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1088夜:『法華取要抄文段』

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三大秘宝ではありません

『法華取要抄文段』(文段集五四五頁)
「本門の題目とは、即ち是れ妙行なり。聖人垂教の本意、衆生入理の要蹊、唯此の事にあり。豈池に臨んで魚を観、肯て網を結ばず。粮を裹んで足を束ね、安座して行かざるべけんや。故に宜しく妙行を励むべき者なり」
 
五綱三秘
大聖人様の御法門は、「五綱三秘」と申しまして、教理批判面の「宗教の五綱」と、実践修行面の「三大秘法」とに集約されます。

宗教の五綱
宗教の五綱とは、教・機・時・国・教法流布の前後の五項目に照らして、どの教えを信じたら良いか、選別することです。

教とは?
この中に、「教」とは「教相判釈」の略語で、その教えが勝れているか劣っているか、低い教えか高い教えか、浅い教えか深い教えか、経典に基づいて判断することです。
これは大旨、天台大師の五時八教の教判に基づいており、天台大師は『法華経の信解品』に説かれる、「長者窮子の譬え」に則って、釈迦一代五十年の説法の構造を明らかにされました。

長者窮子の譬え
つまり、長年生き別れになって流浪の旅を続けていた子供が、我が家とも知らず、門の所でソッと家をのぞき込んでいるのを、側近の者を遣って、急に家に連れ込もうとするのを、華厳経の擬宜(宜しきところをおしはかる)という化導に、しばらくは召使い同然の下働きではあるが、お給金を払う約束で家の中に留まらせるのに成功したのは、阿含経の誘引に、次に下働きに甘んじているのを恥じて、さらに上の段階に至らしめられたのは方等時(念仏などはこの時に説かれた)の弾呵に、長者の家の財産管理をほとんど任せられたのは、般若時の淘汰に、臨終近きになって父子の関係を打ち明けられ全財産を譲られたのは、法華涅槃時の開会の化導に配されるのです。

三大秘法のみが唯一正法
これが、お経文が色々説かれている理由であり、お釈迦様の御説法の仕組みですから、そこには自ずと勝劣があるのです。釈尊法華経を最後に説いて、過去に結縁した衆生をすべて仏の境界にいたらしめんがために、この世に御出現になったことを明らかにされたのです。
これにより「法華経が最も勝れた経」であることは明らかとなりますが、この法華経を説かれることで久遠に始まった釈尊の化導は一巡し、今度は、釈尊さえも治し得なかった法華誹謗という、謗法の重病を救うことの出来る大白法が、釈迦の末法に出現することが、法華経に説かれるのです。
それが南無妙法蓮華経であり、それをお弘めになるのが上行菩薩の再誕・久遠元初の御本仏日蓮大聖人様なのです。
これを知るのを、「教を知る」とは言うのです。

機を知るとは?
二番目の「機」とは「機根」のことで、釈尊が先に方便の教えを説き、最終章で法華経を説かれて所願満足されたのは、仏の化導を受ける人たちが、皆過去に功徳善根を積んできた、いわゆる本已有善の、本にすでに善ある衆生だからです。ただちに法華経を説いていれば、誤ってこれに背いた者が過去からの善根を帳消しにしてしまうことを恐れられたのです。
ところが、末法の私たちはそのような善根を持ち合わせていない、本未有善の衆生なので、そんな気づかいは全く無用です。この時はかえって仏様の化導の最初、久遠の無教の時……、つまり、仏法がまだ世に現われてない時(御講聞書一八四四頁六行目)に該当し、この時は下種益の仏によって、私たちの心という田んぼに、仏の種を植えつける化導が直ちに行われるのです。
つまり、私たちは皆下種の機ですから、妙法蓮華経の五字の本尊でしか救われない、と知るのを「機を知る」というのです。

下種とは何?
大聖人は『御講聞書』(御書一八五二頁)に、
「下種とはたねをくだすなり。種子とは成仏の種なり。上の経文に教無量菩薩の教の一字は下種の証文なり。教とは題目を授くる時の事なり。権教無得道・法華得道と教ふるを下種とは云ふなり」
と、御指南されています

時とは?
三番目の「時」とは、今は釈尊の御入滅後二千年を過ぎた末法という時代です。この末法という時代は『撰時抄』(八四三頁)に、
「大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり。(中略〉大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」
とあるように、旧来の教えがすべて力を失って、ただ寿量文底の三大秘法のみが功徳・利益がある時なのです。ゆえに『御講聞書』(一八一八頁)には、
「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり。されば此の題目には余事を交へば僻事なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり」
と。これを知るを、「時を知る」と言うのです。

