エセー Les Essais

文人思想家のブログ

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この世の全ての宗教を打ち砕く難問:宗教がそんなにすごいのなら、なんでこの世はこんななの?(神秘の力で宗教を統一して救ってくれればいいのに)

私のブログ活動は、あくまでも縁結びであります。

信教の自由が保障されている、この現代日本においては、他人に宗教を強制することはできません。

昔若かりし頃、職場の先輩から頂いた説教に、ラクダの喩えというのがありました。

先輩「なあ、ポリ銀。お前がラクダだとするだろ、俺たちはなぁ、ラクダを水飲み場に連れてくことはできても、水を飲むのはラクダなんだ。飲ませることはできねぇ。。」

喩えの動物は、ラクダでも馬でもいいんでしょうけどね。

要するに、仕事で成長していない私に、色々とアドバイスはしてやれるけど、仕事をものにして成長できるかどうかは、お前次第なんだよ。。。と。

今なら完全なパワハラですわな(笑)。

ま、こんな抽象的なマウンティングかけられても、成長する部下も後輩もいません。

旧き良き?時代でした。

話を戻すと、宗教勧誘においては、強制的に水飲み場に引っ張て行くことも犯罪です。

かつての創価学会や、顕正会過激派などの勧誘行為は違法です。

ですから、いくら自分が正しいと信じ込んでいる宗教であっても、他人に無理やり修行させたりすることはできません。

そして、職場のパワハラ先輩じゃないですが、仮に無理やり入信させても、内心拒絶しているのであれば、いずれは音信不通になって幽霊信徒の出来上がりということになります。

ですから、私のリアル折伏活動は圧倒的に不発に終わっています。家族とごく一部の親友と呼べる間柄の人しか、信心をものにできている人は育てられませんでした。

逆に、こんなアクセス数の低いブログでも、信仰を求め、悩み、迷っている方には言葉が届くようで、他の日蓮正宗信徒のブログ共々、ネットの記事を読んで勉強になったと、感謝の言葉をいただき、喜びを共にすることがあります。

Twitterで以下のようなつぶやきをしたところ、

下記のようなお返事をいただきました。

世界の片隅で生きてます(仮) さん、いつもありがとうございます。

私の投げかけたつぶやきは、折伏活動で相手からよく出てくる普遍的な反論なんです。

なぜ、普遍的な反論かといいますと、世界的文豪ドストエフスキーの傑作、「カラマーゾフの兄弟」の白眉、「大審問官」に出てくる、悪魔とキリストの問答の淵源だからであります。

 

 悪魔の三つの問い

 『カラマーゾフの兄弟』の中の劇詩『大審問官』の中で、イヴァンは、そこに登場する(星霜降り積もる90歳ぐらいの枢機卿である)大審問官に、かっての40日間の荒野の試練といわれる悪魔とイエスとの対決で交わされた、悪魔の三つの問いを語らせます。

 まず、悪魔がイエスに投げかけた第一の問いは、誰もが知っている有名な言葉ですが、大審問官は次のように語ります。

 荒野で40日間断食したおまえ(イエス)に対して、悪魔は「お前が神の子ならば、その石ころをパンに変えてみよ」と言い、「そうすれば人類は、感謝にあふれるおとなしい羊の群れのように、おまえのあとから走ってついてくるぞ。」と誘った。

 しかし、おまえは「人はパンのみにて生きるにあらず。神の言葉によって生きる」と答えた。
 なぜなら、パンのために、人間から自由を奪いたくなかったからだ。
 しかし、おまえの言う自由はなにを約束してくれるのか。
 それは、人間にとって耐えがたい重荷にしかならないではないか。
 人間というのは、パンのためなら自由を放棄して、パンを与えてくれる者の奴隷になったほうが良いと考える。
 自由よりも、パンこそが人間にとって価値があるのだ。

