日蓮正宗のススメ

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1133夜:日顕上人様三回忌の日に想う。

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日顕上人様の一周忌に出現した瑞相

私事ながら、今週は7連勤。
( ̄Д ̄つかれたー
今日も仕事でした。
家に帰ると奥さんが「日顕上人様の三回忌法要に御塔婆供養してきたよ~」と。
ヾ(゚д゚;) スッ、スマソ
御供養のお金を奥さんに渡して、遅ればせながら夕勤行に五座をば。
御本尊様に「私の志もお届けくださいますように」と御祈念しました。
唱題中に相伝に関する想いが湧き起り、これは、この話をブログに書けとの御仏意か?

と、いうわけで、今日は相伝に関する私見を披露し、日顕上人様への御報恩謝徳とさせていただきたいと思います。

此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。法華本門宗血脈相承事

唯授一人嫡々血脈相承にも別付総付の二箇あり其別付と者則法体相承にして総付者法門相承なり、而して法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈附法の大導師と云ふへし。又法門総付は宗祖開山の弟子旦那たりし者一人として之を受けさるはなし蓋し法門総付のみを受けたる者は遂には所信の法体に迷惑して己義を捏造し宗祖開山の正義に違背す、(中略)
大石寺は宗祖開山より唯授一人法体別付の血脈を紹継するを以て五十有余代の今日に至るも所信の法体確立して毫も異議を構へたる者一人もなし。
而して別付の法体と者則吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり、故に開山上人より目師への付属書に云く「日興宛身所給弘安二年大本尊日目授与之」云々、此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり此金口嫡々相承を受けされは決して本尊の書冩をなすこと能はす、(中略)
仮令広布の時といへとも別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非す、況や今日該抄を世上に伝播せしむるか如きは無論唯授一人の別付相承に非すして法門総付の相承なること顕然なり『弁惑観心抄』日応上人

日顕上人様の御一生は、日蓮正宗僧俗からの誹謗中傷との闘いであらせられました。
他門の連中は、そもそも二祖日興上人以来、大石寺門流の血脈相承を否定しておりますが、宗史始まって以来の信徒による血脈断絶への邪難。
未曽有の大謗法が起きてしまったのです。
日達上人様から日顕上人様への血脈相承がなかったと、異流儀化した僧俗は時期を違えながら主張し始めたのです。
さらに、その邪難はあろうことか戒壇の大御本尊様へと拡がり、他門と見分けのつかない状況へと進んでしまったのです。

なんでこんなことになってしまったのか?
結論を言ってしまえば、信心が薄かったということになるのですが、相伝というものの存在に対する大きな誤解があるからだと思うのです。

弁惑観心抄をお読みいただければ、一番わかりやすいので上記に該当箇所を貼り付けておきましたので、御参照ください。
要約しますと、第一に別附属の法体相承があるということです。
これは、戒壇の大御本尊様を相承されるということであります。
総別の二義ですね。
一閻浮提総与とうのは、全人類が修行の対境にするための本尊という意味です。
ですから、法体を書写されて信徒僧俗に授与されるのです。
公開されている相伝書は、総附属に当たるということです。ですから、法門相承は信徒僧俗総てに対する附属であります。
さらに、唯授一人金口嫡々相承があるのですよと。
これは、広宣流布の時にも公開されません。
猊下様にならない限り知り得ないのです。
それ故、知りたいと思う輩の妄想邪推が起こってきたのが、昭和・平成の血脈相承否定騒ぎだということでしょう。

創価学会などは畏れ多いことに、「700年も伝わる伝言ゲームなど存在しない」「相承箱を見せろ」「金紙はどこにあるのだ」。。。邪難に加えて裁判まで起こしました。
血脈相承の時間を特定しようと躍起になってみたり、相承の現物を見せろと強弁したり。
でも、裁判なんかに提出するはずもなく。
それで、裁判所も判断を放棄したのに、勝ったと嘯いて。。。
みっともない限りです。

常随給仕(じょうずいきゅうじ)という言葉を知らないのでしょうか?
本山で修行して御僧侶になられ、日蓮正宗の化儀を習得されます。
そして、猊下様の御傍で仕えるようになり、様々なお話を拝聴するでしょう。
その中に相伝が含まれているのです。

御僧侶と親しくしていれば、在家信徒も縁に触れ様々なお話を拝聴します。
私自身にも覚えがたくさんあります。
そして、不思議にもその記憶は鮮明に残るのです。
現在では日蓮正宗という宗派が、鮮明に確立しております。
御授戒を受けて御開扉を受ける資格があれば、信徒の分際として血脈が流れてまいります。
そして、時宜に叶い機根に叶った教導が、妙法の力用によって現前してくるのです。
猊下様の相承は、先代の猊下様からだけ流れてくるのではないのです。
法体たる戒壇の大御本尊様から直接流れ通ってくるのです。
そこをわきまえないから、最後は現証として戒壇の大御本尊様を信受できないという、最大の罰を被るようになるのです。

御文に云はく、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱へ申し候なり。但し聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。此の経の修行に重々のしなあり。其の大概を申せば、記の五に云はく「悪の数を明かすをば今の文には説不説と云ふのみ」と。有る人此を分かって云はく「先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり。一に憍慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり」と。此の十四の誹謗は在家出家に亘るべし。恐るべし恐るべし。(松野殿御返事1046㌻)

有名な御書ですが、異流儀は皆この通りになっていますね。
日蓮正宗を恨んでいるのです。
最初が憍慢というのがまた図星です。
私は松野殿の慢心を誡められているのかとも思っています。
相伝を何かのマニュアル本みたいに勘違いしているから、裁判なんか起こす阿呆になるのですね。
日顕上人様のお書き物は、祖道の恢復を願われて著されております。
年代順に拝していけば、その御内証が本懐を遂げていく姿が分かります。
祖道は、創価学会の紛い物教学から、日顕上人様の御尽力により真実の教学へと変貌を遂げました。

日蓮正宗要義 改訂版から百六箇種脱對見拜述記まで、御供養と思ってご購入いただきじっくりと研鑽なさってみてください。
日顕上人様の受けられた相伝というのは、日顕上人様御自身の人生全体であったのではないでしょうか?
宗門史を研鑽すると、歴代猊下様の一生がそのまま使命であり、相伝を体現されているように思えるのです。
そして、改めて日蓮正宗聖典を拝読するとき、戦後の復興期に日淳上人様がなぜこの本を上梓流布されようとされたのか、その真意がよくわかるようになるでしょう。
私は学会版御書全集の発刊は、日蓮正宗聖典の流布を妨げ、真の教学を対機説法の曲解へと導いたと考えています。