国を知るとは?
次の国を知るとは、『御講聞書』に、「瑜伽論に云はく『東方に小国有り、其の中には唯大乗の種姓のみ有り』と。大乗の種姓とは法華経なり。法華経を下種として成仏すべしと云ふ事なり。所謂南無妙法蓮華経なり。小国とは日本国なり云々」(御書一八二四頁)
とあるように、日本国は大乗の種姓の人のみが住む国です。ですから、必ず南無妙法蓮華経をもって成仏すべき国であることを知るのを、「国を知る」と言うのです。
また『諫暁八幡抄』(御書一五四三頁)に、
「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す。あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり」
とある様に、日本という国の名は、「日蓮の本国なるゆえに日本という」とあって、かならず日蓮大聖人様が御出現になることが定められている国なるがゆえに、嘉名早立といって、御誕生以前よりすでに、目出度い名が付けられているのです。
そして、ここを基点にして全世界に下種仏法が広まり伝わりゆくことが約束されている、そういう妙国であると知ることを、「国を知る」と言うのです。

教法流布の前後を知るとは?
最後五番目の「教法流布の前後を知る」とは、医師が患者に薬を与える時に、いまどのような薬を服用しているか聞いた上で次の薬を与える様に、仏法も先に広まった教えを踏まえて次の教えが弘められます。
大聖人様は『撰時抄』(御書八六三頁)に、
「此の念仏と申すは双観経・観経・阿弥陀経の題名なり。権大乗経の題目の広宣流布するは、実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや。心あらん人は此を推しぬべし。権経流布せば実教流布すべし。権経の題目流布せば実教の題目又広宣流布すべし」
と、おっしゃっているように、現在念仏が流布しているのは、法華経の肝要、三大秘法の南無妙法蓮華経広宣流布する先序、前触れであるとのことです。
これが仏法の方程式であり、これを知るのを「教法流布の前後を知る」と言うのです。
この様に、「宗教の五綱」というふるいに掛けられて選別されたものが、三大秘法です。
三大秘法というのは、今目の前に拝したてまつる所の御本尊を、本門の本尊と申します。法華経本門寿量品の文の底に秘し沈められていたところの「独一本門の御本尊」、という意味です。

人の本尊・法の本尊
この御本尊に「人の御本尊」と「法の御本尊」の二があります。二つあるからと言って別々のものでは無く、一体のものです。それで、これを「人法一箇の御本尊」と申します。
「人の御本尊」とは「日蓮大聖人様」です。
「法の御本尊」とは「十界互具・一念三千の妙法の曼荼羅」です。
「人の御本尊」を、「法の御本尊の活現体」、「法の御本尊」を「人の御本尊の功徳の積聚体」と、判りやすく教えて下さった方もおります。
この御本尊様と私たちの懺悔滅罪の道場たる「本門の戒壇」については、幾度もお話ししていることですけど、また次の機会にお話しするとして、今日は冒頭にお読みした、「本門の題目」について申します。
まず、「夫れ本門の題目とは、即ち妙行なり」とは、『六巻抄』の『文底秘沈抄』にも同様の御文がございまして、こちらの方では「夫れ本門の題目とは、即ち是れ妙法五字の修行なり」とあるところから、「妙行とは妙法五字の修行」のことだということが分かります。
すなわち、本門の本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱える修行のことです。

聖人垂教の本意とは?
これこそが「聖人垂教の本意(※文底秘沈抄では元意)」だと、改めておっしゃっているのです。
「垂教」とは、教えを垂れられる。「教とは、聖人下にこうむらしむる言教」ですから、世は仏法不現前、仏法がまだ現われていない、いわゆる無教の時ですので、日蓮大聖人様が一迷先達して — 多くの人がまだ迷いの中をさまよっている時、一人、迷いの中から先んじて即座開悟 — 悟られ、もって余迷 — 余の迷いのただ中にある人に教えられたもの、この本命、たった一つのものこそ、本門の本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱える一行なのだ、とのご宣言なのです。