 、、、、と言って、大審問官は、自由や神の言葉よりも、現実のパンの絶対的な価値を説きます。

 次に、悪魔の第二の問い「その崖から飛び降りてみよ。おまえが神の子ならば地面にたたきつけられることはないだろう」に対しては、おまえは「神を試すべからず」と答えた。

 なぜなら、それは人間から自由な信仰を奪い、奇跡の奴隷にすることになると考えたからだ。しかし、これまで現実に人間を救ってきたのは、自由な信仰というようなものではない。
 目に見える奇跡が信仰を支え、人間を救ってきたのだ。
 なぜなら、人間はそのように創られているからだ。
 人間の身体にはパンが必要であるのと同じで、人間の心には奇跡が必要なのだ。

 、、、、、と言って、大審問官は、自由な信仰よりも、人間が心底求めている奇跡こそが必要な所以を語ります。

 最後に、悪魔の第三の問い「もしおまえが、わたしのもとに来れば、すべての王国と栄華をおまえに与えよう」に対しては、「サタンよ、立ち去れ」とおまえは答えた。

 悪魔を拝し、地上の王となれば、人間を権威と力で従わせることになる。
 それでは、人間から選択の自由を奪うことになるとおまえは考えた。
 しかし、人間にとって、自分自身で選択する自由は恐ろしく不安なもので、平安も幸せをもたらしてくれない。
 だから、人間は自分の自由を進んで捧げられる主を求める。
 それは、多数者が認める者でなければならず、おのずとその権威が備わっている者でなければならない。そういう権威こそが、人々をまとめることができ、平安を与えることができるからだ。

 、、、、、と言って、大審問官は、自由な選択よりも、権威への服従こそが、人間の幸せをもたらすことを力説します。

 このように大審問官は、イエスがことごとく拒絶した悪魔の誘惑こそが、人間存在の根源に根差す価値であることを語りますが、そこには反論しがたい説得力があり、もし反論しようとすると、自分自身の現実を振りかえざるおえないところに導かれます。 

 

 

 

片隅さんのお答えにインスピレーションを受けて、思索を続けてみたいと思います。

一念三千法門は哲学的に言えば、唯心論になります。

仏の心法妙と衆生の心法妙と、此の二妙を取りて己心に摂むるが故に心の外に法無きなり。己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり。是を経に説いて云はく「如是相応身如来、如是性報身如来、如是体法身如来」と。此を三如是と云ふ。此の三如是の本覚の如来は、十方法界を身体と為し、十方法界を心性と為し、十方法界を相好と為す。是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり。法界に周遍して一仏の徳用なれば、一切の法は皆是仏法なりと説き給ひし時、其の座席に列なりし諸の四衆・八部も畜生も外道等も、一人も漏れず皆悉く妄想の僻目僻思ひ立ち所に散止して、本覚の寤に還って皆仏道を成ず。仏は寤の人の如く、衆生は夢見る人の如し。故に生死の虚夢を醒まして本覚の寤に還るを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道とも云ふ。只一つの法門なり。十方の仏土は区に分かれたりと雖も通じて法は一乗なり。方便なきが故に無分別法なり。十界の衆生は品々異なりと雖も、実相の理は一なるが故に無分別なり。百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も、十界互ひに具するが故に無分別なり。夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も、一心の中の法なるが故に無分別なり。

