日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

【今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは即ち千歳給仕なり】御本尊様へのお給仕

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御給仕できてますか?

正宗仏壇の法布堂様HPよりお写真を拝借いたしました。

 

 今回は、「御本尊様へのお給仕」、特にお水・お仏飯・三具足〔華(樒)・燈明・香〕についてお話し致します。

【お給仕の心構え】  
 勤行の仕方、御本尊の安置の方法や仏前での振る
舞い等を化儀(けぎ)といいます。
 これは、日蓮正宗では昔から「化儀即化法(けほう)」「化儀即仏法」「化儀即法体」といわれてきてますように、決して単なる作法・形式ではありません。
 所作に伴う化法(法義)が必ずあり、大聖人様の御法門を日々の所作や振る舞いの中に具現させる「行体布教」の要が化儀だからです。
 また、
「行体行儀は是れ信心の表現なり」
(有師化儀抄註解 富要集1巻 130頁)
「当宗は第一化儀なり……第一化儀とは当宗は化儀即仏法なるが故に謗法宗の化儀に同ずべからざるなり。若し謗法に同せば与同罪なるべし」
(有師物語聴聞抄佳跡上 富要集1巻 198頁)
とありますように、仏前の所作はその人の信心の表われであり、化儀の軽視は生活や信心の乱れとなり、ついには法門軽視につながります。
 ですから、正しい化儀を身につけることが本当に
重要です。
 日寛上人は『当流行事抄』に、
「諸流は名を蓮師に借ると雖(いえど)も実には蓮祖聖人の門弟に非ず。只是れ自己所立の新義なり。故に蓮師の古風を仰がずして専ら各自の所好に随うなり。但吾が富山のみ蓮祖所立の門流なり。故に開山已来化儀化法、四百余年全く蓮師の如し。故に朝暮の勤行は但両品に限るなり」(六巻抄193頁)
と御教示されています。
 まさに、今の創価学会が、化儀は時代と共に変わってもいいと言い出し、凡夫の浅知恵で、入会者のネックになっていた五座三座の勤行を短縮し、樒を造花でも可とし、大聖人の教えに無い新聞啓蒙・選挙活動・財務・民音に会員を駆り立て、全てが広宣流布のためだと誤魔化しています。
 我々はあくまでも、大聖人様の、
日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」(四菩薩造立抄 御書1370頁)
の御金言に身を任せて、大聖人様が示されたとおりの化儀化法の実践こそ、正しい仏道修行であること
を肝に銘じ、それを厳格に守り、遵守すべきです。

 さて御本尊様への、お給仕の手本は、法華経
提婆達多品』に、
「果(このみ)を採り水を汲み、薪を拾い食を設け、乃至身
を以って牀座(じょうざ)と作せしに、身心倦(ものうい)きこと無かりき、時に奉事すること千載を経て、法の為の故に、精勤
し給侍して乏しき所なからしめき」(開結422頁)
と「採果汲水(さいかぎゅうすい)。拾薪設食(じゅうしんせつじき)という仏様への常随給仕
が説かれています。

大聖人様はこの御文を『御義口伝』にて
 「採菓(さいか)とは癡煩悩(ちぼんのう)なり汲水(ぎゅうすい)とは貪煩悩(とんぼんのう)なり拾薪(じゅうしん)
とは瞋煩悩(じんぼんのう)なり設食(せつじき)とは慢煩悩(まんぼんのう)なり、此の下に八種の給仕之れ有り此の外に妙法蓮華経の伝受之れ無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは即ち千歳給仕なり是れ即ち一念三千なり貪瞋癡慢を対治するなり。」(御書1757頁)
と説かれています。

 仙人(師匠)のために木の実を取るとは癡煩悩(おろかなるぼんのうをとる)ことであり、水を汲むとは貪煩悩(むさぼりをとる)ことであり、薪を拾うとは瞋煩悩(いかりをとる)ことであり、食を用意するとは慢煩悩(まんずるこころをとる)ことで、このほかに八種類の給仕があります。それらは仏に仕えてお給仕することなでのすが、これら以外に妙法蓮華経の伝授があるわけではありません。
これらの日常の作務を通してこそ、妙法は信解され命に入っていくのです。
今、日蓮大聖人が南無妙法蓮華経と唱えるのは釈尊が千年間阿私仙人につかえて修行したという事と同じことだと仰せです。
それは一念三千の法をもって己の貪・瞋・癡・慢を退治することなのです。
古歌にも、
法華経を我が得しことは
薪こり菜つみ水汲み仕えてぞ得し」
と、うたわれている骨おしみをしない、毎日の努力の積み重ねが観心なのです。

