日蓮正宗のススメ

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キューブラー=ロスの最期:「死」に向き合い続けてきた、女性精神科医が自分の「死」に直面した時。

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私の哲学的スタンスは、実存主義です。

実存主義の定義はあいまいですが、ドストエフスキーカミュの作品が好きです。

大学生の時に、ハイデガー研究者の木田元先生に出会ったことが、きっかけになりました。哲学科の学生として、木田先生に授業で教えていただいたことが、後の人生に大きな影響を与え続けてくれているように思います。  

反哲学入門 (新潮文庫)

反哲学入門 (新潮文庫)

  • 作者:木田 元
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/05/28
  • メディア: 文庫
 
ハイデガーの思想 (岩波新書)

ハイデガーの思想 (岩波新書)

 

ハイデガー自身は実存主義者ではないと明言しています。

存在の意味、つまり「存在(ある)とは何か?」を追究・考究する、存在論哲学者であるのだと。

しかし、ハイデガー自身の主著、存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)の冒頭で、「存在」への問いは、回答不能な問いであることに言及しています。

「存在」の定義付けの不可能さとは、「類や種は、種差の述語にはなりえないのに対し、『存在』は、類・種はもちろん、種差に対しても述語づけられうる。」ということです。

たとえば「人間は理性のある動物である」と言ったとき、「動物」が類、「人間」が種、そして「理性がある」が種差です。

類が種よりも大きな区分ですね。同じ類の中である種と別の種を区別する性質が種差です。

類種に対して「存在」が述語づけられうるというのは、「動物が存在する」「人間が存在する」というような文が書けるということです。
種差に対しても、というのは少し難しいですが、「理性を持つという性質が存在する」程度に考えておけばいいでしょう。

類や種は種差の述語になりえないというのは、「理性を持つものが人間である」とか、「いつか死ぬものが人間である」という風には言えない、ということです。
理性をもつものは人間以外にもありますし、いつか死ぬものも人間だけではありません。こういった議論を通じて、アリストテレスは「存在は類や種とは別物だ」と結論しました。

ハイデガーもこのアリストテレスの考えを踏襲しています。

まさに、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipediaの、「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」という論理哲学論考 (光文社古典新訳文庫)の結論に対する、「私はハイデガーが存在と不安について考えていることを、十分に考えることができる。人間は言語の限界に対して、突進する衝動を有している。キルケゴールもまたこの突進を見ていた。言語の限界に対するこの突進が倫理学である」1929/12/30を想起させます。

人間の言語というものは、進化の過程で得たものですから、コミュニケーション手段としては有能でも、概念や観念を言い表すには不向きという弱点があるのです。

答えが言語によって出せない、明確に表現できない問題を抱えて生きるのが「人間」なのです。

人は皆、固有の「実存」を生きています。「現実存在」の略語ですが、人間の在り方として「現存在」という用語も出てきます。ハイデガーの文章が難解なのは、こういった独自の思索用語が登場するということがあるのです。

私風に言わせていただきますと、要するに、現実を生きている「自分」に向き合うこと、つまり、いつか存在しなくなる、この自分という存在ついて考えるには、「死」の問題は避けて通ることはできませんよという、哲学の一派が実存主義の哲学・思想・文学だと、理解しているわけであります。

前置きが長くなりましたが、そんな観念論的な思考では、なかなか「死」や「存在」という究極的な問題には答えが出ません。

 

人生は廻る輪のように (角川文庫)

人生は廻る輪のように (角川文庫)

 

実際に「死」と直面している「人」に向き合ったのが、エリザベス・キューブラー=ロス - Wikipediaでした。同じく精神科医ヴィクトール・フランクル - Wikipediaが書いた、夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録も有名ですが、非日常的な実存体験の本なので、人生一般論として敷衍できるかどうかは疑問です。

フランクルは自身もナチス強制収容所に収監されており、生還できたという実体験を経ています。 

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

 

ロスは、ずっと向き合ってきたとはいえ、その「死」はあくまでも、他人の「死」でした。いざ、自分が「死」と向き合わなければならなくなったとき、ロスは発狂寸前になったと伝えられています。

それは、ロスの研究が深く正確で、観念的には「死」という現象の深奥に到達していたからでした。

生きているとき、人は

私=意識(実存)+五感の情報(肉体)+記憶

なのですが、死ぬと、

私=意識(実存)

だけになってしまうのです。

これを中有の状態というのですが、確かに想像すると怖いですよね。

時間と我々がよんでいるものも、人間の脳が因果の作用の中に観察して感じるもので、実在していません。つまり永遠の今を感じるのです。 

時間は存在しない

時間は存在しない

 

時間の非実在は現代物理学が、理論的に解明しつつあります。

仏教では龍樹が八不中道として説いているのですが。

不生・不滅

不断・不常

不一・不異

不来・不去

「中論」冒頭の有名な偈に出てきます。

不生亦不滅  不常亦不斷
不生にして亦た不滅、不常にして亦た不断、
不一亦不異  不來亦不去
不一にして亦た不異、不来にして亦た不去なりと、
能說是因緣  善滅諸戲論
能く是の因縁を説きて、善く諸の戯論を滅したまえば、
我稽首禮佛  諸說中第一
我れは稽首して仏を礼す、諸説中の第一なりと。

不来・不去、仏法では時間の実体がないことを教えているのです。

しかし、「心」のみ残るのです。「識」と呼ばれる存在です。

つまり「存在」とは「心」のことであり、「心」をはなれて何も存在しません。

生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり法性の淵底・玄宗の極地なり故に極理と云う、此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり是の故に心外無別法と云う此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり、生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顚倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す心に分別して思い言い顕す言語なれば心の外には分別も無分別も無し、言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり神通とは神の一切の法に通じて礙無きなり、此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり(三世諸仏総勘文教相廃立)

摩訶止観第五に云く世間と如是と一なり開合の異なり。
 「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り」等云云或本に云く一界に三種の世間を具す。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄

心法の不思議、これを心法妙と言うのですが、詳しくは日顕上人様の 

妙法七字拝仰 上巻

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  • 作者:阿部 日顕
  • 出版社/メーカー:日蓮出版
  • 発売日: 2013/04/28
  • メディア: 単行本
 
妙法七字拝仰 下巻

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  • 作者:阿部 日顕
  • 出版社/メーカー:日蓮出版
  • 発売日: 2013/07/16
  • メディア: 単行本
 

をお読みください。

年末年始、人は敬虔な気持ちになります。

除夜の鐘を突きにいったり、初詣に行ったりと。

日蓮正宗の正しい信仰でなければ、人生の根本問題は解決できません。

根本問題とは、「死」≒「存在」の問題です。

日蓮正宗寺院の門を叩きましょう。 

日蓮正宗 寺院紹介 全国

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死んでしまってからでは遅いのです

 

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