過去と未来と現在とは三つなりと雖も、一念の心中の理なれば無分別なり。
  一切経の語は夢中の語とは、譬へば扇と樹との如し。法華経の寤の心を顕はす言とは譬へば月と風との如し。故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し、実相般若の智慧の風は妄想の塵を払ふ。故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ。是の故に夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり。故に止観に云はく「月、重山に隠るれば扇を挙げて之に類し、風、大虚に息みぬれば樹を動かして之を訓ふるが如し」文。弘決に云はく「真常性の月煩悩の山に隠る。煩悩は一に非ず故に名づけて重と為す。円音教の風は化を息めて寂に帰す。寂理無碍なること猶大虚の如し。四依の弘教は扇と樹との如し。乃至月と風とを知らしむるなり」已上。夢中の煩悩の雲重畳せること山の如し。其の数八万四千の塵労にして、心性本覚の月輪を隠す。扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て、月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり。故に文と語とは扇と樹との如し文。上の釈は一往の釈とて実義に非ざるなり。
  月の如くなる妙法の心性の月輪と、風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓へ知らしむるを妙法蓮華経と名づく。故に釈籖に云はく「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」已上。声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切の経論の言説なり。無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり。此の極楽とは十方法界の正報の有情と、十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり。四土不二にして法身の一仏なり。十界を身と為すは法身なり。十界を心と為すは報身なり。十界を形と為すは応身なり。十界の外に仏無し。仏の外に十界無く依正不二なり、身土不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云ふ。是の故に無相の極理と云ふなり。生滅無常の相を離るゝが故に無相と云ふなり。法性の淵底玄宗の極地なり。故に極理と云ふ。此の無相の極理なる寂光の極楽は、一切有情の心性の中に有って清浄無漏なり。之を名づけて妙法の心蓮台と云ふなり。

是の故に心外無別法と云ふ。此を一切の法は皆是仏法なりと通達解了すと云ふなり。生と死と二つの理は生死の夢の理なり。妄想なり顚倒なり。本覚の寤を以て我が心性を糾さば、生ずべき始めも無きが故に、死すべき終はりも無し。既に生死を離れたる心法に非ずや。劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、剣刀にも切られず、弓箭にも射られず。芥子の中に入るれども芥子も広からず、心法も縮まらず。虚空の中に満つれども虚空も広からず、心法も狭からず。善に背くを悪と云ひ、悪に背くを善と云ふ。故に心の外に善無く悪無し。此の善と悪とを離るゝを無記と云ふなり。善悪無記、此の外には心無く、心の外には法無きなり。故に善悪も浄穢も凡夫聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す。心に分別して思ひ、言ひ顕はす言語なれば、心の外に分別も無し。分別も無ければ言と云ふは心の思ひを響かして声に顕はすを云ふなり。凡夫は我が心に迷ふて知らず覚らざるなり。仏は之を悟り顕はして神通と名づくるなり。神通とは神の一切の法に通じて碍り無きなり。此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり。故に狐狸も分々に通を現ずること、皆心の神の分々の悟りなり。此の心の一法より国土世間も出来する事なり。一代聖教とは此の事を説きたるなり。此を八万四千の法蔵とは云ふなり。是皆悉く一人の身中の法門にて有るなり。然れば八万四千の法蔵は、我が身一人の日記文書なり。此の八万の法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり。我が身中の心を以て仏と法と浄土とを、我が身より外に思ひ願ひ求むるを迷ひとは云ふなり。此の心が善悪の縁に値ひて善悪の法をば造り出だせるなり。華厳経に云はく「心は工みなる画師の種々の五陰を造るが如く、一切世間の中に法として造らざることなし。心の如く仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり。心の外に別の法無し。心仏及び衆生是の三差別無し」已上。無量義経に云はく「無相不相の一法より無量義を出生す」已上。無相不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり。文句に釈して云はく「生滅無常の相無きが故に無相と云ふなり。二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云ふなり」云云。

心の不思議を以て経論の詮要と為るなり。此の心を悟り知るを名づけて如来と云ふ。之を悟り知って後は十界は我が身なり、我が心なり、我が形なり。本覚の如来は我が身心なるが故なり。之を知らざる時を名づけて無明と為す。無明は明らかなること無しと読むなり。我が心の有り様を明らかに覚らざるなり。之を悟り知る時を名づけて法性と云ふ。故に無明と法性とは一心の異名なり。名と言は二なりと雖も心は只一つ心なり。斯れに由りて無明をば断ずべからざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失ふべきが故に。総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず。故に一切の法は皆是仏法なりと云ふなり。(三世諸仏総勘文教相廃立1415㌻)

