日蓮正宗のススメ

法華講員のブログ

三浦春馬さんへの追悼文:人はなぜ日常に倦怠を感じるのか?恵まれし者の自死について

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三浦さんのご冥福をお祈り申し上げます。

三浦春馬さんの訃報に接した。

現代を生きる私には、リアルな知人よりもメディアを通じて、知っているような気がしている人の数のほうが多い。

このテーマだけで、現代の他者論や眼差し論が成立するのではないだろうか。

もっと言えばSNS上で知り合ったつもりの人々の多さ。

姿かたちさえも確認しようもなく、ウェブサイトの中に存在するイメージだけの人々。

いや、人々の影というべきか。

そういった幻影による、他者からの中傷で心を傷めている人が多いと聞く。

三浦さんの自死への動機は明らかになっていない。

私は彼の出演した映画を観て、その演技力に魅了された者の一人でしかない。

それでも、突然の訃報に耳を疑い、やるせない気持ちと哀しみに包まれた。

冒頭に恵まれし者と書いた。

恵まれしとは、他人がうらやみその人生との交換を望むほどの、という意味で用いた。

容姿端麗で仕事も順調そうに見えた彼。

彼がなぜ人生に倦怠を感じ、人生からの離脱を選んでしまったのか、世間の人々の憶測とは別に、私の考えを述べて追悼の言葉としたい。

人生とは何かという哲学的な疑問に、体系的に答えうる整合性のとれた見解は存在しない。

しかし、唯一確実な回答をするとすれば、それは日常であり今でしかないと思う。

人間には記憶力と想像力があるために、過去の記憶をたどったり、未来への想像に思いを巡らせることが可能だ。

可能というよりも、そのような追憶と予想に耽溺してしまう人のほうが多い世の中かもしれない。

また、夢想ということもある。

まったく現実の自分とは異なる自分を想像して、想像力の中の世界でなんらかの欲求不満を解消するのだ。

キルケゴールの「死に至る病」の冒頭部分を思い出した。

人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自体に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである

人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との総合、要するに、ひとつの総合である。総合というのは、ふたつのもののあいだの関係である。このように考えたのでは、人間はまだ自己ではない。
 ふたつのもののあいだの関係にあっては、その関係自身は消極的統一としての第三者である。そしてそれらふたつのものは、その関係に関係するのであり、その関係においてその関係に関係するのである。このようにして、精神活動という規定のもとでは、心と肉体のあいだの関係は、ひとつの単なる関係でしかない。これに反して、その関係がそれ自身に関係する場合には、この関係は積極的な第三者であって、これが自己なのである。(p.15-16) 死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス 

これが難解の誉れ高き『死にいたる病』の冒頭である。「関係」というワードが、滅多やたらに出てきて、頭の中が「関係」でいっぱいになり、内容がまったく入ってこない・・・・・・。

何度も何度も繰り返し読んでいくうちに、あるときふっと分かるようになる。

ここからは私の勝ってな解釈になってしまうのだが、人が一人称で指すような「僕」「私」「自分」などというものに、固定の実体は存在しないということではないだろうか。

あくまでも、複雑怪奇な関係性そのもの。時々刻々と変化する心模様。

そんな風に捉えている。

そう、人間の心は自分でもコントロールできない、不安定な存在なのだ。

しかし、日常は固定されているように見える。

学校、職場、家庭、種々のコミュニティ。。。

自分が属する社会の中で、人は一定の役割を荷い演じて行かなくてはならない。

さらに、人間は進化の過程で間接互恵性を身に着けてしまった。

この本能のせいで、名聞名利の虜囚になってしまう。

評判が傷つくことに、耐えられない苦痛を感じるように生まれついてしまったのだ。

人間という生き物の宿業とも呼びうる本能だ。詳しくは、過去記事を参照されたい。 

nichirendaihonin.hatenablog.com

評判というものにも、実は実体など存在しない。

自分が自分の評判を心の中で想像しているだけのものだ。

SNSのエゴサーチなどは、本来、人間について御法度の行為なのだが、そこには自分の本当の心を知らない人々の、善意・悪意による評価認識が言葉になって表示されてくる。

なんの根拠も実体もない、ただの無責任な言葉。

しかし、人間は貨幣にしろ国家にしろ、虚構概念による「空」の力によって、生物種として生き残ってきた生き物だから、虚構を実体と受け止めてしまう。

未だ焦種の者作仏すべしとは説かず。かゝる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬なり。只須く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこをたをし、忿りの杖をすてゝ偏に一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。(持妙法華問答抄296㌻)

賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。をを心(おおむね)は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給ふなり。(四条金吾殿御返事1117㌻)

雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて、夜明けなば栖つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたゝかなるに眠り忘れて、又栖をつくらずして一生虚しく鳴くことをう。一切衆生も亦復是くの如し。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。(新池御書1457㌻)