衆生入理の要蹊とは?
また、「衆生入理の要蹊なり」と。私どもが、大聖人のみ教えどおり、煩悩・業・苦の三道からこれを転じて、煩悩は即般若に、業は即解脱に、苦は即法身の三徳の境界に入ることができる、蹊要・重要な道筋なのです。
ちなみに、煩悩といい、業といい、苦というは、法華経以前に人々が心に描いていた、自分自身をはかなむ、あるいは卑しむ、あるいは絶望することで吐き捨てた言葉だったのです。
いわゆる煩悩とは心を、業とは自身の姿形や振る舞いのことを、苦とは苦の集合体という、過去の悪因による現在の悪果としてのこの身体を指して、このように言ってきたのです。

体を法身 心を報身 所作を応身
しかしこれを、法身・般若・解脱の三徳に転ずるとは、『六難九易抄』に、
「此の法華経には我等が身をば法身如来、我等が心をば報身如来、我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候」(御書一二四二頁)
と、悪しき因による苦の果・報いだけだと思っていたこの身が、本来、三千の諸法を円融具備・一つも掛けること無くそなえているのは「法身如来」と言います。
これを信解させていただいて、「我ら本来の仏なり」と悟る時を仏、これに迷う時は衆生と信心領納する時、煩悩だらけと儚んでいた我らの心が、般若・智慧の「報身如来」へと開かれたのです。
「我等がふるまひをば応身如来」とは、『御講聞書』(御書一八五三頁)に、
「一、無作の応身我等凡夫也と云ふ事
仰せに云はく、釈に云はく『凡夫も亦三身の本を得たり』と。此の本の字は応身の事なり。されば本地無作本覚の体は無作応身を以て本とせり。仍って我等凡夫なり。応身は物に応ふ身なり。其の上寿量品の題目を唱へ出だし奉るは、真実に応身如来の慈悲なり云々」
一番大本の仏様・寿量品の仏を無作三身と申しますが、この仏様はこの地球に存在する、あらゆるものの形で御出現になります。
というより、この目で見ている物すべてが、この仏様の体現・生命表現なのです。これを『草木成仏口決』(御書五二二頁)には、
「口決に云はく『草にも木にも成る仏なり』云々。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。経に云はく『如来秘密神通之力』云々。法界は釈迦如来の御身に非ずと云ふ事なし」
この中に「寿量品の釈尊」「釈迦如来」とは『御義口伝』(御書一七六五頁)に、
如来とは釈尊(中略)別しては本地無作三身なり」
とあるように「尊形を出でたる仏」、つくろわず、はたらかさず、本の侭の無作三身・宝号南無妙法蓮華経の仏様のことなのです。

草にも木にも成る仏?
この仏様が「草にも木にも成る」とはどういう事なんでしょう。草とはそれを食べる動物にとって食料となるものです。つまり、米・麦・ひえ・あわ・キャベツ・白菜・大根・ニンジン・セロリなどなどです。他の牧草や名も無き草まで、牛など草食動物のエサになり、あるいは毛虫などの食べ物となって、生命を維持する為に役に立っていることでしょう。
木は木の実や、枝や葉が茂ることで、鳥が羽を休め眠るために、外敵から身を守るため、あるいは落ち葉が腐食して雨とともに川や海に流れ、有機物としてプランクトンのエサになるなど、海の中の豊穣な生態系をつくり出しています。
このように、草や木でさえ、ほかの多くの生命の生存になくてはならない形で関わっており、いわんや空を飛ぶ鳥、大地を走る獣、海に棲む多くの生き物が互いに依存しあって、助け合って、命をささげるような姿でもって、存在しているのです。
これは、本来人間社会も例外ではありません。なんらかの役割をもってそれぞれが今ここに有ることは間違いありません。
私達の違いは仏の八万四千の相好
この地球上の様々な生命の、それぞれちがった姿を、仏様は「八万四千の(仏の)相好だ」と、おっしゃっているのです。嘘だと思ったら、例えば『総在一念抄』(御書一一五頁)を読んでみて下さい。そこには、
「八万四千の相好より虎狼野干の身に至るまで、之を現じて衆生を利益するを応身と云ふなり」
とある通りです。私たちのそれぞれ違った姿形でさえ、多種多様な仏の命の表現・現われであり、「物に応ふ身」なのです。又、『諫暁八幡抄』(御書一五四三頁)にも、「天台云はく『即ち是形を十界に垂れて種々の像を作す』」と仰っているのです。又、『三世諸仏総勘文教相廃立』にも「法華経に云はく『如是相(一切衆生の相好、本覚の応身如来)』」など枚挙にいとまがありません。
この時には、もう私たちを縛り付ける結縛の法たる宿業など無いでしょう。そこから解脱・解き放たれた、慈悲をもって応現した仏・応身如来の振る舞いへと開かれるのです。
その上、寿量品の題目を唱へ出だし奉るは、万ての人が救われゆく化他行ですから、真実に応身如来の慈悲行たることは歴然としているのです。
この様に、本門の本尊に向かい奉り、至心に題目を唱えれば、さしもの煩悩業苦の三道も、法身般若解脱の三徳と転じ、我等が身を法身如来、我等が心を報身如来、我等が姿形・振る舞いを応身如来という無作三身の境界を大きく開いていける、千載一遇の機会を得ているわけであります。
例えて言うならば、あたかも、食べることに困窮した状況でありながら、池の中に魚がウヨウヨいるのを目の前にして、ただ指を咥えてみているだけで、魚を捕まえる網を準備しようとしないのと同じです。
「粮を裹んで足を束ね、安座して行かざるべけんや」粮とは道中携帯の乾飯のことですから、これを包んで用意万端旅支度を整えながら、「足をつかね」とは、「裹足」のことで、これで「足を包み込む。恐れて進めない形容」(三省堂「新漢和中辞典」)という意味になります。行きたい、やりたいのは山々なのだが、なかなかグズグズしていて決断が出来ない。行動に移せないでいる。
「安座して行かざるべけんや」お尻に根っこでも生えたのか、何もしないでただドベーと座ったまんまで、立ち上がろうともしない。「~ざるべけんや」とは、「〜しないでいられようか」ということですから、せっかく最高の御本尊様に巡り会いながら、どうして一生懸命題目を唱えないでいられましょうか。
ですから、心して勤行唱題に励むべきなのです。