引用が長くなってスミマセン。

三世諸仏総勘文教相廃立は超難しい御書です。

しかし、時間論・存在論など、哲学の難問がさらっと説かれています。

片隅さんの問いかけに重ね合わせて、会通させていただきますと、唯心論が陥る独我論*1を打ち破る法理は、仏の心の中に我々の心が境地冥合することにあるのだと。。。

そんな風に思えるのです。

一念三千法門を教相面だけ追究していきますと、個々人の心に、三世間*2が包摂されていますよね。つまり、ベースとなる根本の心が存在しなくては、心=世界という方程式は成り立たなくなるのでは?と思うのです。

ですから、私は、法華経譬喩品第三の「今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子」の偈を思い出すのです。

 

 

経に云はく「我も亦為れ世の父」と。経に云はく「今此の三界は皆是我が有なり 国主なり報身なり 其の中の衆生は悉く吾が子なり 親父なり法身なり 而も今此の処は諸の患難多し、唯我一人のみ能く救護を為す 導師なり応身なりと。

  今此三界の事
  
文句の五に云はく「一には等子、二には等車、子等しきを以ての故に則ち心等し。一切衆生等しく仏性有るに譬ふ。

仏性同じきが故に等しく是子なり」と。記の五に云はく「子等しきを以ての故に則ち心等しと言ふは、先づ子等しきを明かさば、子に非ざること無きが故に、故に心必ず等し。其の心若し等しければ其の子必ず等し。心は即ち心性なり、故に仏性等し。皆是子なるに由るが故に心偏すること無し。財法復多し、是の故に心等し」と。又云はく「是の故に今経一実の外更に余法無く、一切衆生皆是吾が子なり。縁因は尚散善を収む」と。又云はく「経に一切衆生皆是吾が子と云ふは、大経の中に一切衆生皆大般涅槃に至らずと云ふこと無きが如し。子の義は因に在り、涅槃は果に在り、大乗の宗要此の二を逾ゆること莫し。皆悉く有りと云ふ。安んぞ権教に順じて一分無しと云はんや」と。文句の九に云はく「是我が弟子なり、我が法を弘むべし」と。記の九に云はく「子父の法を弘むるに世界の益有り」と。
  
 主師親の事

涅槃経第一に云はく「今日如来・応供(おうぐ)・正遍知、衆生を憐愍し衆生を覆護(ふご)す。等しく衆生を視ること羅睺羅(らごら)の如く、為に帰依の屋舎室宅と作る」と。涅槃の疏一に云はく「但三号を歎ずることは、三事を明かさんと欲するなり。
 初めに如来を歎ず。允(まこと)に諸仏に同じて其の尊仰を生ず。是を世の父と為す。応供とは、是上福田にして能く善業を生ず。是を世の主と為す。正遍知とは能く疑滞を破し其の智解を生ず。是を世の師と為す」と。故に下の文に云はく「我等今より主無く、親無く、宗仰する所無し」云云。経に云はく「世間空虚に、衆生福尽き、不善の諸業増長す○

我等今より救護(くご)有ること無く、宗仰する所無く、貧窮孤露(びんぐころ)なり。一旦無上世尊に遠離(おんり)したてまつらば、設ひ疑惑有りとも、当に復誰にか問ふべし」と。又云はく「救無く護無く宗仰する所無しとは、此は無主の苦を釈す。貧窮孤露にして一旦無上世尊に遠離すとは無親の苦を釈す。設ひ疑惑有りとも当に復誰にか問ふとは無師の苦を釈す」と。

経の第二に云はく「我等今より主無く親無く救無く護無く帰無く趣無くして貧窮飢困なり」と。涅槃の疏第二に云はく「無主は是仏を失ひ、無親は是法を失ひ、無救は是僧を失ふ。若し主無ければ忠護する所無く、若し親無ければ孝帰する所無く、若し師無ければ学趣く所無からん。既に主の為に護られず、又主として護るべき無きは、即ち栄無く禄無し。是の故に貧と言ふ。既に親として帰すべき無く、又親去りて帰せざれば、即ち生無く陰無きなり。是の故に窮と言ふ。既に師として趣くべき無く、又師として趣くを示さゞれば、即ち訓無く成無し。是の故に困と言ふ」と。

