夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録 (日本語) 単行本 – 1985/1/23 V.E.フランクル (著), 霜山 徳爾 (翻訳)
現在、解説を読んでいるところ。
出版社のHPによれば、解説は日本語版独自の挿入だとか。
「解説」と「写真・図版」について
「解説」と「写真・図版」は1956年の『夜と霧』霜山徳爾訳初版の当時、日本の読者のために、ナチス・ドイツの強制収容所の組織的集団虐殺について一般的で客観的な予備知識が得られるよう、日本語版に独自に付されたものです。
「解説」は著者フランクルの本文に先立って置かれ、二段組み60頁余におよぶものです。「本文はどこまでも一個人の体験から記述されたものであるため、これをさらに全体的に補うために、第二次世界大戦後イギリス占領軍の戦犯裁判法廷の法律顧問であったラッセル卿の記述によって強制収容所の全貌を示すこととしよう。(Lord Russel of Liverpool: The Scourge of the Swastika, London 1954.)」と書かれ、ついで強制収容所の組織はすでにドイツ国内で平和時から完成されドイツ国民の上に実施されてテストされてきていたこと、戦争中いかに占領地区の住民を恐れさせる手段として用いられ、数百万人を虐殺したか、そしていくつかの収容所の状態と生活とそこでの拷問はいかなるものだったかが、アウシュヴィッツ、ベルゼン、ブッヒェンワルト、ダッハウ、ノイエンガム、ラヴェンスブリュックに関し、詳細に述べられています。
「写真・図版」は45点の資料および地図1点を収めます。
読んでいるとパル判決書を思い出した。軍事裁判記録だから、似たような雰囲気を持っているのだろう。
目次
出版者の序
解説
1 プロローグ
2 アウシュヴィッツ到着
3 死の蔭の谷にて
4 非情の世界に抗して
5 発疹チブスの中へ
6 運命と死のたわむれ
7 苦悩の冠
8 絶望との闘い
9 深き淵より
訳者あとがき
写真・図版
目次で言うところの、解説部分はこの本の半分ほどの分量を占めている。
まさに占領軍だ。
フランクル博士は別にナチスの非道や残虐を訴えたくて、この本を書いたのではないことを断っておかねばなるまい。
この本は、博士の精神医学研究を世に問いかけるためのものだ。
誤解を避けるために新版では割愛されている。
著訳者略歴
それでも、私は旧版を推薦する。
博士のロゴテラピーが机上の空論や、観念論でないことを理解してもらうには、どうしてもナチスの強制収容所がいかなるものであったかを、知らない人には知ってもらい、疑似追体験をしてもらったほうがいいからだ。
この強制収容所の状況は、程度の差こそあれ、現在も世界中のあちこちに存在するし、日本の職場・学校・家庭に散見される。。。
人間の自己中心性と残虐性は普遍的であるのだ。心理学の実験でも証明されている。
そんな人間の悪魔的側面に直面した人々の中で、フランクル博士は生き延びる側に振り分けられた。
ナチスが振り分けたのではなく、偶然と意志の結晶として運命の賽は転がったのである。
延々と続くかに思われる、吐き気のしそうな記述に耐えて欲しい。
その後で博士の言葉に我々も癒され、救済されるであろうことを期待しつつ。
ナチスの思想的基礎を創ったと言われる、ハイデガーの実存分析(存在と時間)に影響されているところに、運命の皮肉を感じるとともに、ハイデガーの影響力の大きさも実感する。
私の恩師、木田元先生はハイデガーの人間性やナチ加担問題と、彼の哲学的功績は分けて考えるべきだと学生には指導していたな。人間的には糞だとも言っていたっけ。
思想≠人格。
私はありうることだと思う派だけど、受け入れることが出来ない人も多くて、ハイデガーの哲学が忌避される大きな要因となってるのも事実。
でも、「存在と時間」以後、真正面から人生論に取り組んだ哲学は出現していないんだよね。宗教やイデオロギーという、おとぎ話(ロマンチシズム)が混入してしまうと、それは厳密な意味での「学」ではないんだ。
フランクルの「夜と霧」は、ハイデガーの「存在と時間」と対をなす。実際と理論の関係というか。。。事と理だね。
私は死ぬまでになんとか「存在と時間」を、自分なりに咀嚼したいと願っているのだが、木田先生の謦咳に触れてから、かれこれ30年が過ぎようとしているのに、未だ入り口にも立てていないようで、恥ずかしい。。。
現在も中国や北朝鮮の強制収容所で、南米の刑務所で、限界状況に直面している実存(心)がいるのか。。。
この我々が生きる世界とはなんなのか。。。
実存主義とは、我々一人一人のこと。個別者として自己の存在を自覚的に問いつつ存在する人間の主体的なあり方。具体的状況にある人間の有限性・不安・虚無と、それを超越し本来的な自己を求める人間の運動。自覚存在。
つまりは、自分探し。
心と体と精神を全体的にとらえ、思索を進めていく。還元主義(科学=バラバラに分析する)のとは違う方法論。
それ故、重厚かつ難解なんだよな。
形而上学ってお釈迦様が時間の無駄だって切って捨てたけど、確かに答えがないものだからな。でも、それでも人間はその壁に向かって突進してしまう。
人生は不可解だからこそ、生きる価値があるのかもしれない。