽然と消息が不明になり、折伏もしなかったとはどういうことでしょうか?
大聖人様から「相承の法門」や「秘蔵の法門」を授かった最蓮房は、その後、忽然と姿を消してしまいました。
そのような重要御書を頂いたのなら、六老僧、いや七老僧として名前を残しても良いはずです。
宗史に名を残す大活躍をされてもおかしくありません。
「相承・秘蔵の法門」を授かったのですから、大聖人様の後嗣として、血脈相承をお受けになられても不思議ではありません。
ですが、全く表舞台から姿を消してしまいました。
その後の最蓮房は、赦免されたのか、京都に戻ったのか全く分からず、消息文もありません
ここがミステリアス、
宗史(勝手に)三大ミステリーなのです。
では本当に「最蓮房」は実在した僧侶なのでしょうか?
実在していたとさたら「最蓮房」とはいったい誰なのでしょうか?
章安大師が書いた「魔訶止観」の序文に「説己心中諸行法門」とあります。
「説己心中諸行法門」とは自分の心の中に行ずるところの法門を説く、と読みます。
法華経の見宝塔品に出てくる宙に浮いた宝塔も、二仏並座も釈尊己心の宝塔であり、釈尊己心のニ仏並座です。
従地沸出品に出てくる地面から湧き上った六万恒河沙という、とんでもない数の地涌の菩薩も、釈尊己心の菩薩達でした。
と言うことは・・・
最蓮房とは大聖人様己心の「最蓮房」という可能性が大です。
それと
摩訶止観は、理行の一念三千ですので、どこまで行っても自身の己心止まりで限界があります。
このままでは大聖人様の「秘蔵の法門」も「相承の法門」も「理行」となって同類となってしまいます。
末法の御本仏たる大聖人様の仏法は、末法万年・尽未来際まで続く「事の一念三千」です。
ということは、実際にこの「法門」を授ける(相承する)相手がいなければなりません。
この頃、佐渡には常随給仕されている日興上人がおられます。
また、実際の「相承」は日興上人が御受けされるわけですから、事に約せば最蓮房→日興上人と言うことになります。
大聖人様はこの時に
「後継者は日興である」と決めていた事になります。
理に即すると最蓮坊とは大聖人様己心の最蓮坊であり
事に即すると常随給仕されている日興上人である。
とアタシなりに推理いたしました。
皆さまはどのようにお考えですか??
三大ミステリーの最後は何でしょうね~~
皆様のお考えををコメントしてくださ~い
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
身延、中山、池上の坊さんたち
ここまで深読みしてるかなぁ~
まぁしてないだろーなぁ~
このように歴史からも正邪が判別できますね~~
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ちなみに
日本史三大ミステリーとは
①邪馬台国はどこにあったか??
③坂本龍馬を暗殺したのは誰か??
歴史って面白いですね~~
でわまた、シーユー
来週は御登山のため、お休みいたします。
引用元:最蓮坊は実在した僧侶か? | 城内啓一郎の鷗鵡老日記・なぞの僧侶、最蓮坊 | 城内啓一郎の鷗鵡老日記
城内さん、面白い記事ありがとうございます。
最蓮坊=日興上人様という仮説、そう言われればそうかもと思いますね。
常随給仕されていたのは日興上人様ですから。
納得です。
日蓮正宗の見解では、
最蓮房についての詳細は不明ですが、大聖人様より以前に、すでに流人として佐渡に流されていた天台宗の僧侶でした。
塚原問答における、大聖人様の堂々たる尊容に接し、理路整然とした御法門を聴聞するうちに、その教えこそが末法の一切衆生救済の正法であると信ずるに至り、文永九年二月初旬の頃、帰伏したものと考えられています。
大聖人様の弟子になってからは、更に様々な迫害を受けたことが本文により推定されますが、『最蓮房御返事』の 「遠国の島に流罪せらるゝの人、我等が如く悦び身に余りたる者よもあらじ。されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ、常寂光の都たるべし」(御書 588頁) との御指南を拝し、たとえ流罪の身にいかに苦難が押し寄せようとも、真実の法を修行できるならば、これに過ぎる喜びはないとの確信を深め、諸難を乗り越えていったのです。
このような中で、仏法における重大事である生死一大事の血脈についての最蓮房の質問に対し、懇切に答えられた御手紙が当抄です。
最蓮房は本抄のほかにも『当体義抄』『諸法実相抄』『立正観抄』等の重要な御書を賜わっており、甚深の法門の多くが、最蓮房を対告衆として開示され、後代に伝承されています。最蓮房の学解の深さと信仰の厚さを物語るものといえましょう。
です。
全く謎のままです。