日蓮大聖人様は御本仏様ですから、人間の弱点は重々承知でして、名聞名利(評判)を気にするなかれと仰せです。 

そのためには、日蓮正宗に帰依し、戒壇の大御本尊様を受持し、勤行唱題によって自分の心を磨いていかなくてはなりません。

信心をしていても、末法の現代は世間の魔や己心の魔が活発です。

毎日の生活の中で、末法の凡夫の悪心に触れ、命が濁ってきてしまいます。

故に此の経を諸仏の智慧とは云ふなり。一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし。但し妙法蓮華経と唱へ持つと云ふとも、若し己心の外に法ありと思はヾ全く妙法にあらず、麁法なり。麁法は今経にあらず、今経にあらざれば方便なり、権門なり、方便権門の教ならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多生曠劫の修行を経て成仏すべき故に、一生成仏叶ひがたし。故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は、我が一念を指して、妙法蓮華経と名づくるぞと、深く信心を発こすべきなり。都て一代八万の聖教、三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは、ゆめゆめ思ふべからず。然れば仏教を習ふといへども、心性を観ぜざれば全く生死を離るゝ事なきなり。若し心外に道を求めて万行万善を修せんは、譬へば貧窮の人、日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分もなきが如し。然れば天台の釈の中には「若し心を観ぜざれば重罪滅せず」とて、若し心を観ぜざれば、無量の苦行となると判ぜり。故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり。爰を以て止観には「仏教を学すと雖も還って外見に同ず」と釈せり。然る間仏の名を唱へ、経巻をよみ、華を散らし、香をひねるまでも、皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり。之に依って浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば、衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明かせり。又衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦此くの如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり。(一生成仏抄46㌻)

日蓮正宗の御本尊様は、久遠元初の自受用報身如来の御当体です。

報身とは仏様の智慧です。

南無妙法蓮華経と、御本尊様に唱題することで、境智冥合し自分の心が九界即仏界となり、清浄な気持ちを取り戻すことができます。

問うて云はく、一文不通の愚人南無妙法蓮華経と唱へては何の益か有らんや。答ふ、文盲にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先ず口業の功徳を成就せり。若し功徳成就すれば仏の種子むねの中に収めて必ず出離の人と成るなり。此の経の諸経に超過する事は誹謗すら尚逆縁と説く不軽軽毀の衆是なり。何に況んや信心を致す順縁の人をや。故に伝教大師云はく「信謗彼此決定成仏」等云云。
 問うて云はく、成仏の時の三身とは其の義如何。答ふ、我が身の三千円融せるは法身なり。此の理を知り極めたる智慧の身と成るを報身と云ふなり。此の理を究竟して、八万四千の相好より虎狼野干の身に至るまで、之を現じて衆生を利益するを応身と云ふなり。此の三身法華経に説いて云はく「如是相如是性如是体」云云。相は応身、性は報身、体は法身なり。此の三身は無始より已来我等に具足して欠減なし。然りと雖も迷ひの雲に隠されて是を見ず。悟りの仏と云ふは此の理を知る法華経の行者なり。此の三身は昔は迷ふて覚らず知らず、仏の説法に扣かれて近く覚りたりと説くをば迹門と云ふなり。此の三身の理をば我等具足して一分も迷はず、三世常住にして遍せざる所無しと説くをば本門と云ふなり。若し爾らば本迹は只久近の異にして其の法体全く異ならず。是を以て天台釈して云はく「本迹殊なりと雖も不思議一なり」云云。
 悟りとは只此の理体を知るを悟りと云うなり。譬へば庫蔵の戸を開いて宝財を得るが如し。外より来たらず、一心の迷ひの雲晴れぬれば、三世常住の三身三諦の法体なり。鏡に塵積もりぬれば形現ぜず、明らかなれば万像を浮かぶるが如し。塵の去る事は人の磨くによる、像の浮かぶ事は磨くに非ずばならじ。若し爾れば転迷覚悟は行者の所作による。三千三諦三身の理体は全く人の所作に非ず、只是本有なり。また迷ひを修行する事は人の作なりといへども、但迷ひの去る処を見ざるなり。百年の闇室に火をともすが如し、全く闇の去るところを見ず。(総在一念抄115㌻)

人間とは精神です。精神とは一念心、つまりは一念三千のことです。

冒頭のキルケゴールの言う関係性の複雑さも、日蓮正宗教学を学べば明解にわかってきます。

三浦さんの訃報に、人生の無常を感じた方には、ぜひ日蓮正宗教学の精髄を書き著した「日蓮正宗要義 改訂版」 をお読みいただきたいと思います。

あらゆる思想哲学を凌駕する、本物の教えが理解できると思います。その理解は現実面への生きる力になる信心の道へと誘ってくれるでしょう。

 

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