 我々の御本尊様へのお給仕の心構えも、かつて日興上人が影の形に随うがごとく大聖人様に常随給仕を申し上げたように、また、日目上人が身延での汲水のお給仕のため、自然に頭の頂が凹んだといわれますように、私たちはこの信心の心をもってお給仕することを忘れてはなりません。 
 そのことを宗門では、古来「日興上人の信心に学び、日目上人の修行の精進に学べ」といわれています。信心の心は日興上人を規範とし、修行の精進は日目上人に学ぶべしということです。
 もとより、本宗は信心の宗旨です。特に勤行と御本尊様へのお給仕は、信心をする者にとって基本中の基本であり、仏道修行の原点です。
 そこでなによりもまず、報恩謝徳の真心をこめた勤行とお給仕を心掛けることが肝要です。
 御本尊様へのお給仕に当たって、一番大切なことは、
「些細の供養も一々宗祖御影の見参に供へて・如在の礼を本仏大聖に尽し給ふ」
(有師化儀抄註解 富要集1巻 86頁)
との御指南のように、「如在の礼」といって、妙法の曼荼羅末法の下種の教主・生身の御本仏日蓮大聖人様が眼前にましますと心得て、報恩感謝の真心こめて、丁重かつ厳粛にお給仕するよう心掛けるべきです。 
 毎朝、仏壇を掃除し、お水やお仏飯等をお供えし、
樒を上げ、朝夕の勤行の時に、ローソクを点(とも)し、お
香を焚(た )いて御宝前を荘厳にします。
 これはすべて御本尊様への供養なのです。
 リンを打つときも、むやみに打つのではなく、真心こめて、御本尊様に音の御供養をするのです。
 ローソクに火を点すことも、御本尊様に明かりをお供えすることです。また、私たちの迷い悩む、汚れた心を燃やして、仏様の智慧の火を輝かせる、という意味もあります。
 線香を焚くことも、線香のすがすがしく、ふくよかな香りを、心から御本尊様にお供えするためです。
 要するに、
「朝々(ちょうちょう)仏と共に起き、夕々(せきせき)仏と共に臥(ふ )す」
(御義口伝上 御書1749頁)
という御文の如く、「常随給仕」「信伏随従」して、毎日我が家の御本尊様と共に朝を迎え、また御本尊様と共に一日を終えるように心掛けることです。
 もちろん、毎日の勤行を欠かさず行じることが最も大切なことはいうまでもありません。
 御本尊様の大慈悲に包まれて衆生所遊楽の人生を歩んでいけるとは、何とありがたいことではありませんか。 
 また「信は荘厳より起こる」といいます。信心が深まってもっと立派な仏壇に替えたいと思う心は自然な境地であり、大切な志です。
 「『行体』とは水を汲み華を摘み菜つみ薪とりより始めて・其外日常の業務なり、事行の本宗にては行体が肝心なり、一信二行三学の順序はあれども、行体なくんば信心を彰はすに由なく・講学を積むも詮なきものなり」(有師化儀抄註解要1ー121)との御指南もありました。
 信を表わすには、日々の修行・行体をもって顕わすほかありません。


【お水】  
 「万物の根本は水である」といわれるくらい、水は人間にとって非常に重要です。
 そのお水を、朝一番に御本尊様にお供えすること
は、とても意義深いことです。
 仏様にお供えするお水のことを、仏法では「閼伽(あか)」といい、「功徳水」と意訳しています。 
 毎朝、最初のお水(初御水・汲み初めの水)を御本尊様のお供え用として、台所で汲みおきます。
 そして、朝勤行の前にお供え申し上げ、夕勤行の前にお下げします。お供えの際には、樒を一葉、器
に入れてお水をそそぎます。
 正座し題目三唱の後、
「南無本門下種三宝
御報恩謝徳の御為に南無妙法蓮華経
と御観念申し上げ、鈴を三打して、再び題目三唱をします。
 器に付いている蓋(ふた)は、昼間はあけておき、夕刻お下げしてから、かぶせます。
 大聖人様が、
「水は垢穢(くえ)を浄むるを以て行と為す」
生死一大事血脈抄 御書514頁)
と仰せのように、自らは汚れても、他を清める、即ち、汚れを取り除くのが水の力用です。
 南無妙法蓮華経と唱えることによって自らの罪障が消滅していくことを、水が全ての汚れを取り去ってくれることに譬えています。また、水は高きより低きに流れますが、これは仏の慈悲が、仏界の高きより九界の低きまで、平等に流れていく姿を表わしています。


