日蓮正宗のすすめ

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1103夜:境智冥合ってどうすればできるの?境智冥合したらどんな感じになるの?

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また見つかった!何が?永遠が、海と融け合う太陽が。。。

まずは私の大好きな、日寛上人様の境智冥合に関する御指南を、法華取要抄文段から拝読いたしましょう。

当に知るべし、行に始終有り。いわく、信心は是れ唱題の始めなり。唱題は是れ信心の終りなり。是れ則ち刹那せつなの始終、一念の因果なり。妙楽大師云く「理に依って信を起す。信を行の本と為す」等云云。亦云く「一念信解とは即ちれ本門立行のはじめ」等云云。を以て之を言わば、信心は目の如く、唱題は足の如し。目足具足して能く寂光におもむくなり。天台云く「智目ちもくぎょうそくをもって清涼しょうりょういたる」等云云。

当体義抄に云く「当体蓮華を証得してじょう寂光じゃっこうの当体のみょうを顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」云云。
 此の一文に三大秘法は了々明々たり、学者見るべし。当に知るべし、心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心にみ、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、しきしん何ぞ別ならんや。十界
・百界千如せんにょ・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり。

当流深秘の血脈抄に云くしゅうとは所作しょさ究竟くきょうなり、受持本因の所作にってしょうに本果の究竟を得」等云云。
 甚深甚深、口外すべからず。故に本門の題目とは信行具足するなり。何ぞただ唱題のみならんや。若し他流のやからは口に妙法を唱うと雖もただ是れ宝山の空手なり。是れ即ち本門の本尊を信ぜざるが故なり。
 

過去記事の  

nichirendaihonin.hatenablog.com

がよく読まれています。
この記事は、城内啓一郎さんのブログを、勝手に流用させてもらったものなんです。
城内さん、スミマセン。
私のブログ記事として、読んでくださるかたもおいでになると思います。
これも、広宣流布教学研鑽の一助であると思ってお許しください。
きっとみんな、自分の祈り方が間違っていたと知って驚いているんでしょうね。

唱題行は祈祷行ではない。
衝撃のお言葉ですよね。
そんなの当たり前だよ、知ってたよって方はそのままお励みください。
日顕上人様は唱題行とは、あくまでも大聖人様の御覚りと、境地冥合させていただくことだと御指南されています。 
お願い事を祈ることは悪いことではないけれど、「信」と「祈祷」は一人の心の中で同時には成立しませんでしょ?と問いかけられています。
さて、境地冥合ってよく聞くと思いますが、実際それってどうやればできるのか?
できたらどんな感じになるのか?
よくわからないと思います。

日寛上人様の御指南にそのものズバリ書かれているのですが。。。
「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。」の部分ですね。
因果俱時というのもこのことです。
唱題行には本因妙本果妙が同時に成立しているのですから。
つまり即身成仏というのは、勤行・唱題の姿を言うとはこのことなのです。
死相の判定ばかりが巷間に流布してしまっていますが、刹那成道といって実感はよくわからないかもしれませんが、日蓮正宗信徒は毎日2回成仏しているのです。

さて、「心に本尊を信ずれば」とありますが、どのような心境が信じたという状態なのでしょうか?寛尊の御指南では、「本門寿量の教主の金言を信じて」とあります。
本門寿量の教主とは御本仏大聖人様のことです。
金言とは御言葉のことですが、究極はお題目ですし、広く言えば御書四百余編と歴代猊下の御指南です。
う~ん。
迷いの森に入り込んでしまいそうですよね。
でも、さすが日蓮正宗です。
きちんと信徒のために準備をしてくださっているんです。
御経本を見てください。
二座の御観念文を覚えていらっしゃると思います。
そこには、「南無本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思境地冥合・久遠元初・自受用報身如来の御当体・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇・独一本門戒壇の大御本尊、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に」とございます。
つまり、「信」と「行」の題目といいますが、「信」とは戒壇の大御本尊様、ひいてはご自宅の御本尊様のことを「本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思境地冥合・久遠元初・自受用報身如来の御当体・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇・独一本門戒壇の大御本尊」と信じるということです。
何のことか分からない?
ならば教学研鑽のチャンス到来です。
解説本が大日蓮出版から出ていますので、購入して勉強してみてください。 

法華講に入ってしばらくして、在勤の御僧侶に教えてもらったことがあります。
「ポリ銀さん、あなたは教学の勉強が好きみたいですね。うれしいです。日蓮正宗の修行も教学も全ては、毎日の勤行で使う御経本の観念文に説かれているんですよ。単なる言葉の意味だけでなく、その奥にあるところを掴むことが出来た時、それが在家の教学研鑽の最終ゴールと言ってもいいと思います。頑張ってください。」 
そのときは、 (;´゚д)ポカーン.な感じでした。
しかし、今になって漸く分かりました。
これまた寛尊のお言葉「宗とは所作の究竟なり、受持本因の所作に由って口唱に本果の究竟を得」にある通りです。
宗教の宗とは所作の究竟であると。所作とは勤行・唱題のことです。
受持本因の所作に由ってというのは、受持即受戒、作法受得の意味です。
もっと言うと、戒壇の大御本尊様を受持するといっても、勤行・唱題の作法に由って受持するということです。
「受持本因の所作に由って口唱に本果の究竟を得」も、因果俱時の即身成仏のことです。
ですから、日蓮正宗というお名前は、日蓮大聖人様(末法御本仏)の正しい所作・作法を教え弘める宗教ということになりますね。
ですから、肝心要の「信」の当体は大御本尊様供養の二座の御観念文に、ストレートに表記されているのです。
御観念文の中でも要中の要です。
さて、「行」である「口唱」のさいの心はどうあるべきか。
これが問題の最終課題ですね。
まさか、二座の御観念文を念じながら唱題するわけにはいきません。
私は、心の中でもお題目を唱えることが肝要だと思っています。
人間の心は目覚めているとき、必ず意識は志向性をもって何かの意識たろうとします。
無心とか空無になることはありません。
また、そんなものを目指すのは邪宗です。
では、湧き起る雑念(願望・心配事・愚痴・怒り)に向けることなく、境智冥合を感得するには、御本尊様を見つめ(特に妙の御文字)、口で発声しながら心もお題目を念じる。
これに尽きるのです。
思い出してください、二座の観念文には南無がついていることを。
御題目は二座の観念文の本体であるということなのです。