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主師親三徳の依文と意義

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『日曜講話』第七号(平成元年3月1日発行)
主師親三徳の依文と意義

 皆さん、お早うございます。先週は、大聖人様の「四一開会」の御法門の中にも「教一開会」申しまして、この宇宙法界に、正しい真実の正法は、ただ南無妙法蓮華経の一法しかない、久遠元初の妙法しかないということを、大聖人様が、お説き遊ばされまして、そして、インドのバラモンを、あるいは又、中国の孔子老子儒教等々を代表する外道を打ち破り、小乗教を打ち破り、禅や真言や念仏等々の爾前権教の一切を打ち破り、法華経の迹門・本門を打ち破って、そして、久遠の妙法蓮華経の大法を、本門の本尊としてお顕しになった。この久遠の妙法から一切の教えが、そこから発生し、発展し、そのことを説明するために、釈尊は諸経を説かれたのだという、そうした一代の仏法の綱格を、きちっと、大聖人様が示され、又、破折され、その文底の秘法を、三大秘法の中にも本門の本尊として建立遊ばされた。法界には、この真実の正法は一つしかない。その意義を深く拝して、この御本尊を受持しなければならないということを申し上げたと思うのであります。

 今日は、それに付随いたしまして、その人法一箇の御境涯、法が第一ならば、その法を所持される、その法を建立されるその根本の仏様が、やはり宇宙法界に、ただお一人ましますということが明らかにされなければ、真実の正法とは言えないということを申し上げたいのであります。

 そのただお一人の仏様とは、どういう方かと拝しますとき、いつもいつも繰り返し申し上げることでありますけれども、それは、大聖人様が『開目抄』の冒頭に、又、その結論にお示しのように、主師親の三徳の関係を、きちっと指し示されるということが大切なのでございます。

 どうしてそういうことが大切なのかと申しますと、やはり、その主師親の三徳の中にも主の徳、主徳が示されるということは、仏様の御境界、この法界の全体をすべ治める方が、御本仏としてそこにましますということを示される。そうして、その御本仏が顕される法、最勝の法、つまり、その御本尊様と、そして私達がその御本尊様を受持して、仏様と同じ御境涯に立って、「南無妙法蓮華経」と、この信心を清らかに全うする時に、そこに御本尊様を媒介として、君子合体、不二の関係が、きちっと、そこに成り立たなければいけないのであります。そして又、御本尊を受持して一生懸命、「南無妙法蓮華経」と唱える時、その師弟の関係、師弟合体して、師弟が境地冥合して、師弟不二の関係において、この南無妙法蓮華経の一法を貫く時に、初めて、そこに真実の救済の手だてが成り立つわけであります。

 そして又、慈悲の上において、大慈大悲を下される御本仏と私達の間に、その御本尊を媒介にして、信心を媒介にして、そこに父子一体の関係が成り立つ。すなわち、大聖人様は父親であります。私達一人ひとりは、その子供であります。この父子合体し、父子一体となって、父子が一如するところに、私達は慈悲を賜り、功徳を頂戴する、その手だてが成立するわけであります。

 このように主師親の三徳の関係が、御本仏と私達の間に、その正法を媒介にして、御本尊を媒介にして、きちっと成り立つということを示され、その手だてを、実際に授けて下さる。又、私達はそれを受けることによって、初めて、信心も、功徳も、成仏の境涯も、全部そこに連なってくるわけであります。その一番の根本の救済の手だてとなるものが主師親の三徳の関係なのでございます。

 従って釈尊釈尊として、法華経の迹門と本門に、その意義を、きちっと示されているわけでありますし、大聖人様は大聖人様として、末法救済の御本仏として、その三徳の意義を、きちっと明かし、又、実際に、その三徳の上から御本尊様を授け、法義を説き、一人一人を教化育成し、その信心の道を教えて下さっているわけでございます。

 ちなみに、釈尊が説かれた主師親の三徳の文を、迹門の文の上において申し上げますと、迹門の『方便品』に、

 「諸仏如来は但菩薩を教化したもう」(開結一七〇)

 「若し法を聞くこと有らん者は一(ひとり)として成仏せずということ無けん」(開結一八三)

