日蓮正宗のススメ

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行一開会について

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『日曜講話』第八号(平成元年5月1日発行)
行一開会について

 皆さん、お早うございます。世間の人は信仰とか、あるいは宗教というものは、それぞれどの宗旨も説くところ、目的とするところは、そうたいした変わりはない。「分けのぼる麓の道は多けれど同じ高根の月を見るかな」というような歌を依りどころとしまして、禅宗の教えであろうと、真言の教えであろうと、あるいは小乗の教えであろうと、その目的とする成仏、解脱、往生というようなことに関しましては、どの道でも結局は同じなんだというふうに考える人が、また言う人が、多いのでございます。

 しかし、真実の仏の指南、教導によりますと決してそんなことはないのであります。前回も申し上げましたように、真実の仏は、その生涯における御化導の上において、必ず御自身の説かれる一仏乗というものを明らかにされまして、この法界の根源の法は、ただこの一法しかないということを必ず明かされるものなのです。そしてまた、法界の全体を貫く久遠の仏は、ただ一仏しかない。その一仏の御化導に従うべきだということを、きちっと、仏というものは、その本懐を明かされるものだということを申し上げたのであります。

 今日はその「教一開会」、「人一開会」に続きまして、「行一開会」、仏の真実の修行というものは、これまた一法しかない、真実の修行はこの法しかないということを、仏は、必ず開顕されるものだというお話をしたいと思うのであります。

 それは当然、法華経の迹門『方便品』における釈尊の化導と、そしてまた『寿量品』における久遠の開顕と、末法の御本仏として、大聖人様によるところの末法の如説修行の信心を説き明かされるというところに、これは尽きるのでございます。

 釈尊は迹門における行一開会といたしまして『方便品』に、

 「諸仏の本誓願は、我が所行の仏道、普(あまね)く衆 生をして、亦同じく此の道を得せしめんと欲す」(開結一八三)

ということを説かれております。これはどういうことかと申しますと、釈尊は、今まで四十二年間、インドの各地を転々としながら、ある時は小乗を説き、阿含を説き、また方等を説き、般若を説き、いろんな経典を説いて参りました。それは、それぞれ一切衆生の機根や、その欲するところ、その性欲(しょうよく)が違うということから、その衆生の機根に合わせて、その方便のために、衆生を誘引し導くために、真実のところに導いていくために、ある種の方便を設けて、そして諄々(じゅんじゅん)と、この法を説いてこられたのであります。しかしながら、いよいよ法華経にまいりまして、釈尊は、いよいよ真実を開顕する時がやってきたわけであります。そして仏の本誓願、本来仏の最も大事な、その心とする、本意とするところは、衆生一人一人に、この方便を捨てさせて、今まで説いてきたところの方便を捨てさせて、そして真実の妙法、無上の大法をきちんと説き明かし、そしてまた衆生を教導して、衆生をして悟らしめて、この仏智見に入らしめる。一人一人を得脱せしめるのが仏の本来の願いとするところなんだ、ということを明かしておられるわけでございます。そして釈尊は、

 「若し小乗を以て化すること、乃至一人に於てもせば、我則ち慳貪(けんどん)に堕せん、此の事は為(さだ)めて不可なり」(開結一七五)

と言われております。この真実の開顕が明かされた以上は、今までの方便の教えや小乗の教えをもって、たとえ一人といえども教導する。その人を導くというようなことがあったとするならば、それは仏自らがその宝を惜しみ、あるいは病者に対して薬を惜しむがように、「慳貪」つまり物惜しみの罪によって、仏自らが地獄に堕ちてしまうんだと、真実を開顕しない、真実を出し惜しみする、真実を説かない仏は、仏自ら大きな罪を背負って地獄に堕ちてしまうんだということを『方便品』に、釈尊自身が説いているのであります。これは言葉を換えて言えば、どういうことかと言いますと、釈尊は仏と言われながら、覚者と言われながら、自分の父親でさえも、自分の母親にさえ真実を説き明かさなかった。父の菩提を弔うために、母の菩提を弔うためにさえも、この法華経によって親を救わなかったということの自らに対する懺悔の言葉でもあるのであります。そこに仏は深く懺悔を、それは一切衆生を導くためであったという大前提はあるものの、やはり父母に対してさえも、真実を説き明かさなかった自分を責める言葉でもあるわけでございます。その釈尊がいよいよ法華経にきて、またこの妙法によって母を救い、また父を救うということになるわけであります。