又云はく「主無く親無ければ家を亡ぼし国を亡ぼす」と。又云はく「一体の仏を主師親と作す」と。又云はく「世尊を挙げて主と為すことを許し、種智を挙げて師と為すことを許し、調御を挙げて親と為すことを許す。既に主と為すことを許せば即ち其の貧を断じ、既に親と為すことを許せば即ち其の窮をのぞき、既に師と為すことを許せば即ち其の困を除く」と。

 
今此三界皆是我有
 主
 外道 天尊 色界の頂に居る三目八臂(はっぴ)の摩醯首羅天(まけいしゅらてん)・毘紐天(びちゅうてん)・大梵天王主
 儒家 世尊 三皇・五帝・三王
   竜逢・比干は主の恩を報ずる者なり
   
唯我一人能為救護
 師    
  儒家 四聖等
  外道 三仙・六師
   釈迦菩薩・常啼菩薩は師の恩を報ずる者なり
   
其中衆生悉是吾子
 親    
  儒家 父母六親 父方の伯父・伯母・母方の伯父・伯母・兄姉
  外道 一切衆生の父母たる大梵天・毘紐天
      重華・西伯・丁蘭は孝養の者
      なり、三皇已前は父母を知らず人皆禽獣に同ず

 経に云はく「唯我一人のみ能く救護を為す」と。何ぞ二人救護すと云はざるや。二人なれば必ず成弁するなり。二人同心の利、金を断つ。鳥の二羽・車の両輪・日月・父母・福智・止観・日雨・両の目・仏弟子の二人・阿闍世の月光・耆婆(ぎば)・妙荘厳王の二子・二法更互に相依る。転次に左右の仏二人与力して救はざらんや。然りと雖も釈尊は敵対無きなり。十方三世の諸仏の神通利生・慈悲済度を合して対論すとも、釈迦一仏に及ぶべからず。例せば等荷擔(とうかだん)の如き者、諸蓋(しょがい)の中の無明、中に於て荷ふ所偏に重しと云ふが如くなるべしと云云。宝積経十五に云はく「生死険難の悪道に往来し、愚癡無智にして常に盲にして目無し。誰か能く示導し、誰か能く救護せん。

 唯我一人のみ示すべく救ふべし」と。涅槃経三十五の巻の迦葉菩薩品に云はく「我処々の経中に於て説いて言はく、一人出世すれば多人利益す。一国の中に二転輪王あり一世界の中に二仏出世すといはゞ、是の処有ること無けん」と。大論の九に云はく「十方恒河沙の三千大千世界を名づけて一仏国土と為す。是の中更に余仏無し。実に一の釈迦牟尼仏のみなり」と。籤の九に云はく「十方に各釈迦の浄土有り」と。大集経に云はく「一切衆生受くる所の苦は、皆是如来一人の苦なり」と。涅槃経に云はく「一切衆生異の苦を受くるは、悉く是如来一人の苦なり」文。大論三十八に云はく「仏国とは恒沙等の如き諸の三千大千世界、是を一仏土と名づく。諸仏の神力能く普遍自在にして碍(さわ)り無しと雖も衆生度する者局り有り」文。化城喩品に云はく「第十六は我釈迦牟尼仏なり。娑婆国土に於て阿耨多羅三藐三菩提を成ず」文。寿量品に云はく「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」文。提婆品に云はく「我釈迦如来を見たてまつるに、無量劫に於て難行苦行して、功を積み徳を累ねて未だ曽て止息したまはず。三千大千世界を観るに乃至芥子の如き計りも是菩薩にして、身命を捨てたまふ処に非ざること有ること無し」文。斎法功徳経に云はく「復仏の言はく、尸毘王(しびおう)と為りて鳩に代はりて鷹に身を施し○是くの如く無量劫に於て難行苦行して、功を積み徳を累ねて仏道を求め、未だ曽て止息せず。三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許りも、我が身命を捨てし処に非ざること有ること無し、此の衆生の為の故なり。然して後に乃ち菩提の道を成ずることを得て、釈迦牟尼如来と名づく」