【三具足】  
 日蓮正宗では古来、御宝前の荘厳には、三具足又は五具足(三具足を荘厳にしたもの)が用いられてきました。三具足とは華(樒)・香炉(線香)・燈明(ローソク)各一つづつ、五具足とは華一対・香炉・燈明一対を並べます。
 どちらの方式を用いても結構ですが、できれば線香の煙・ローソクの油煙が、直接仏壇の中に入らぬよう、少し離すようにして下さい。
 さて、この三具足について、『化儀秘決』『興門宗致則』等の化儀集を要約しますと、「向かって右の燈明
は仏の智慧の光(報身(ほうしん))を表わし、左の樒は仏のお振舞い(応身(おうじん))、中央のお香は境智が冥合されている仏様
の生命(法身(ほっしん))を表わしています。
 お香はもともと香木を乾燥させて作ったものであり、左右の、燈明の炎と樒とが合して、中央のお香の煙と
なります。そこに、智慧の報身(ほうしん)と振舞いの応身(おうじん)とを兼ね備えた法身(ほっしん)という、仏のお姿を表わす意義があります
。つまり、華、香、燈明は三身、三諦、三因仏性等を表わしています。
 以上を箇条書きにしますと、向かって
・右の燈明は、死にして空諦(くうたい)報身(ほうしん)を表わす。
・中央のお香は、中道境智冥合(ちゅうどうきょうちみょうごう)の法身(ほっしん)を表わす。
・左の立華は、生にして仮諦(けたい)応身(おうじん)を表わす。
ということになります。
 要するに、「左の花」を香として、「右の燈」をとり、「中央の香炉」でお香を焚き、十方法界に周遍供養
します。
 この三つが具足して初めて法報応(ほっぽうおう)の三身供養となります。ゆえに、古来「応身(おうじん)の樒を香として、報身(ほうしん)の智火
を以て十方法界に周遍す。故に法報応三身供養となる也」といわれるのです。


【樒(しきみ)】
 日蓮正宗で「お華(はな)」と言えば、「樒」(木偏に佛とも書きます)にかぎります。
 法華経方便品には、
栴檀(せんだん)及び沈水(しんすい)、木樒(もくみつ)並びに余の材」(開結179)
とあり、白檀(びゃくだん)や樒(しきみ)などの香木を仏前に供養したことが説かれています。 
 日本でも古来、樒は清浄な香木として仏事に使われ、遠く源氏物語にその例が見られます。 
 常住不滅、尊極無上の御本尊様の御宝前を荘厳する華は、やはり、常住にして清浄無垢をあらわす華でなければなりません。樒は春夏秋冬少しも変わることなく、常に緑葉をたもち、豊かな生命力をあらわす常緑樹で
あり、しかも松、杉、榊(さかき)などと違って、特有の香気を持つ香木です。その香気は邪気を払い、不浄を清浄に
する力がありますので、本宗では樒を尊び御宝前にお供えするのです。 
 一方、四季折々の色花は見た目にはあでやかに美しく見えますが、咲いた思うとやがてしおれて散ってしま
うものです。これは仏法から見れば、無常遷滅(むじょうせんめつ)を示しています。
 したがって、無常を示す色花は、末法万年の衆生を救護遊ばされる唯一絶対の御本仏様へお供えするにはふさわしくありません。 
 つまり樒は、その色と香の二つの意義深い特徴によって、御宝前にお供えします。色とは常緑樹の青々とし
た姿です。
 御書に、「色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり」 (三大秘法稟承事御書 1595頁)
と仰せのように、御本尊様(法)の常住不滅、三世常恒の御利益を垂れ給う大慈悲を顕(あらわ)すのに、樒こそ仏前
に供えるのにふさわしい華なのです。
 また、樒の香りは特有の香気で、邪気を払い、仏前を清浄ならしめる意味があります。 
 もともと、華は「行者の当体を現わす」といい、拝む我々の信心を表わしています。
 ですから、常緑ということが、信徒の信心の変わらないことを表現しているのです。 
 以上の意義をふまえ、水を取り替えるのを怠って枯れるにまかせたり、色も香もない造花の樒を使ったりし
ないようにしたいものです。 
 また、樒を産しない土地や、入手できないところでは、樒の代用として、他の常磐木(ときわぎ)を用いることはやむを
えないでしょう。


