「昭和6年頃の大坊」
こんにちは、
妙成寺支部の城内です。
「昭和6年頃の大坊」と題して、日顕上人の手記がありますので、前々回に引き続き当時のお山の様子をここにご紹介いたします。
(昭和48年5月号・蓮華より抜粋)
前々回の大正時代から少しだけ下がりました。
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考えてみれば、私ほど年少の時から僧侶にさせられたのは、まず類があるまい。
当時の宗規が許したのであろうが満5才と9ヶ月の時、東京常泉寺で当時の住職・桜井仁道尊師により得度した。
あっと気がついたら僧侶になっていたと言う事である。
その後、昭和3年に常泉寺住職をされていた日開上人が総本山に直られた時、私の母は常泉寺から出て、近所で3年を過ごした。
従って私もそこから小学校に通っていたが、昭和6年に総本山へ移住した。
そこから私の第一回の総本山に於ける、まぁ修行とあえて言わせて頂くが、在勤が始まったのである。
小学校3年生であった私は、いきなり大坊に入れられた。
当時、御当職は日開上人であった。
#60世日開上人
お仲居は木村慈由尊能師で、この方は霑尊(日霑上人)仕込みの行体堅固な方で、弟子の薫陶も厳格であった。
もうかなりの老齢で、いつも柔和な表情をされていたが、この方は他人をつねる癖があり「信雄や」とにこにこしながら近づいて来るといきなりつねられた。
また、飛び上がるほど痛いので2、3回やられた後は顔を見ると逃げ回った覚えがある。
宗祖日蓮大聖人650遠忌は、昭和6年の秋に7日間奉仕修され、私も白衣小僧として文字通り末席に列なることができた。
後から聞くところでは、当時は未曾有の社会的不況の時代で、米の値段が下落して、総本山の小作料もなかなか入らなかったそうである。
総本山の財政も非常に苦しく、当職の日開上人はもちろん、役員も大変なご苦労で、通常経費にも事欠く中を、御遠忌の大法要と大事業をなされたと聞いている。
御遠忌事業は三門の修復、客殿、大玄関の改修で、三門は亜鉛葺きを銅瓦にしたが、その寄進がなかなか集まらなかったという。
もちろん私は小僧でそんな事は知る由もなく、同輩と広い境内を飛び廻っていた。
大坊の食事は、当時三食ともに味噌汁だけの一汁無菜であったが、タクアンだけは美味しいのがパクパク食べれた。
学校の弁当のおかずは大抵お新香程度で、時には塩を振りかけただけを詰めて行った時もあった。
一週間に一度だけ日曜ご馳走と称して鮭とか何か一品付いて、それが楽しみにしていた覚えがある。
元来が質素な総本山のもっとも経済不如意の時代だったからやむ得なかったのであろう。
当時の所化頭は蓮興寺(沼津)住職である関戸慈晃師。
在勤の所化は11名位いたと思う。
その頃は意気盛んな所化で、また社会的に蛮カラな時代でその気風とも関係して独特の雰囲気を形成していたように思う。
当然、所化さんからはこずかれ、いつも叱られ、また、時にはソバなど奢ってもらったりしながら成長したのである。
中列右から2人目が日顕上人
中央は日開上人
その頃の勤行は、二座に世雄偈を読み、ニ、三、四座は寿量品の長行を読んだ。
従ってお経は早く、総本山伝統のくずしお経であった。
それが後に、御信者が大勢参詣されるようになると、早いくずしお経ではついてこれない。そのためいつとなく、くずしお経がなくなってしまったように思う。
このくずしお経は雨垂れ調子ともいい、早さは自在でいくらでも早く読めるが、適当な速度でくずすところに何とも言えぬ法境醍醐味があった。
また、御開扉は御宝蔵で行われたが、平均一週間に2、3回であったろう。
これはまたお経がゆっくりで、方便品、寿量品に自我偈三巻と題目でたっぷり1時間かかり、いつも足のしびれが切れた。
そのため幼いこととて身体を動かしたり、態度が悪いと必ず後で所化さんから怒られる。
それが今になって考えれば、本当にありがたかったと思う。
つまり、僧侶である以上、御本尊様の前へ座った時は、命がけで修行をすると言う心こそ、一切の根本である。
叱責される事によって自然にそう言う心掛けが身についたのである。
また、もとの大坊は板の間の部分がとても多く、ここの拭き掃除はおおむね小僧の受け持ちであった。
冬の寒い日々、毎日の拭き掃除に小僧は大体、手のしもやけがくずれ、ぱっくりと赤い口をあけていたが、医務室がある訳でもなく、つける薬も特に無いまま、春を迎えたと思う。
色々なことが今から考えると全て野蛮であり、設備不十分な時代であった。
そこへいくと、今の大坊の所化小僧さんの生活は素晴らしい。
衣食住の全てが充分な庇護と、暖かい監督の下に修行できるからである。
これ偏(ひとえに)に御法主上人猊下の御慈悲であることを心に染め所化小僧さんたる者、それぞれの立場で真剣に行学に精進して頂きたいと思う。
人間は逆境にある時の方が信念と気概を旺盛ならしめ、全て充実してくるとそれに馴れてしまい、かえって根本の精神を忘れることもあるという。
私どもが小僧として在勤した窮乏の時代も、それはそれなりに令法久住の根本精神に生きた、よき時代であったということを憚らない。
今は更に素晴らしい宗門大興隆の時代である。
願わくば大坊の所化小僧さんが、その在勤期間を通して日蓮正宗の僧侶魂を涵養し、立派な御奉公の人材に成長される事を祈りつつ、とりとめのない筆を惜くことにする。
平安寺住職 阿部信雄
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スゴイですね~~
お山も「経済不如意の時代」とか「お弁当はご飯に塩だけの時」とか「おかずは日曜だけ」とか・・・
そんな時代を経験してきた猊下だからこそ、大謗法団体と化した(大スポンサーの)創価学会を切れたんでしょうね~
イザとなったら飯と塩だけでも暮らせるのだ。
大聖人様の教えをどこまでも正しく伝えるのだ、と
平成の始め、学会問題が勃発したころ、経済的基盤が揺るがされる事を危惧して狼狽した住職たちが何人いたことか。
結果、数百人という売僧が生まれてたことは皆さま記憶に新しいことと思います。
「御本尊様の前へ座った時は、命がけで修行をすると言う心こそ、一切の根本である。」
この言葉を肝に銘じて日々努力いたしましょう。
でわまた、しーゆー
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宗祖日蓮大聖人、四恩抄にのたまわく
『僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪(たきぎ)なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず』
《創価学会のみなさん》
「僧」を否定し、歴代法主上人を経文から抹殺し、勝手な経文を捏造して凡夫である創価学会会長を崇め奉る。
もうこれは大聖人様の教えではありません。
こんな団体はさっさと脱会し、大聖人様正統である日蓮正宗の門を叩きましょう。
そして無事に年の瀬を超えられることをお祈り申し上げます。