日蓮正宗のススメ

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【神本仏迹論と狸祭り事件(1)(2)】

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神本仏迹論とは読んで字のごとく神が主人であり仏はその家来である!

という前回示した大聖人様の『新池御書』の御教示とは真逆の教義です。
 

これを言い出した正宗の坊さんは「小笠原慈聞」という坊さんでした。

 

小笠原慈聞


時は大東亜戦争真っ只中!

なんとも信じられない邪義がまたまた噴出してきたのです。

明治37年日露戦争に勝利した日本は今後も大国相手に負けない国造りを目指します。
スローガンは『富国強兵』です(学校で習いましたね(^_^;)
 

昭和12年支那事変(日中戦争)が勃発すると、

昭和13年国家総動員法が近衛内閣によって制定され

日本は徐々に大戦突入の様相に入っていきます。
 

昭和15年、近衛内閣は高度国防国家建設を声明!

(アレレ?? 現・安倍首相も憲法9条を改憲して高度な国防国家建設を目指してますね…

まず護衛艦「いずも」を空母に格上げしたり…ステルス戦闘機F-35の大量購入をトランプ大統領に約束したりと…)

昭和16年にはとうとう陸軍出身の東条内閣が誕生すると戦時動員体制を整え、

ついに12月8日真珠湾攻撃→米英と宣戦布告をしました。


しかし半年後のミッドウェイ海戦で惨敗すると、

開戦1年も経たずに日本の運命は徐々に怪しい方向に歩みだします。


すると軍部は『鬼畜米英!』『八紘一宇!』(日本書紀に出てくる言葉:世界を一つの家にすること)

と声高に叫び国民の意識を強制的に一本化していきます。

そして宗教も各派を一本化し、国家の大目的である大東亜共栄圏建設へ向かい

大前進しなければならないとの方針をとるようになりました。


日蓮宗各派も(日蓮正宗も)身延へ合同しなければならなくなりました。
陸軍の将校、石原 莞爾(いしはらかんじ)が独自の日蓮思想をもとに

身延派の策謀家とこのような謀略を推し進めたといわれております。

このころ小笠原は水魚会と云う怪しげな団体に入会しこの謀略の片棒を担ぐようになります。
一説にはこの身延派との合同が成功すれば大石寺貫主になれるとか、

最低でも清澄寺の住職に就けるとの密約があったと言われております。


がしかし、大石寺としてはとても聞き入れられる話ではありません。
なにせ法燈700年の伝統があります。
(その後軍部に対して断固反対の姿勢を貫き、昭和18年4月、単独での宗派が認められました。あ"~めでたし、めでたし)

そしてこの騒動に激怒した堀米御尊師(総本山第65世・日淳上人)は

小笠原と法論すべく向島常泉寺にて待ち構えておりましたが、
小笠原が逃亡して実現しませんでした。
 

我が、品川・妙光寺でも一悶着あったそうですが、陰でこの小笠原の策動があったとのことです。

当時の軍部は、“国家神道”と称して『日本は神国である!絶対に神風が吹く!

一億一心となって神を拝め!』と言って天照大神伊勢神宮靖国神社のなどの神札を配り、

少しでも逆らう者がいると、特高警察や憲兵隊の付け狙うところとなりました。


この頃には一般日蓮宗に対しては“曼荼羅の中に天照大神が題目より小さく書いてるとか、

下の方に書いてあるとか、はたまた『経』の文字に踏まれてる等、

もうありとあらゆる難癖をつけられ、日蓮宗では曼荼羅を改変するという事件まで起きました。

その頃、日蓮正宗に入信した牧口常三郎という白金小学校(港区)の校長先生が

昭和12年創価教育学会という団体を立ち上げ、盛んに折伏を行っておりました。

 

白金小校長時代の牧口常三郎


彼等の折伏のやり方はこうです。

赤化(共産主義化)した若い教員たちに対し、

彼らが主張するマルクス主義日蓮主義とを戦わせます。
 

負けた方が自分の主義を捨て、勝った方に従うという取り決めのもと“対論”をします。
 

当然、マルクス主義日蓮主義に勝つわけがありません。
 

次第に創価教育学会の会員が増えて行きます。
 

なので初期の創価(教育)学会は教員が多かったのです。

(なので名前が創価“教育”学会なのです)
 

昭和17年にはなんと会員数1500人とも3000人とも言われるまで増加しました。

 

   (初期の創価教育学会幹部 教員が多かった)

 

これにはちょっと訳がありました。
 

牧口は軍部(特高警察)との間に密約があったのです。
 

それは日蓮主義をもって赤化した青年たちの思想を更正する』

という大儀名分のもと、“折伏”をしていたのです。
 

ある意味それは軍部の“お墨付き”をもらったようなものでした。
 

軍部としても憲兵隊などに無駄な取締りをさせなくてすみます。
お互い持ちつ持たれつ、の関係でした。

 

なんと創価教育学会と特高警察との蜜月関係があったのです。

それともう一つポイントがあります。
 

この頃の牧口と弟子の戸田城聖は日本が戦争に負けるとは考えていなかったのです。
 

しかし牧口自身の息子が南方で戦死し、戦局が悪化するに連れ牧口の考えが少しずつ過激化していきます。
 

『この日本の危機的状況を救うの道は日蓮正宗広宣流布しかない!

従って今こそ国家諫暁の時である!』と方針を打ち出し、『取っ払え!運動』を起こしました。
 

『取っ払え!』とは日蓮正宗以外の本尊や仏壇、神札は勿論のこと神棚まで取っ払え!

ということで、牧口自らが先頭に立ってそれらを破棄していったのです。
 

*同じような行動をしていた日蓮宗系の本門仏立講は「謗法払い」と呼んでいたので

、牧口はそれと混同されないように『取っ払え!』と呼ぶようにしていた。

戦争悪化にともない軍部の統制が厳しくなるなか、牧口はなにかに取り憑かれたように行動が激化し、

その『取っ払え!』運動の指導を受けた創価教育学会の会員は500名以上に及びました。
 

おそらく自身の息子が戦死したことがよっぽど堪えたのでしょう。

そんななか警視庁に一通の投書が届きます。
その内容とはこう書いてありました。

 

~以下、次号に続く~

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