日蓮正宗のススメ

凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。

創価学会員さんとの対話:創価学会員さんからの回答

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話が噛み合わないのはなぜ?

創価学会員さんから、私の送ったメールについての返信が来ました。追々、分析してまいりますが、彼の回答が回答になっているかどうか?皆さまの意見をお聞きしたいと思います。忌憚のないご意見をお寄せくだされば幸いです。

まずは、私からのメール文面をば。

ポリ銀です。

 いただいたご返信への、私からの回答になります。

 相伝については、本人妙抄の「又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり」に固執したわけではありません。
 「戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承」について、私の思いつく限りの御文証を列記させていただきます。

 身延相承書 (総付嘱書)

 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
 弘安五年壬午九月 日 日 蓮 在御判
 血脈の次第 日蓮日興

 池上相承書 (別付嘱書)

 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。
 弘安五年壬午十月十三日 武州池上
 日 蓮 在御判
 
 
 御本尊七箇相承
 
 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。

 百六箇抄
 
 釈迦諸仏出世の本懐・真実真実・唯為一大事の秘密なり、然る間・万年救護の為に之を記し留む。就中六人の遺弟を定むる表事は先先に沙汰するが如し云云、但し 直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり。
 又五人並に已下の諸僧等日本乃至一閻浮提の外・万国に之を流布せしむと雖も日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり所以は何ん在世滅後殊なりと雖も付属の儀式之同じ譬えば四大六万の直弟の本眷属有りと雖も上行薩埵を以て結要の大導師と定むるが如し、今以つて是くの如し六人以下数輩の弟子有りと雖も日興を以て結要付属の大将と定むる者なり。

 日興跡条条事

 一、日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す、本門寺に懸け奉るべし

 聖人御難事

 仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。


平成3年7月31日能化文書 「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません。」について

創価学会は、この文書にある「血脈の当処」と「御法主上人」とを宗門がただちに、まったく同じものと主張しているかのように言い掛かりをつけています。しかし、この創価学会の言い掛かりは、内証と外用を、悪質な作意をもって混同させたことによるものです。
「唯授一人の血脈の当処」とは、宗祖日蓮大聖人から第二祖日興上人に唯授一人の血脈をもって相伝された仏法の一切がましますところであり、それは代々の御法主上人にそのまま伝えられています。この「血脈の当処」こそ、歴代法主上人が御本尊を御書写される御境界であり、御法主上人の御内証と拝すべきなのです。

もし法主の【内証】が違うのであれば、学会にある全ての本尊には大聖人の魂が存在しない、ということになります。【内証】が一体であるからこそ、時の法主が書写した本尊が別体の本尊として成立するのです。【内証】においては三宝一体でなければ大聖人様の仏法は成立しません。
それは、何も日顕上人様が言い出したことでなく、日蓮正宗、ひいては日興上人様門下の教義であります。

かつて第六十六世日達上人は、
「大聖人様が広宣流布の時の大導師日目上人様として、第三代を継いで現われたのが猊座であります。(中略)そこが大聖人様のお席である。だから大聖人様は、あの席に常に生れ替っている」(達全2-3-320頁) と御法主上人の御内証について御指南あそばされる一方で、「法主が大聖人様の代わりだと、即座にこういうことを言うと、外から非難されますから、よくその点に注意していただきたい」(達全2-5-451頁) と、法主上人の外用についての御教示をされています。

第六十七世日顕上人も、「たしかに本宗信徒の立場からは、歴代法主の内証を大聖人様と拝することが、信仰上、大切でありますが、そこには三宝における内証と外用等の甚深の立て分け、筋道があるのです。(中略)しかし、それと学会が論難する『法主即大聖人』や『法主本仏』などとは、筋道も意義も異なるのであり、そのようなことは全く宗門には存在しておりません」(仏法破壊の邪難を粉砕す・245頁) と、三宝における内証と外用の立て分けについて御指南されています。

これらのことからも、貴殿の質問は、創価学会に影響されたものというべきです。

また、貴殿の引用された、

平成3年創価学会解散勧告 「本宗の僧俗は、必ず戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を、信仰の根本としなければなりません。」
機関紙大日蓮1991年6月号では法華講幹部に日顕のことを「現代における大聖人様」と呼ばせています
1997年8月教師講習会 日顕「どんな僧侶でも相承を受けた以上は生身の釈迦日蓮であり誹謗すると地獄に堕ちる」

も、信徒の立場から御法主上人猊下様を拝すべきかについて、御指南下されたものであると拝察しております。

御本尊七箇相承
 
 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。

よくよく拝するべきでしょう。

謗法とは、御書に様々書いてありますが基本的には

◆凡そ謗法とは謗仏謗僧なり三宝一体なる故なり(真言諸宗違目)

とあるように三宝を謗ることをいいます。
大聖人様の仏法における三宝一体の「体」とは、いうまでもなく法体たる大御本尊です。
それを信受しないということが謗法なのです。
宗門がいつ大御本尊を信受しないと言ったのでしょうか?
私の記憶が正しければ、そう言っているいるのは創価の方であります。

また、謗法とは

◆正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり(顕謗法抄)

とあるように正法(大御本尊)を人に捨てさせるのが謗法ともいわれていおります。
これまた、私の記憶では大御本尊を信徒にすてさせたのは創価の方ではないでしょうか?