文。懐中に云はく「法華経二十八品に付いて、前の十四品は是迹、後の十四品は是本なり。前の十四品の中には但釈迦如来は釈氏の宮を出でて伽耶城を去りて始めて正覚を成ずることを明かす。四十余年諸の衆生の為に三乗の法を説く。人・天・修羅は皆釈迦如来浄飯宮に於て、始めて菩提を得たまへりと謂へり」文。

又云はく「後の十四品は正しく如来久遠の成道を明かす。地涌の菩薩涌出し、先づ久成の相を顕はし、寿量品に正しく久遠の成道を説く」文。又云はく「本門に於て亦二種有り。一には随他の本門、二には随自の法門なり。
初めに随他の法門とは、五百塵点の本初の実成は正しく本行菩薩道所修の行に由る。久遠を説くと雖も其の時分を定め、遠本を明かすと雖も因に由て果を得るの義は始成の説に順ず。具に寿量品の中に説く所の五百塵点の如し」文。

また云く「次に随自の本門真実の本とは、釈迦如来は是三千世間の総体、無始より来(このかた)、本来無作の三身、法々皆具足して欠減有ること無し」と。文に云く「如来秘密神通之力」と。観普賢経に云く「釈迦牟尼仏を毘盧遮那偏(びるしゃなへん)一切処と名づけ、其の仏の住処を寂光土と名づく」文。


妙法蓮華経・譬喩品第三】
 [原文]
 今此三界 皆是我有
 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難
 唯我一人 能為救護 雖復教詔 而不信受
 於諸欲染 貪著深故 是以方便 為説三乗
 令諸衆生 知三界苦 開示演説 出世間道

 [和訳]
 今、此の三界は皆是れ我(釈尊)が有なり。
 其中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而して今此の処は諸の患難(げんなん)多く、
 唯、我一人のみ能く救護を為すなり。復た、教え詔(みことのり)すと雖も、而して(その教えを)信受せず。
 諸の欲染に於て、貪著すること深き故なり。是を以って方便として三乗(声聞・縁覚・菩薩)を説き、
 諸の衆生をして、三界の苦を知ら令め、出世間の道を、開き示し演説するなり。

(今此三界合文251㌻)

日蓮正宗の勤行の最後の観念文を思い出してください。

「 乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」

自分だけでなく法界全てに平等に利益がありますように。

そして、自他ともに安らかに寂光(戒壇の大御本尊様の御内証)に、同じて帰ることができますように。

つまり、仏の心に自分の心が一体化することを願うのです。

我等は穢土に候へども心は霊山に住むべし。御面を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ。いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん。(千日尼御前御返事1290㌻)

今日は、引用ばかりですみません。

でも、御書って個々別々に書かれ、様々な時に人に与えられていますが、一つに繋がってくるんですよね。 

f:id:ekikyorongo:20210306230431j:plain

この世は神秘的で美しい

 

*1:自分の心だけが確実に存在するものだとする哲学的立場のこと。

*2:世間とは差別の義をいい、これに五陰(ごおん)・衆生・国土の三種があります。1)五陰世間=五陰とは色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の五つをいい、色とは身体及び物質、受とは感受作用、想とは心に浮かぶ表象(ひょうしょう)作用、行とは意志あるいは欲求、識とは認識作用のこと。すなわち、色心の二法の差別相をいう。2)衆生世間=五陰によって形成された衆生の生命に十界の差別があること。すなわち正報(しょうほう→生を営む主体)の差別相をいう。3)国土世間=十界の衆生の住所に、それぞれの差別があること。すなわち依報(えほう→正報の依りどころとなる国土・環境)の差別相をいう。