信仰とは何か?:人生を自分自身のものとするために
キルケゴールという哲学者の名前を聞いたことはあるでしょうか?
概説書なんかを読むと、実存主義哲学には2種類あって、有神論的実存主義と無神論的実存主義に分類されるそうです。
そんなの私に言わせれば、真っ赤な嘘。
実存とは、今を生きている「私」自身のこと、自分の人生のことを真剣に考えようという哲学です。
で、実存主義な思考を始める人って、みんな神様を信じられないからこそ、実存主義に走るわけで。。。
人それぞれの原体験があるんです。
全知全能の神様を信じられるほど無邪気でいられたなら、決して実存主義者にはなりません。
キルケゴールは、自身の出生にまつわる穢れた黒歴史に障害悩みました。
ドストエフスキーは、死刑宣告からの恩赦~シベリア流刑~作家としての成功などを経験しつつ、不信と信仰のはざまを行きつ戻りつしています。
ニーチェはキリスト教の欺瞞性と対決しつつ、発狂するまで考え抜きました。
ヘルマンヘッセは、幼少期のトラウマから不信を内包しつつ、神を求め続けます。
ハイデガーとサルトルは第一次大戦・第二次大戦に従軍し、死線を潜り抜けて実存の意義を、無神論的に探究しました。
ヤスパースとフランクルは、ナチスのユダヤ人迫害の被害者です。
カミュは結核と兵役不合格が生涯に暗い影を・・三島由紀夫に似てますね。
ピータードラッカーさんも実は実存主義者です。「もう一人のキルケゴール」という論文を書いています。
キルケゴールによると、人間とは
- 人間は、無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、可能性と必然性という2つのものの間の関係(総合)である。
- そうした2つのものの間の関係がそれ自身に関係する時、人間は自己である。
- 人間は自己として他者によって認められた。
以上、三つの要素によってあり方が説明できるとされます。
それぞれの要素のバランスが大切なんだけど、大抵の人がバランスがおかしいわけです。それを絶望と呼んだ。
それで、その正しいバランスのとり方は、信仰を基にして生きなければ実現できないと考えたんだけど、キリスト教では不可能だと内心思っていたようです。
ですから、教会抜きで、神の前に一人立つ決意なんてことを言うようになります。
でも、本物の自己になるために、自分で決断するって勇気もいるし、その決断が正しいかどうかどうやって判断するのかって問題が残るような気もします。
でも、大筋では間違ってないと思うのです。
その答えは、日蓮正宗の戒壇の御本尊様に南無し、自分の心を正しい方向に導いていただく、直達正観の修行しかありません。その修行とは、我々日蓮正宗信徒が、戒壇の大御本尊様に向かい、唱えているお題目であります。
「至理は名無し、聖人、理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時不思議の一法之れ有り。之れを名づけて妙法蓮華経と為す」『当体義抄』
と大聖人様が倶時相即、つまり直達正観。大聖人様御自身が即座開悟した、その悟られた久遠元初の名字の妙法蓮華経を唱えておるということであります。
大聖人様御自身のお悟りの法体の題目。今の私達に約して言うならば大聖人様が御図顕遊ばされましたその御本尊様の当体の題目。つまり御本尊様の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」とお認め遊ばされておるその御本尊様の題目を唱えているわけであります。
キリスト教の崇める、架空の神ではないのです。