理性とは煩悩障の一形態なのか?
不条理とは「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態」を言うのだとか。~シーシュポスの神話 新潮文庫~
理性とは因果推察能力である。
感性は五感から受け取る印象。
知性は記憶とカテゴライズ作用。
人間は共感性能力を発達させ、他の人類種を圧倒しホモサピエンスのみ生き残った。
共感性能力を発揮するために磨き上げたのが、虚構概念の取得とはハラリ教授の見解。
でも、これは実はアダムスミスが250年も前に喝破していた見解でもある。
ここから他人の評判や噂が真実かどうか知ろうとする欲求が生まれ、理性が発達したというのが二人の見識に共通する哲学だ。
折伏に行けば、この理性こそが最大の敵であることは、弘教者なら誰でも遭遇する話。
つまり、仏法の正しさを論証し、説得する方法を求められるということ。
しかし、仏の悟りを人間の理性が明晰判明に認知することは不可能だ。
議論のみで折伏成就などありえない原因である。
作法受得の意味を自分なりに考えているうちに、人間の本性は感性の中にこそあるのだろうと思うようになった。
感性は感情と言い換えても的外れではないだろう。
芸術・文学・哲学など感性に根源を求める学問も存在する。
知識欲は人間に与えられた天罰であると、「エセー」にもある。
なぜ?どうして?
そのように問いかけてしまう煩悩。
素直に信受すれば即身成仏の仏果を遂げられるというのに。
作法受得の意味を考え抜く中で、ひとつ実感を深めたことがある。
異流儀が跋扈した平成時代、勤行の形式が他門とは違う形で再燃した。
五座三座の形式への難癖である。
上古においては云々かんぬん。
在家だから云々かんぬん。
いちいちごもっともな高説が噴出したけども、日蓮正宗の信仰を信受して、五座三座の形式を実践した日の清々しさよ。
安穏の一日。
この実感こそが動かぬ証拠だが、その実感は明晰に言い表すことができない。
言語表現にも限界があるということだろう。
仕事がハードな時に、略式や題目のみで済ませてしまった時との違い。
破門前の創価時代に五座三座していた時との違い。
顕正会時代の勤行との違い。
それぞれの違いは感じた自分にしか分からない。
いや、だからこそこのようにしてブログで書いているのだけれども。
書いていてもどかしい。
フランス文学にも一種の悟りはあったようだ。
モンテーニュとカミュに感謝しつつ。