創価ダメ出しさんに学ぶ:総体の受持と別体の受持
100日唱題行が終わりました。
いつも勉強させていただいている、創価ダメ出しさんが唱題行について書かれていまして、やはり教学の勉強が出来ている人は、乞食信心じゃないんだなぁと感心させられました。
勝手に引用連載させてもらっている、城内さんも唱題行のタイトルで、一心欲見仏の心で祈るべきであると仰っていたと思います。祈祷は駄目だよってね。
nichirendaihonin.hatenablog.com
僕はまだまだ祈祷師ですが、お二人のブログから学んだことを、唱題中に思い出し、「いかん、いかん、祈祷になってた」と反省しながら修行しています。僕の祈りは、教学研鑽の成長と哲学的思索の深耕が願いなんですが、やはり二乗根性が抜けきれていませんね。
で、創価ダメ出しさんが、
唱題行とは「総体の修行」だと捉えています。「別体の修行」とは、参詣・登山、ご供養、折伏ですが勤行唱題はそれら別体の修行を全て含む総体の修行です。
と仰っている修行の立て分けについて調べてみました。下に、大白法の記事と日寛上人様の御指南を掲載させていただきます。ご研鑽ください。
大白法・平成21年5月16日刊(第765号より転載)教学用語解説(132)
受持即観心とは
「受持」とは、正法を受け持つことをいい、「観心」とは、教相(理論・教え)に対する言葉で、教相をもとに
この中の受持について、総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
「受持に二義有り。一には総体の受持、二には別体の受持なり。総体の受持とは五種の妙行を総じて受持と名づくるなり。
と、受持の一行に五種の妙行すべてを
大聖人は『日女御前御返事』に、
と
観心について
像法時代の導師である天台大師は、『
故に、日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
また同抄に、
「『我が己心を観ず』とは、即ち本尊を信ずる義なり。『十法界を見る』とは、即ち妙法を唱うる義なり。謂わく、
と説かれています。
観行成就
日寛上人は、冒頭の本尊抄の御文について、
「此の文の中に四種の
む す び
大聖人は『観心本尊抄』に、
と仰せられ、また『経王殿御返事』に、
「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」(同 六八五㌻)
と仰せられています。
本宗僧俗は、この即身成仏の境界を得るために御本尊への信行を決して怠ることなく、さらに
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大白法・平成7年4月16日刊(第号より転載)教学用語解説(4)
五種の妙行とは、法華経の『法師品第十』に
と説かれる、受持・読・誦・解説・書写の五つの修行をいい、
受持とは、教法・経文を受け
法師とは、五種の行を自行化他に亘って修する人をいいます。
天台大師は、『
「此の品に五種の法師あり。一に受持、二に読、三に誦、四に解説、五に書写なり、大論に六種の法師を明かす。信力の故に受け、念力の故に持つ、文を
し難ければ
日蓮大聖人は『御義口伝』に
「五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべし」(御書 1795頁)
と、末法は受持に他の四種の義を
総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』の中で、五種の修行について、各別に修することを別体の受持とし、五種それぞれに通じ、しかも五種を総するものを総体の受持としています。
さらに、『末法相応抄』では五種の妙行について、一字五種の妙行・要品五種の妙行・略品五種の妙行の三義に立て分け、
「
と、総体の受持に三義のすべてが具わることを明かし、正像熟脱の五種の妙行を破折されています。
すなわち、日蓮大聖人の仏法における受持とは、総体の受持であり、ここに一切の修行の意義を
『観心本尊抄』に
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観心本尊抄文段 上二九 末法今時の幼児は唯(ただ)仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力思惟(しゅい)の観察を借らんや。 |