そもそも、日顕宗なんて創価学会は言っておりますが、正宗には「日顕教学」はもとより「日寛教学」なるものすら存在しません。
「日寛教学」「日寛教」などというのは身延くらいです。
対する、創価学会は自ら「創価教学」と自称し、自ら「日蓮正宗と関係ない独立した宗教法人だ」と言っているのではありませんか。

血脈を否定するのは、大聖人様直結を言いたいだけではありませんか?

それでは身延と同類だと思いますが。

なぜ、日蓮正宗の御本尊を信仰の対象にしているのですか?

回答可能であればお答えください。

そして、以下が創価学会員さんからの返信です。

二箇相承において日蓮大聖人が法を付属した対象は日興上人ただお一人であるので、それによって「代々の法主への信仰」という結論を導くことはできませんがいかがですか。

御本尊七箇之相承について
御本尊七箇之相承の第七条に「日蓮と御判を置き給ふ事如何、師の曰はく首題も釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女等も天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり、之に付いて受持法華本門の四部の衆を悉聖人の化身と思ふ可きか」とありますね。つまり「一切衆生日蓮である」という意味です。それなのになぜ後加文のみを取り上げて法主一人が特別であるかのように偽装するのですか。
また、日興上人、日目上人は御本尊七箇相承の通りには御本尊を書写していません。したがって御本尊七箇之相承は後世の偽作であると判断するのが妥当ではありませんか。

百六箇抄の該当箇所は後加文です。当然、用いられません。

日興跡条条事について
日蓮大聖人は御書の中で一度も弘安2年10月12日の御本尊のことを仰せになっていません。日蓮大聖人は、本門の本尊とは「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」三大秘法抄1022 と仰せになっています。弘安2年10月12日の御本尊のことは仰せになっていません。
日興上人は「弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す、本門寺に懸け奉るべし」と仰せになっていますが、これも弘安2年10月12日の御本尊ただ一幅を本門の本尊と定めたのではないことは明白と思います。南無妙法蓮華経の御本尊は全て本門の本尊であると考えてよいと思います。

ポリ銀さんは前のメールで「戒壇の大御本尊を信受しないのであれば実体のない法を根本にすることになる」と批判されましたが、まさにおっしゃる通りで、法とは実体のないものだと思います。法とは本来永遠不滅の存在であるはずですが、弘安2年10月12日の御本尊のような実体として存在しなければならないのだとすると、日蓮大聖人が700年前に誕生するまでは法が存在しないことになってしまうではありませんか。矛盾すると思いますがいかがですか。

聖人御難事にも弘安2年10月12日の御本尊のことは仰せになられていません。
平成3年7月31日能化文書「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。」について
ポリ銀さんは宗門の主張をそのまま引用されたようですが、ポリ銀さんご自身はこのことについてどう思われるのですか。宗門は代々の法主の内証が日蓮大聖人の内証と等しいと主張していますね。つまり代々の法主の内証は久遠元初の自受用身すなわち御本仏であると主張しているわけです。これほどの大増上慢、大謗法をなぜ見抜くことができないのですか。

謗法について 日蓮大聖人はこの様に仰せになっています。
「謗法とは法に背くという事なり」顕謗法抄455
「私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべき」四菩薩造立抄989
法そのものである日蓮大聖人に背き「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります」などという法主の勝手な主張を認めるから日顕宗などと揶揄されるのです。

「血脈を否定するのは、大聖人様直結を言いたいだけではありませんか?」について
法主から法主への血脈が根本であるなどということを日蓮大聖人は仰せになっていません。

「なぜ、日蓮正宗の御本尊を信仰の対象にしているのですか?」について
創価学会員は日蓮正宗の御本尊を信仰の対象になどしていません。日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の御本尊を拝しています。

あくまで日蓮大聖人の御書のみを用いようとする僕をポリ銀さんは馬鹿にしているようですが、御書根本・依法不依人の精神は日蓮大聖人が数多の御書の中で弟子に教えられていることです。ポリ銀さんは法主の言うことは絶対に正しいと考えておられるようですが、一体どこにその保証があるのですか。

