死んだらどうなるか?
死んだ人に聞くのが正解だけど、死んで生き返った人に出会ったことがない。
いや、いたのかもしれないけれど、身近にいないというべきか?
世界には色んな宗教や思想があるが、死後の世界についての考えは以下の6通りしか存在しない。
と、思う。
1 他の人間や動物に生まれ変わる
2 別の世界で永遠に生き続ける
3 すぐそばで子孫を見守る
4 子孫の命の中に生き続ける
5 自然の中に還る
6 完全に消滅する
本当のところは、生きている僕たちにはわからない。
現に生きて存在しているからだ。
でも、いつ、どのように、死ぬのかは知り得ないけれど、僕もあなたも必ず死んでしまう。
死んでしまうのに、なんで苦労して生き続けるのか?
その理由もわからない。
あるのは、今、ここに生きて在るという絶対感のみ。
無意味な人生に意味をこじつけるのが人生
個人的には、昔から死には並々ならぬ興味というか、もっと、希死念慮すらあって、今でもしばしば死んでもいいなと思う。
なぜなら人間の人生はあまりにも意味がない。苦労して日々どうにかこうにか生きているにも関わらず、その一切が無意味というのはいかにも苦しい。
虚無と割り切って生きられない
人生は虚しい。そういうものだと割り切って生きるのも、ひとつの処世術である。しかし人間、どんなに合理的、科学的な人間であってもそうドライに割り切れるものではない。
孔子は、生きているとはどういうことかもわからないのに、死んだらどうなるか分からない、と言った。
なるほどと思われる方も多いのではないだろうか。しかし、この思想を実践して生きる、つまり、あの世をはじめ、目に見えない、具体的に観測できない一切の神秘を否定して、現世のみにフォーカスして即物的に生きるというのは、意外なほど難しい、というかほとんど不可能だ。
もんどり打って意味をこじつけてきた人間の歴史
人間は意味を求める。あれもこれもたまたま、偶然で、私が生まれとことに意味はないし、あの人が死んだことにも意味はない。
何もかも儚く、生まれて、死ぬだけ、そして、すべて、さようなら。そのようなものの受け止め方は、人間にとってはあまりにもきついことだ。
煩悩の考え方。従来、ふつうの社会生活を送ることに、悪いところはひとつもなかった。それが仏教によると、覚りからほど遠い無明で、輪廻に縛られていることになる。これまでプラスだった日常が、マイナスの価値を帯びる。
人間、意味がなければ生きられないどころか、何もできないのだ。「金になる・ならない」というような判断はその典型である。
逆に、意味さえあればなんでもできる。歴史をひもとけば、数多の宗教者が死をも恐れず粛々と命を投げ打ったのも、そこに無上の意味を見出していたからこそである。
卑近な例で言えば、我が子のためなら命も厭わない親は多いだろう。意味(価値)が人間を強くもすれば、弱くもするのである。
神がいてもいいし、いなくてもいい
おそらく、日本人のような中途半端な無神論者がもっとも脆弱なのだ。神は存在するなら存在する、存在しないなら存在しないと、自分で考え結論して、選択したうえで生きるかどうかが重要なのではなかろうかと、私は思う。
それとは逆にハイデガーは、とことんまで考え抜いた。
とりあえず、無神論に身を置いてというか、絶対的な存在とか、超越論的な存在を抜きにして、存在(人生)の意味を解明しようと試みた。
人間の生きている世界は、物理的な数量や計測値で表し得ない、意味の繋がりで形成されていることを証明し、その根源が時間と呼んでいるものであることに気が付いた。
人間自身が存在や時間の生成の場であることを突き止めたのだ。
ここでいう時間は物理的な時間ではない。
人間固有の認知能力によって記憶される過去であり、感じている今現在であり、想像される未来なのだ。
しかし、その未来は必ず死によって閉ざされる。死とはなんなのか?
逆に死にゆく人間に生を提供する、存在とはなんであるか?
おそらくハイデガーは神を想起していただろうと思われる。
僕であれば仏であり、仏性である。
仏性とは空性である。
変化生成の根源。
仏界即九界というのはそういう意味であろう。
それ自体に言葉で説明できるような性質はない。
時間というものだと思う。
ハイデガーの「存在と時間」が未完で終わっているのも、結局、無神論的に人生を説明することなど不可能であると、ハイデガー自身が覚ったからではないだろうか?
ハイデガーの哲学について、ものすごくわかりやすい説明をした記事を見つけたので、紹介しておこう。ぜひ、思索の参考にしてほしい。