 従って、大聖人様は『諌暁八幡抄』という御書の中に、

 「仏自ら云く、『我世に出でて華厳・般若等を説きて法華経をとかずして入涅槃せば愛子に財ををしみ病者に良薬を与えずして死にたるがごとし、仏自ら地獄に堕つべし』」(全五八六)

つまり『方便品』における「此の事定めて不可なり」という言葉は、それは仏自らが地獄に堕つるということなんだということを、大聖人様は『諌暁八幡抄』に説かれおります。

 もし釈尊法華経を開顕せずして臨終を迎えたとするならば、仏自らがその妙法を出し惜しんだ、その化導を怠った、その罪によって仏自らが地獄に堕ちてしまうということを説かれておるのであります。ですから、仏はやはり最後にあたって本懐を説き、そして今までの方便を捨てて、この無上の法につくべきことをきちっと、一切衆生に指し示すということが仏の本懐でもあったのでございます。それが法華経の『方便品』における迹門の行の上における、経の上におけるところの開会の法門でございます。今度は本門の『寿量品』にまいりまして、今朝の勤行の経文の中に「是好良薬 今留在此 汝可取服 勿憂不差」という経文がありましたが、「此の好き良薬を今留どめて此に在く、汝取って服すべし、差えじと憂うること勿れ」と、釈尊は妙法を良薬に譬えて、久遠の妙法蓮華経の修行を、やはり信心の心を失った衆生に対しまして、また説き明かしておられるわけであります。ここに『寿量品』におけるところの、この妙法の受持の一行こそが最も大切なのだという、本門の行一を開顕されているのであります。

 末法における大聖人様の修行の開会は、どこにあるかと申しますと、それは大聖人様の『御講聞書』という御書の中に、

 「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし、この妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり」(全八〇七)

と、身口意三業に約して、今はどこまでも大聖人様の建立あそばされた本門の大曼荼羅本尊をきちっと受持しまして、心に信心の大きな志を立てて、そしてまた、不退の信心に立って題目を唱えて、折伏を行じていくところに、末法の真実の修行があるということを説いてられるのであります。 あるいは、また『諸法実相抄』の末文の中に、

 「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。(中略)行学の二道を、はげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず」(全一三六一)

というふうに、こんどは信行学の上に約して、大聖人様は、この根本の大御本尊様をしっかりと信じ、そしてまた、大聖人様の御指南に従って正しくその行学を学び、実践していくところに末法のただ一つの修行があるということを示しておられるのであります。ですから、この大聖人様の御指南に背いて、自分勝手に余事余行を交えるということは、それは全くの邪道でありまして、真実の末法の修行とは言えないのであります。従って念仏であろうと、真言であろうと、禅宗であろうと目的とするところは全く同じなんだというのは、全くこれは他宗の僧侶の我見であり、また一切の世の中の無智の人の我見であって、御本仏におけるところの真実の修行のお示しはどこまでも、この南無妙法蓮華経の大法を受持して、深く心に信じ、口に唱え、身に行じていくということに尽きるのであります。この一法しか絶対にありえないということを深く心に置いて、大聖人様の弟子檀那としての信心を全うしていただきたいと思うのであります。

 そして更に、この南無妙法蓮華経の一行を通して、大聖人様は広宣流布の方途を示しておられるのであります。日本のみならず、三国並びに一閻浮提の広宣流布の道を示しておられるわけであります。広宣流布の道を指し示すということが、これが末法万年にわたっての、ただ一つの世界の衆生を導く、法界の一切衆生を導く、ただ一つの道でもあるわけでもあります。その開顕がなければ、真実の仏様とは言えないのであります。

 今、世界であらゆる宗教、宗旨というものが世の中にまだまだ深く跋扈(ばっこ)しておりますけれど、末法におけるただ一つの根源の修行のあり方、広宣流布への方途をきっちと示された、その仏の化導は大聖人様の御指南以外には、いづこの国を、いづこの宗旨の、いづこの教法を探しても絶対にありえないということをよく心に置いて、いかに大聖人様の妙法が勝れ、また大聖人様によって確立されたこの広宣流布への方途と、私達の日々の修行というものが、どれ程尊い意味をもっておるのかということを、しっかりと心に銘記されまして、この信心をどこまでも全うしていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でごさいました

(昭和六十三年八月十四日)