【法華経より外の一切衆生は、何に高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり】餓鬼・畜生道からの救済
《四悉檀ししつだん》 真実の仏様は、御生涯を通じて人々を導いていく方法として、四悉檀を用いられます。
四悉檀とは、四つの弘教方法を示したもので、世界悉檀せかいしつだん・為人悉檀いにんしつだん・対治悉檀たいじしつだん・第一義悉檀だいいちぎしつだんをいいます。悉檀とは遍く衆生に施すことで、日蓮正宗では折伏を意味します。
「世界悉檀」・・・時代性、あるいはその国土、社会のあり様の中から様々な教導の手だてを用いて、諄々じゅんじゅんと衆生を教化する。
「為人悉檀」・・・救済されるべき衆生の一人ひとりの機根に合わせ、その人の生活に合わせ、その人の立場に応じて、諄々じゅんじゅんと法を説き教導する。
「対治悉檀」・・・衆生が誤った宗教や様々な過去の因縁のうえから、信仰の教義上の間違いや、悪縁に侵されて悪法に染まっている人びとに対し、それらに対処して、誤りを糾ただす手段を用いられます。
「第一義悉檀」・・・仏の悟りを人々に合わせるのでなく、真実の教えをそのまま、法義の上から立て分けて説かれます。
そして愚かな教え、誤った教え、そしてまた方便の教えを捨てさせて、究極の最高、真実の法理に人々を入らせるのです。
このように、真の仏は、実際にこの世にお出ましになり、様々なご配慮をなさって、一切衆生を真実の教えに教導あそばされるのです。
そうした教導の過程の中で最後は、最も優れた「第一義悉檀」を用いて教導あそばされますから、仏様は一代の御化導中に必ず
『教一開会』(御書1846頁)
と申し、唯一絶対の正法を示され、ハッキリと御化導の集約として、御本懐ごほんがいを顕されるのです。
そのことがなければ、人々の本当の救済は出来ません。
衆生が信じて修行すれば、功徳が生じ即身成仏を果たす事が出来る。
その一番の根本の法義と、その法体を顕されることなくしては、仏の教導は完結しません。
それなくして、一切衆生を成仏の境涯へ導くことは出来ないのです。
ですから本物の仏様は、必ず最後には、最高、真実の法をお示しになります。そのことが絶対に、仏様の御化導の中において、一番の眼目であり、そのためにこの世に仏様は御出現あそばされると申してもよいのです。
《釈尊の御化導》
ちなみに釈尊の場合は、四十余年間の様々な教導を終えて、そして最後の法華経の会座に来って、法華経の『方便品』に、
「十方仏土の中には唯ただ一乗の法のみ有り二無く亦また三無し仏の方便の説をば除く」(新編解結一一〇ページ)
と説かれました。
つまり本当の仏様の教えとは、唯一つ、一仏乗です。二つも三つも異なった教えがあるわけではありません。
方便のための教えを説かれることはあるけれども、結局それは唯ただ一物上仏乗に入らしめるために説かれたのです。このように説明され、「今までの声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗の教えを捨て、そして法華経の中に説き尽くされる妙法蓮華経の一仏乗を信じなさい」とお説きになっておられます。
それが法華経の『方便品』迹門における釈尊の教導の眼目です。
これを「開三顕一かいさんけんいち」、「開会かいえの法門」と申します。
法華経の本門の『寿量品』に入りますと、釈尊は、妙法蓮華経の法体を「良薬りょうやく」、すなわち、素晴らしい、正しい、衆生の機根に最も合致した尊い薬に譬えられ、
「是の好き良薬を、今留めて此に在く。汝取って服すべし。差いえじと憂うれうること勿(なか)れ」(新編解結437頁)
と、本門の大法が厳として説かれ、そして衆生一人ひとりに今此に留めておく。一人ひとりがこの妙薬を服用して、悩みや、病、煩悩等、一切の三毒を癒いやして、真実の仏身を成就する道をお説きになるのです。
《御本仏日蓮大聖人様の御化導》
大聖人様の場合は、やはり末法の御本仏、末法万年の衆生を救済する仏として、「その成仏の根本の法は何か?」
と問われますと、それはもちろん大聖人様御建立の本門戒壇の大御本尊を根本にした救済です。
一大秘法たる本門戒壇の大御本尊の「第一義悉檀」をもって「破邪」することが大聖人仏法における「立正」であり、それによって国土を「安国」せしめることが「立正安国」の精神です。。
大聖人様が末法の御本仏である事や、出世の本懐として建立された本門戒壇の大御本尊様に関し、そのものズバリの御書は相伝に関わる部分ですのでありませんが、ご相伝の御法門より立ち返って拝すれば、御書の中のあらゆるところで、その意義をお説きになっていらっしゃいます。
大聖人は『御義口伝』に、
「南無妙法蓮華経と唱へ奉る時は十界同時に成仏するなり」(御書1809頁)
と、成仏し悟りを得る方法をお示しになっていらっしゃいますし、また南条家に賜った、『九郎太郎御返事』にも、
「但南無妙法蓮華なる経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(御書1293頁)
というように具体的に、易やさしくお示しくださっている御文もあります。
あるいは『観心本尊抄』の一番最後に、
「一念三千を識しらざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠たまを裏つつみ、末代幼稚の頸くびに懸かけさしめたまふ」(御書662頁)
とお示しです。