日蓮大聖人はこの様に仰せになっています。
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は日蓮に違わずして宣説す可きなり」御義口伝巻上744
日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」四菩薩造立抄989
「設い天台の釈なりとも釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之を用ゆ可からざるなり、依法不依人の故に」立正観抄528
「仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず」唱法華題目抄9
「唯人師の釈ばかりを憑(たの)みて仏説に依らずば何ぞ仏法という名を付くべきや。言語道断の次第なり」持妙法華問答抄462
「仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり」如説修行抄502
「設い仏菩薩為りと雖も法華涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず況や法華涅槃に依らざる論師・訳者・人師に於てをや」守護国家論67
「論師人師の料簡を閣いて専ら経文による」善無畏三蔵抄881
「仏法は強ちに人の貴賎には依るべからず只経文を先きとすべし」聖愚問答抄481
「此の経の信心と申すは少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ」新池御書1443
「今の人他の所引の経論を信じて謂いて憑み有りと為して宗の源を尋ねず謬誤何ぞ甚しき」真言見聞148
これらの御文を拝すれば、御本仏日蓮大聖人以外の誰人の言葉も信じてはいけないということが明白にわかると思いますが、いかがですか。
また、日興上人はこの様に仰せになっています。
「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」日興遺誡置文1617 
「案立若し先師に違わば一身の短慮尤も恐れ有り」五人所破抄1616 
僧宝日興上人といえども日蓮大聖人が仰せになっていない法門を立ててはいけないということです。
「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して」日興遺誡置文1618
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」日興遺誡置文1618
日蓮大聖人の御書を根本にするべきであって、法主であろうとも御書に背いたならば用いてはならないと仰せになっていますね。
なお、法華講員の中には「之」とは「己義」を指すのであって「貫首」を指すのではないと主張する人もいますが、その解釈は誤っていると思います。なぜなら日興上人はこの様に仰せになっているからです。
「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯有りと雖も衆徒に差置く可き事」日興遺誡置文1619

「謗法とは法に背くという事なり」顕謗法抄455
「謗は是れ乖背の名・絓て是れ解・理に称わず言実に当らず異解して説く者を皆名けて謗と為すなり己が宗に背くが故に罪を得」十法界明因果抄427 とあるように、「己義を構える」とはすなわち謗法を犯すという意味です。謗法とは人間が犯しうるあらゆる罪の中で最も重い罪です。謗法を犯すよりもはるかに軽い罪である媱犯を犯したとしても一般信徒に降格させるべきであると仰せになっているのですから、法主であろうと己義を構えるという大罪を犯したならば当然一般信徒に降格させるなり破門するなりしなくてはいけないでしょう。従って「己義を構へば之を用ふべからざる事」の「之」とは法主を指すことは明白と思います。

以上のように、日蓮大聖人はただ法のみを信じるべきことを強調され、日興上人も法主が誤りを犯すことを想定しておられました。従って宗門の「法主は絶対に正しい、法主に信伏随従しなければならない」という主張は誤っており、主張の正当性を証明するに際してはただ日蓮大聖人の御書のみを用いるべきであり、法主や他の人師の言葉を用いてはいけないということがわかると思いますがいかがですか。
前のメールにも記しましたが「戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を信仰の根本とする」という主張は「無二に信ずる故によって此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」日女御前御返事1244 「唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し」富士一跡門徒存知の事1606 との御文に違背していますね。このことをどう思われますか。
On 2019/04/21 20:29, ポリ銀 wrote:

的を得た回答になっているでしょうか?

皆さま、どう御判断されますか?

全く話が噛み合っていないように思いますが、ひとつひとつ解きほぐしていきたいと思いますが、時間がかかりそうですね。

今、一言にして破するならば、彼の回答の中の

「なぜ、日蓮正宗の御本尊を信仰の対象にしているのですか?」について
創価学会員は日蓮正宗の御本尊を信仰の対象になどしていません。日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の御本尊を拝しています。

の部分を読めば、彼(ひいては創価学会を信じる者すべて)の信仰姿勢が、悩乱の極みに達していることが、一目瞭然だと思うのですが。

いかがでしょう。論理の破たんにもほどがあります。

A≠Aという同一律に反した命題を堂々とかいちされてもなぁ。

日寛上人様の改竄御本尊をカラコピしたものだから、日蓮正宗の御本尊を信仰の対象になどしていません言うのも頷けますが、なんで血脈を否定してる日寛上人様の御本尊様を原本にするんだよって話。

日寛上人様の御本尊様は日蓮正宗の御本尊様ですよっての。

法華講員さん、創価学会員さん、いずれの立場の方でもかまいませんが、このことについてご意見をいただければ幸甚の至りです。

 

 

日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 
六巻抄

六巻抄