モンテーニュ よく生き、よく死ぬために (講談社学術文庫) (日本語) 文庫 – 2015/9/11 保苅 瑞穂 (著)
【哲学YouTuberなべ子】#4 モラリストになりたい~モンテーニュ市長に学ぶ "学ぶ姿勢" ~
ミシェル・ド・モンテーニュ① 1分で一日一言・心に突き刺さる言葉
ミシェル・ド・モンテーニュ② 1分で一日一言・心に突き刺さる言葉
僕は、モンテーニュと向き合うことが出来なかった。
モンテーニュの「エセー」は、モラリスト文学・哲学の最高峰だというのに。
パスカル、エリック・ホッファーが多大な影響を受けていることも知っていた。
岩波文庫の6冊セットを購入したのが、履歴で確認すると「お客様は、2018/5/21にこの商品を注文しました。」 の表示が目に入った。
もう、2年もの間、積読状態になっているのか。
もったいない話だ。
どうしてもエセーを味わいたい。
その気持ちで、 保苅 瑞穂の「モンテーニュ よく生き、よく死ぬために (講談社学術文庫)」を購入した。
「ある本に巡り合ってそれを読んでいるうちに、どうかすると無性にその著者に会ってみたくなることがある。ただそうは思っても、そのときはほとんどもうこの世の人ではなくなっている。それでもこんな人間がこの世にいたのかと思うと、それがうれしさや共感になり、ときには生きることの励みになることもある。実際そんな本に出会ったときは、日が傾いて散歩に出ても木立の緑が息づいて見えて、家の近くを流れる野川に沿った小道を歩く足取りがいつになく軽くなっている。他愛がない話である。しかし事実はそうなのであって、ただ一篇の詩、あるいは何ページかの散文であっても、それが優れたものであれば、その力がこちらの命にじかに響いて来て、生き返ったような気持にさせられるものなのだ」
冒頭の一節なのだが、保苅さんの「エセー」の魅力を語る文章に引き付けられた。
僕はあと2年で50歳になる。
それまで生きていられればだが。
人生の晩年を迎える伴侶になってくれる本が、「エセー」なのかもしれない。
そんな期待を持たせてくれる一冊だ。
特別給付金が振り込まれたら、白水社の新訳を全巻購入しようと思っている。
モンテーニュは、内乱とペストによる生命の危機の中、思索を続けたようだ。
寛容の精神、保守の精神を貫きながら。
初版には[a]が、[b]は1588年版、[c]は死ぬまで余白に加筆修正された文章だと、改めて認識することもできた。
「エッセイ」の語源となった「エセー」。
日本の哲学受容の間違いは、ドイツの講壇哲学のような論理中心の哲学を、哲学の手本としたことだ。
頭の良い人間が、頭の中だけで考えた理想や思想は、現状を捉えそこなっている。
このことに気付くだけでも、日本の国は大きな成長を遂げるに違いない。
クセジュ(フランス語: Que sais-je? 〔Que sçay-je?〕)は、「我、何をか知る」すなわち「わたしは何を知っているだろうか?」を意味するフランス語の表現。
懐疑主義の精神と言えば仰々しいが、謙虚さの精神と言えば的を得るのではないだろうか。
コロナ騒ぎでは、色んな思い込みと不寛容が幅を利かせた。
人間性の邪悪な部分が露呈しはじめた世界。
モラリストの心と眼で世界を見、自分を見つめて生きようと思う。
- 真実と理性は各々の人間に共通のもので、初めに言った人達のものでも、後から言った人達のものでもない
- 真の自由とは、自分に対してなんでもなしうることである
- この偉大なる世界は、自らことを正しく知るために、我々が見つめなければならない鏡である
- この世で最も大事なことは、自分を失わないでいられることである
- 何処で死が我々を待っているか確かではない。あらゆる所で我々の方が死を待とうではないか。
- いつか先で起こりうることは、今日にでも起こりうる
- もし君達が一日生きたならば、それで全てを見たこととなる。一日は全ての日と同様である。
- 人間にとって恐れるにたる獣は人間しかいない
- 法がその信頼を保つのは、法が公正だからではなく、法が法だからである
- 法律以上に絶えることなく揺れ動いている主題はない
- 言葉は半分は話す側のものであり、半分は聞く側のものである
- 必要より少なく言う人より、必要より多く言う人しか見たことがない
- 我々はただ記憶を一杯にしようと努力し、理解力と良心を空のままにする
- 自然は運命の助けを必要としない。自然はあらゆる段階に等しく姿を示す。あたかも幕などないかのように。
- 我々の偉大にして輝かしい傑作は、適切に生きることである。支配したり金をためたり建物を築いたりというのは、些細なおまけにすぎない。
- 私は何を知っているのか?
- 結婚は鳥籠のようなものである。その外にいる鳥は必死になって入ろうとするが、中にいる鳥は必死になって出ようとする。
- 私がいま話している友情においては、魂がお互いに溶け合い一つとなり、二つを繋ぐ結び目が消え去り認め難くなるほどである。もしなぜ彼を愛したのかを尋ねられたなら、次のようにしか言い表せないように思う。それは彼だったから、それは私だったから、と。
- 私が伝え聞いた範囲では、新大陸にも野蛮であり野性的であるものなど全くないとわかった。自分たちの習慣から外れたものを野蛮と呼ぶなら別であるが。
- 世の中には勝利よりも勝ちほこるにあたいする敗北がある
- 彼らの過ちを裁きながら、自らの過ちについては盲目でいる