本門の題目は必ず信行具足
本門の題目は、かならず「信」「行」の二つ揃って、初めて本物といえます。御本尊を信じて、その御本尊に向かって題目を唱えることが大切なのです。

本尊即ち我が心に染みとは?
私たちが大聖人の御金言によって「御本尊を心に信ずれば、本尊が我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり」となるとはどういう事でしょう。
「本尊が心に染み」の意味を先ず考えてみましょう。「染」の字源は、木と氵(水)と九との合わさって出来ている文字で、「木等を煮つめて出来た汁の染料の中に九度つけて染める意」を表わしています。
大聖人ならまだしも、私たちは一度ではそのようなことは期待できるはずもありませんが、それでも、幾度もいくども繰り返している中で、あの御本尊の色・おすがたが、私たちの心に染まる、つまり「成り代わる」「その代わりとなる」「取って代わる」「変わって他のものとなる」私たちの心が御本尊様に成り代わる、ということです。
言い換えると、心は御本尊という大聖人のお心に成り代わっているわけですから、大聖人が私たちの格好や体で振る舞われ、御修行されていることになります。
これを、「仏界の仏が九界の衆生と成って現われて修行あそばす、いわゆる本因妙とはこのことである」とおっしゃっているのです。
日蓮正宗の僧俗は聖人の化身?
事実『御本尊七箇之相承』(平成校定日蓮大聖人御書第三巻二〇九四頁)
には、
「受持法華本門之四部之衆を、悉く聖人の化身と思ふべきか」
とあって、私たち僧俗一同は皆大聖人の化身だと思い、そうした意識で行動していきなさいと、おっしゃっているのです。
そして、口に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、「我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり」と、迷いの九界の凡夫、その身がそのままに御本尊に染み、染められ、映し出され、つまり私たちの頭のてっぺんから足のつま先までもが、あの御本尊様のような相貌・姿形と成って、成仏・無作三身の境界が開かれていることを気づかせていただけるのです。

仏は四徳波羅密
ここに、我を妙法と開き自在を得、謗法の泥にまみれない蓮華のごとき清浄な、あるいは、南無の二字の様な、我が身を唾棄すべき存在という妄想ひが思いから脱却した、すべてを受容できる楽徳、そして、三世の生命のなかの、現在世のこの限りある命を精一杯生きる、そういう常楽我浄の仏の生命に住することが出来る様になるのであります。
いよいよ励まし合いながら、希望に満ちて、広宣流布への輝かしい人生の大道を歩んで参りましょう。  

 引用元:Nichiren Shoshu Nishidaisenji