一 我等此の五字を受持すれば文。
此の文は正しく是れ受持即観心の義なり。是れ則ち「我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし」の文の意なり。「我等」と言うは「我が滅度の後に於て」の末法の我等なり。即ち長行の「是の故に汝等、如来の滅後に於て」の文是れなり。
「受持」と言うは全く経文に同ず。即ち是れ観心なり。「此の五字」とは経文の「斯経」の両字、即ち是れ本尊なり。此の経文の「斯経」の二字は即ち長行の四句の要法なり。故に妙楽此の文を釈して云く「若能持と言うは四法を持つなり」と云云。宗祖の云う「名体宗用教の南無妙法蓮華経」の意なり。故に滅後末法の我等衆生、此の五字の本尊を受持するを即ち観心と名づくるなり。
問う、何ぞ受持を以て即ち観心と名づくるや。
答う、凡そ当家の意は唯信心口唱を以て即ち観心と名づけ、而して受持とは正しく信心口唱に当る。故に受持即観心と云うなり。
問う、何を以てか受持正しく信心口唱に当ることを知るを得んや。
答う、今謹んで経文を案ずるに、受持に二義あり。一には総体の受持、二には別体の受持なり。
総体の受持とは五種の妙行を総じて受持と名づくるなり。是れ則ち受持は五種の妙行に通じ、五種の妙行を総する故なり。今経処々の「能く是の経を持たん」の文及び「受持無行余行徒然」の文の意、能く能く是れを思うべし。
二には別体の受持とは、即ち五種の妙行の中の第一の受持是れなり。「信力の故に受け、念力の故に持つ」「文を看るを読と為し、忘れざるを誦と為す」等是れなり。所以に結要付嘱の文に若し長行の中には別体に約して説く、故に「応当に一心に受持し、読誦し、解説し、書写し、説の如く修行すべし」と云うなり。是れ則ち要法五種の妙行なり。偈頌の中に至っては総体に約して説く、故に但「応に斯の経を受持すべし」と云うなり。是れ則ち宗祖の所謂「但受持の一行にして成仏すべし」とは是れなり。
然るに当抄の意、正しく偈の文に拠る。故に今「受持」とは即ち是れ偈の中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。
然るに今、受持正しく信心口唱に当るとは、信心は即ち是れ受持が家の受持なり。口唱は即ち是れ受持が家の読誦なり。当に知るべし、受持が家の受持読誦は此れ即ち自行なり。今自行の観心を明かす故に但自行の辺を取るなり。解説書写は化他を面と為る故に之を論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写豈化他に非ずや。
亦復当に知るべし、此の文の中に四種の力用を明かすなり。謂く「我等受持」とは即ち是れ信力・行力なり。「此の五字」とは即ち是れ法力なり。「自然譲与」は豈仏力に非ずや。
所謂「信力」とは一向に唯此の本尊を信じ、此の本尊の外には全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち「信力」と名づくるなり。天台の所謂「但法性を信じて、其の諸を信ぜず」とは是れなり。
「行力」と云うは、日出すれば灯詮無し、雨降るに露は詮無し。今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。故に余事を雑えず、但南無妙法蓮華経と唱うるは即ち是れ「行力」なり。
「法力」と言うは、既に迹中化他の三世の諸仏の因果の功徳を以て、本地自行の妙法五字に具足す。故に此の本尊の力用、化功広大・利潤弘深なるは即ち是れ「法力」なり。
「仏力」と言うは、久遠元初の自受用我が身の当体、自行化他の因果の功徳具足円満の妙法五字を「我本立誓願」の大悲力を以ての故に一幅の本尊に図顕し、末法の幼稚に授与する時、我等此の本尊を受持すれば、自然に彼の自行化他の因果の功徳を譲り与え、皆咸く我等が功徳と成し「如我等無異」の悟りを開かしめたもうは偏に是れ「仏力」なり。若し仏力、法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや。大論の第一に云く「譬えば蓮華の水に在って、若し日光を得ざれば翳死することを疑わざるが如く、衆生の善根も若し仏に値わざれば成を得るに由無し」等云云。(注 翳死:しぼみ枯れること)