ということを説かれております。これは、どういうことかと申しますと、今までの爾前権経では、声聞や縁覚の二乗の人達は絶対に成仏することがありえない。今世においては、だれ一人として救うことはできないというふうにされていたのであります。その二乗の人達も、全部釈尊は声聞も縁覚も、ことごとく十界の衆生はすべて菩薩であるということを開会されまして、そして「ただ菩薩を教化したもう」というふうに説かれているわけであります。そして、あなた方は、全部それは我が子であり、みんな一仏の子供であります。従って「この妙法を聞くこと有らん者は、ただ一人として成仏せざることはなし」ということを、釈尊は説かれるのであります。全部一仏の子であり、それは菩薩であるということを示されるのであります。

 そのことを更に『法華経』の「譬喩品」に、

 「今此の三界は、皆是れ我が有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。(中略)唯我れ一人のみ、能く救護を為す」(開結二三三)

と、きちっと、ここに主師親の三徳の文として、釈尊自身が『法華経』に示しておられるのであります。

 更に今度は『法華経』の本門にまいりまして、本門における三徳の関係は、どこに示しておられるかと申しますと、これは大聖人様御自身が『御義口伝』の中に、次のようにお示しであります。

 「本門の仏の主の徳は我此土安穏の文なり」(全七五七)

 今朝ほどの勤行の「自我偈」にございました「我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり」(開結五〇八)と、この御文の上に、釈尊は主徳を示しておられるのである。又、 「師の徳は常説法教化の文なり」(全七五七)

ということを言われております。「常に法を説いて、無数億の衆生を教化して、仏道に入らしむ」(開結五〇六)と、この一文の上に、師の徳。常住不変に一切の人々を教化していくというところに、師の徳を示しておられます。 又、

 「親の徳は此の我亦為世父文是なり」(全七五八)

つまり「我も亦為(こ)れ世の父、諸の苦患を救う者なり」(開結五〇九)と、この文のところに、親の徳を示されておられます。

 このように「自我偈」の文の上に、釈尊は本門の仏として、主師親の三徳を示しておられるということを、大聖人様が『御義口伝』に説いておられるのであります。

 それならば、末法において、末法救済の御本仏として、大聖人様は、どこに、この主師親の三徳をお示しになったかと申しますと、皆様方ご存知のように、『開目抄』を中心にして、大聖人様が、

 「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」(全二三七)

ということを説かれておりますし、『産湯相承事』という御相伝の文書の中にも、

 「日蓮は天上・天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり。(中略)三世常恒に日蓮は今此三界の主なり」(全八七九)

ということを示しておられます。

 このように、主師親の三徳の上に立つ仏様の御境界を、きちっと、御本仏自らが示されて、その上から又、御本尊を建立し、御本尊を私達に授与し、私達に法を説き、又、信心のあり方を示し、又、私達一人一人に実際に、その大きな慈悲と功徳を、大聖人様は注いで下さっているのであります。この主師親の三徳の関係が成立しなければ、仏法の上における一切の功徳も、成仏の境涯も、それを生み出すことができない。それを成ずることはできない。そして又、この正法を根底にして、総てのものを成し遂げ、養い、繁栄させていくことは、絶対にできないということなのでございます。

 従って、妙楽大師は『釈籤』というお書き物の中(大正蔵三十三|九三三・A)に、

 「父母にあらざれば、以て生ずることなく」(父母の関係が成り立たなければ、総てのものを生み出すことはできない)。「師長にあらざれば、以て成ずることなく」(師の立場に立つ方でなければ、その一切の衆生の功徳や成仏の境涯を成就させることはできない)。「君子にあらざれば、以て栄えることなし」(法界をすべ治める仏様でなければ、一切の人々のその栄光の道を授けることはできないのだ)ということを説いておられるのでございます。

 従って、主師親の三徳と、ただ字や言葉の上で申し上げると簡単でありますけれども、そこに含まれる意義が、そこに含まれる真実の仏の救済というものが、いかに尊いものであるかということを深く心に置いて、その三徳の意義を更にしっかりと心に置いて、御本尊を受持し、大聖人様の御指南に従っていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年八月七日)