 【お香(線香)】  
 インドは熱帯的な風土のため、悪臭や虫などを防ぎ、体臭を除く目的で、香料を身体に塗ったり、衣服や部
屋にふりまく風習があります。
 もちろん仏教においても、法華経法師品をはじめ多くの経文の中に「抹香(まっこう)・塗香(とこう)・焼香(しょうこう)」などと説かれま
すように、行事を行う際、抹香(沈香栴檀等を粉末にし、塔像に撒布して供養する)、塗香(仏体に塗る香)、焼香(邪気を払うため、所修の功徳を至る処に行き渡らせるため焼く香)などの形で用いられました。
 これらのことから、香の薫りをもって仏前を清浄にし、心の悪気を除き、身を清浄にするとの意を込めて、仏様の御前を荘厳し、仏様への供養とするのです。
 現在では、香には線香と抹香の二種類があります。普段は、線香が多く使われていますが、御会式や御講等の法要や法事の時には特別に抹香を焚きます。 天台大師の「一色一香無非中道」の言葉は、一切の事物に中
道実相が具わっていることを示すとともに、香の薫りにもまた、中道法身(ほっしん)如来の徳があると解釈されます。
 お香を焚くのは、その香りが内に薫じると同時に、四方にあまねく広がることによって、周遍法界の法身(ほっしん)を
表わします。したがって、勤行唱題の時には、必ず真心をもってお香を焚くことが肝要です。香を焚くことの以上の意味をよく心得て用いたいものです。 
 御宝前を、三具足又は五具足で荘厳する場合、常に香炉は中心に配置します。線香は香炉の形にもよります
が、1~3本位を火のついた方を左にして、横にねかせて用いるとよいでしょう。
 本宗では古来線香を横にねかせます。薫香(くんこう)は静穏(せいおん)を旨とする意義からも、横にねかせる形がその意義にふさ
わしいこと、また御本尊様や仏壇を焦がしたり、灰がバラバラに散乱するのを防ぐ(これには心の散乱を防ぐという意義も含まれている)配慮などから、自然にこの形式がとられたことと思います。 香炉の灰は常にならして、香炉からはみ出して周囲を汚さぬように気をつけます。


 【燈明】
 法華経薬王品に、薬王菩薩が自らの臂を焼いて、仏様に供養したことが説かれ、また、「貧女の一燈」といって、貧しい女性が仏に真心を込めて献じた一燈は、他の燈が消えても燃え続けた等の燈明供養の説話があり
、その功徳の深くて大きいことが示されています。
 燈明は闇を滅し、明らかにすることから、法燈・仏燈・慧燈などとも称され、報身(ほうしん)如来・仏の智慧を表わし
ます。
 また、煩悩を焼き尽くし、法性の智火を明らかにするという意味もあります。


【仏前作法 ・御宝前の掃除】
 お給仕の際には、口に樒を一葉くわえ、息のかからぬようにします。
・仏壇は仏様のお住まいでありますから、常に掃除をし、樒の水の取り替え等、清潔、荘厳を心掛けます。
・仏壇の中に写真等は置かないようにします。仏壇の上にも物を置かないようにします。また、仏壇の真上に写真等を飾ったりしないようにして下さい。・御本尊様の御前では、きちんとした身なりを心掛けましょう。
 私達が心を常に御本尊様へ向け、日常のお給仕や寺院での掃除やお花造りなどの作務を仏法と心得て熱心に
励むならば「一切世間の法は仏法と相違せず」「一切世間の冶生産業(じしょうさんごう)は皆実相と相違せず」とあるようにそれ
が立派な仏道修行になるのです。 

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平成三十年十月度 御報恩御講拝読御書
   種々しゅじゅ御お振ふる舞まい御ご書しょ健治二年 五十五歳

 仏ぶつ滅めつ後ご二に千せん二百にひゃく二十にじゅう余よ年ねんが間あいだ、迦葉かしょう・阿あ南なん等とう、馬鳴めみょう・竜樹等りゅうじゅとう、南岳なんがく・天台等てんだいとう、妙楽みょうらく・伝教等でんぎょうとうだにもいまだひろめ給たまわぬ法華経ほけきょうの肝心かんじん、諸仏しょぶつの眼目げんもくたる妙法蓮華経みょうほうれんげきょうの五字ごじ、末法まっぽうの始はじめに一閻浮提いちえんぶだいにひろませ給はじめふべき瑞相ずいそうに日蓮にちれんさきがけしたり。わたうども二陣三陣にじんさんじんつゞきて、迦葉かしょう・阿南あなんにも勝すぐれ、天台てんだい・伝教でんぎょうにもこへよかし。
     (御書一〇五七ページ一行目~三二二㌻~三行目)

      住 職 小こ 橋はし 道どう  芳ほう