今此の文を解して云く、華は信力の如し。蓮は行力の如し。水は法力の如し。日は仏力の如し。当に知るべし、蓮華は水に依って生じ、我等が信力・行力は必ず法力に依って生ずるなり。若し水無くんば則ち蓮華生ぜず、若し法力無くんば何ぞ信行を生ぜん。是の故に本尊を仰ぎ奉り法力を祈るべし。水に依って蓮華を生ずと雖も、若し日光を得ざれば則ち翳死疑わざるが如く、我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転更に疑うべからず。蓮華の若し日光を得れば則ち必ず能く栄え敷くが如く、我等仏力を蒙れば則ち信行成就して速かに菩提を得るなり。故に末法今時の幼児は唯仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力思惟の観察を借らんや。
止観第五に云く「香城に骨を粉き、雪嶺に身を投ずるとも、亦何ぞ以て徳に報いるに足らん」等云云。又第一に云く「常啼は東に請い、善財は南に求め、葉王は手を焼き、普明は頭を刎ねらる。一日に三たび恒河沙に身を捨つるとも、尚一句の力を報ずる能わず。況や両肩に荷負すること百千万劫すとも寧ぞ仏法の恩を報いんをや」云云。之を思え、之を思え。
ふたたび一部読誦の私情を破す 【末法相応抄上】八 |
問う、又日辰が記に、取要抄の「我が門弟は順縁なり、日本国は逆縁なり」等の文を引いて云わく「逆縁の下種は但妙法に限り、門弟の順縁は一部を読むべし」云云、此の義如何。
答う、此れは是れ僻解なり。彼の抄の意に謂わく「今末法に入って一閻浮提皆謗法と成り畢んぬ、故に不軽品の如く但妙法五字に限って之を弘めて之を信ずる者は我が門弟と成りて順縁を結び、日本国中の之を謗る者も仍逆縁を結ぶなり」云云。即ち初心成仏抄の意に同じ。彼の文に云わく「当世の人は何と無くとも法華経に背く失に依って地獄に落ちん事疑い無し、故に兎も角も法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏に成るべし、謗ぜん者も毒鼓の縁と成って仏に成るべきなり」云云。取要抄の意弥以て分明なり、更に門弟の順縁一部を読むべきの意無し、何ぞ曲げて私情に会するや。
問う、又云わく「不読の輩、五種の妙行を欠く」等云云、此の難如何。
答う、吾今尋ねて云わく、五種の妙行は名利の為に之を修するや、成仏の為に之を修するや。若し名利の為と言わば具足せざるべからず、若し成仏の為と言わば一行と雖も則ち足るべし、何ぞ必ずしも具足することを俟つべけんや。
経(神力品)に曰わく「於我滅度後、応受持此経、是人於仏道決定無有疑」等云云。宗祖釈して云わく「是人とは名字即の凡夫なり、仏道とは究竟即なり、末法当今は此経受持の一行計りにて成仏すべしと定むるなり」是一。
又法師功徳品に云わく「若善男子善女人、受持是経、若読・若誦・若解説・若書写、是人当得六根清浄」云云。此の文の中、若の字の顕わす所の五種の妙行に随って一行を修すれば則ち六根浄を得るなり是二。
又末法当今日本国中の不学無智の俗男俗女皆必ず五種の妙行を具足するや 是三。
況や復五種の妙行は一部に限るに非ず、今信者の為に更に三義を示さん。
一には一字五種の妙行、修禅寺決六十に云わく「妙の一字に於て五種法師の行を伝う、広く五種を行ぜば心散乱する故に要に非ず、大師好んで常に此の行を修し、亦之を以て道俗に授く。和尚の云わく、一字五種の妙行」云云。
二には要法五種の妙行、又二十二に云わく「天台大師毎日行法日記に云わく、読誦し奉る一切経の総要毎日一万返云云、玄師伝に云わく、一切経の総要とは所謂妙法蓮華経の五字なり」云云。
三には略品五種の妙行、大覚抄十八に云わく「二十八品の中に勝れて目出度きは方便品と寿量品とにて侍り、余品は皆枝葉にて候、去れば常の御所作には此の二品を習い読ませ給え」云云。
三義の分明宛も日月の如し、故に広く之を行ぜずと雖も五種の妙行を欠くこと無し、一部読誦の輩還って欠く所有り。
本因妙抄に云わく「彼は一部を読誦すと雖も二字を読まず、此れは文文句句悉く之を読む」云云。二字と言うは三位順公云わく云云。房州の要公云わく云云。