「仏大慈悲を起こし」と、大聖人様は、はっきりと末法の御本仏の証を鮮明にされ、その一念三千の球をこの妙法五字に包んで、そして本門の法体として、御本尊として、一切衆生の身の上にお授け下さるということを明示されたのです。
こうした上から、真言宗・禅宗・念仏宗の歴史や教えを具つぶさに見て、そして大聖人様のお立場との違いを観察してみてください。
真言や念仏で説く仏、あるいはまたその他の諸宗、諸経において立てる教主、信仰の対象となるべき本尊に画かれている仏菩薩等を見れば、絶対にこの世の中に出現していません。
また、成仏の直道となる真実の本尊の確立や修行方法は、どこの宗旨の教義にも無いのです。
《餓鬼道・畜生道の衆生》
宗祖日蓮大聖人様は、大聖人様の正しい仏法を未だ知らず、いつまでも先程揚げた様な、間違った宗教に執着する人や、信仰の志の一切ない謗法の人達に対し、そういう方は命の奥底では法味ほうみに飢えているという意味から、餓鬼道、餓鬼界の衆生である。
また、真実の主師親の三徳を知らないという意味から、畜生界の人びとであると断言されております。
『御講聞書』には、
「所詮しょせん末法に入りては謗法の人々は餓鬼界の衆生なり。(中略)法華経より外の一切衆生は、何に高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり。」(御書1842頁)
と仰せです。
その訳を大聖人様の教義から申し上げますと、
①一閻浮提第一の御本尊を知ることがない。
②御本尊に整足する御本仏の仏法僧の三宝の実体を知らない。
③南無妙法蓮華経の良薬の意味を知らない。
④御本尊に整足する三大秘法という一番の宝物を知らない。
という方々は、実は南無妙法蓮華経の法味に飢えているのだと明かされます。 真実の法の財を持ち合わせていないために、いつまでもその人達は法味に飢えた貧しい衆生ですので、大聖人様は餓鬼界の衆生だとおっしゃっているのです。
確かに今の日本は、ある程度、豊かになりました。しかし、人々はお金、家、財産、地位、名誉など、世間の煩悩と欲の世界に没頭しています。
本当の妙法の法味、南無妙法蓮華経の光、功徳、法の財に対して、実は飢えた悲しい姿があると言う事を、大聖人は餓鬼道の衆生だとおっしゃておられるのです。
また大聖人様の御本仏の立場に約して言うならば、本当の仕えるべき主人であり、真実の功徳や慈悲の親であり、正しく導いて下さる師匠である仏様が実在することを知らないのです。
言うならば、本当に救済くださる師匠や親がわからないという世界は、まさにこれは畜生の世界なのです。
畜生は自分を生んでくださった両親が、どこのどのようなお方であるかが分からない。これほど悲しいことはありません。
それが、謗法の人たちは、実際に我々を救済して下さる仏様の世界、信仰の世界において、本当の親や師を知らない。真実の仏を知らないのです。
ですから、ある時は釈尊が人々を導くために説いた架空の権仏に憧れてみたり、キリスト教やイスラム教の神に憧れてみたり、あるいは伝説上の神や仏や菩薩や、色々な教祖のでまかせの発言に対して信仰の志を持つのです。
自分の真実の主師親が分からないほど、信心の世界は乱れ切っているのです。
『涅槃経』というお経の中には、
「主無く、親無く、救無く、護無く、帰無く、趣無く、貧窮飢困ならん」(大正蔵12・371C)
ということが説かれております。
真実の仏を知らないという人は、主人もなく、親もなく、救済もなく、守護もなく、帰依するところもなく、赴くところもなく、貧しくて生活に困り、苦しみや飢えや渇かわきの世界に落ちて行ってしまうということが説かれています。
≪餓鬼道・畜生道からの救済≫
それに対して皆さんは、日蓮大聖人様という末法万年の衆生を救済なさる真実の仏を知っています。そして、真実の慈悲と救済の下さる親を知り、師匠を知り、また主を知っています。
また、大聖人様の御魂魄こんぱくである本門戒壇の大御本尊様や唯授一人の血脈を受け継がれた日如上人猊下様へのお目通りも叶う身です。
そこに、日蓮正宗の教えの尊さがあるということを知っていただきたいと思うのです。
同じ南無妙法蓮華経を唱えようと、大聖人様の出世の本懐たる大御本尊様を信じなくなった人々、謗法の団体に属し、お目通り叶わない団体にいる人々も、迷っている方々です。
そうした意味で、餓鬼界・畜生界に堕ちている人々をすくっていくところに私達の使命があるということを深く心において、折伏の一念に立って、更に御精進頂きたいと思います。
今年は何としても、御命題総仕上げの大事な最後の年ですから、皆さんが「今年は必ず一人以上の折伏をするんだ」という、固い決意と勇気を持った行動をされます様、願うものであります。
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令和二年 二月度 御報恩御講拝読御書
日女御前御返事にちにょごぜんごへんじ弘安元年六月二十五日 五十七歳
黄河(こうが)は千年せんねんに一度(いちど)すむといへり。聖人は千年せんねんに一度(いちど)出づるなり。
仏(ほとけ)は無量劫(むりょうこう)に一度(いちど)出世(しゅっせ)し給(たま)ふ。彼(かれ)には値(あ)ふといえども法華経(ほけきょう)には値(あ)ひがたし。設(たと)ひ法華経(ほけきょう)に値(あ)ひ奉(たてまつ)るとも、末代(まつだい)の凡夫(ぼんぶ)法華経(ほけきょう)の行者(ぎょうじゃ)には値(あ)ひがたし。説(たと)ひ法華経(ほけきょう)に値(あ)ひ奉(たてまつ)るとも、末代(まつだい)の凡夫(ぼんぶ)法華経(ほけきょう)の行者(ぎょうじゃ)には値(あ)ひがたし。
(御書一二三二ページ一一行目~一三行目)