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創価ダメ出しさんに学ぶ:今月の御講拝読御書

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御講拝読御書研鑽(2020年2月・日女御前御返事)

黄河は千年に一度すむといへり聖人は千年に一度出ずるなり、仏は無量劫に一度出世し給ふ、彼には値うといへども法華経には値いがたし、設ひ法華経に値い奉るとも末代の凡夫法華経の行者には値いがたし

昨晩、御講に参詣してきた。正宗では毎月の御講の折にご住職の御書の法話が行われいる。昔はお寺ごと違う御書を拝読していたみたいだが昨年くらいから全国の末寺で同じ御文を拝読するようになった。折角、毎月御書を拝読しているのだから拝読御書の研鑽をしてみたいと思う。早速今月の拝読御書の「日女御前御返事」の上記の御文を研鑽してみる。
この御文は、「持妙法華問答抄」の
◆受けがたき人身をうけ値いがたき仏法にあひて争か虚くて候べきぞ
などの御文と同意で、南無妙法蓮華経に巡り合う事の難しさ、そして尊さを教えてくださっている御文です。【設ひ法華経に値い奉るとも末代の凡夫法華経の行者には値いがたし】とはここで言われている「法華経」とは釈迦仏法における文上法華経のことで「法華経の行者」とは言うまでもなく大聖人のことです。つまり法華経は読むことができてもそれを正しく読む法華経の行者には会うことが難しいといことです。そしていつも書くように法華経の行者とは日蓮大聖人で、日蓮大聖人とは南無妙法蓮華経の事に他なりません。
◆されば無作の三身とは末法法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり(御義口伝)
そしてこの法華経の行者の色心二法はまた本尊なのです。
日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(御義口伝)
そして日蓮大聖人の色心二法の当体である戒壇大御本尊が「法華経の行者」の体なのです。
つまり、この戒壇大御本尊に値うことが難しい事だということです。なぜそれほど難しいのかというと、日寛上人は三重秘沈抄で次の3つの理由を挙げています。1には仏がこの世に現れることが非常に稀な事。2には仏が出現しても説法する事が稀であること。そして3つ目は仏の説法を聞いてもそれを信じることが稀であるという事。ここでいう説法の「法」とは南無妙法蓮華経のことです。法華講になれば当たり前のように御開扉をうけ大御本尊にお目通りできますが、実はそれこそ本当に奇跡のようなことなんですね。よく考えてみてください。末法の我等は本未有善の衆生です。ということは久遠元初から気の遠くなるくらいの長い時間この南無妙法蓮華経を一度も聞かずにきてしまった人間なんです。それが今世で法華経の行者たるご本仏・大御本尊のおわします時に生まれたわけです。折角そのような千載一遇のチャンスに巡り合ったのに大御本尊を信受しないのであれば次いつ巡り合うか分からないわけです。ましてや創価の如くその説法を聞き一度は受持したもののそれを捨ててしまうなど哀れこの上ないわけです。仮に池田センセが素晴らしい聖人だとしても1000年に一人のレベルなんです。そんな人間の言葉に騙されようやく出会えたご本仏を捨てるなんでバカとしかいえない。この御文の直前には、
◆例せば父母なんどには謀反等より外は子息等の身として此に背けば不孝なり、父が我がいとをしきめをとり母が我がいとをしきおとこを奪ふとも子の身として一分も違はば現世には天に捨てられ後生には必ず阿鼻地獄に堕つる業なり、何に況や父母にまされる賢王に背かんをや、何に況や父母国王に百千万億倍まされる世間の師をや、何に況や出世間の師をや、何に況や法華経御師をや。
との言葉があります。「法華経御師」と比べれば池田ごとにの「世間の師」なんて小物もいいところなんですよ。こんな小物でしかも邪師に誑かされてどうすんだということです。
創価民や顕正民の皆さんが本当に自他共の幸福を望んでいるんであれば早く創価・顕正を辞め大御本尊に戻る事ですね。いつ戻ってもいいですが、来年は日蓮大聖人御生誕800年の佳節。折角ならその慶事に参加できればそれに越したことないと思うので年内には大御本尊のもとに戻り、会い難き「法華経の行者」たる大御本尊に会いにいくことをオススメします。大石寺は謗法だ。御開扉は謗法だ。なんていう池田や浅井に騙されている場合じゃないですよ。

今月は仕事のために御講に参詣できませんでした。

創価ダメ出しさんが、御講拝読御書の研鑽と銘打って、ブログに寄稿してくれていましたので、私も一緒に研鑽させていただきました。

ありがとうございます。

日蓮大聖人の色心二法の当体である戒壇大御本尊が「法華経の行者」の体なのです。
つまり、この戒壇大御本尊に値うことが難しい事だということです。なぜそれほど難しいのかというと、日寛上人は三重秘伝抄で次の3つの理由を挙げています。

  • 1には仏がこの世に現れることが非常に稀な事。
  • 2には仏が出現しても説法する事が稀であること。
  • そして3つ目は仏の説法を聞いてもそれを信じることが稀であるという事。

ここでいう説法の「法」とは南無妙法蓮華経のことです。法華講になれば当たり前のように御開扉をうけ大御本尊にお目通りできますが、実はそれこそ本当に奇跡のようなことなんですね。よく考えてみてください。末法の我等は本未有善の衆生です。ということは久遠元初から気の遠くなるくらいの長い時間この南無妙法蓮華経を一度も聞かずにきてしまった人間なんです。それが今世で法華経の行者たるご本仏・大御本尊のおわします時に生まれたわけです。折角そのような千載一遇のチャンスに巡り合ったのに大御本尊を信受しないのであれば次いつ巡り合うか分からないわけです。

やはり創価ダメ出しさんのすごいところは、日寛上人様の教学をしっかりと勉強されているところでしょうか?他のブロガーの追随をゆるさない見識です。

で、補足と言ってはなんですが、日寛上人様の御指南を掲載させていただきます。 

第一に一念三千の法門は聞き難きを示すとは【三重秘伝抄】
 
第一に一念三千の法門は聞き難きを示すとは、

 経に曰わく、諸仏は世に興出すること懸はるかに遠くして値遇すること難し、正使たとい世に出づとも是の法を説くこと復難またかたし、無量無数劫にも是の法を聞くこと亦難し、能く是の法を聴く者斯この人亦復難し。譬えば優曇華うどんげは一切皆愛楽し、天人の希有とする所にして時々一たび出づるが如し、法を聞いて歓喜して讃めて乃ち一言をも発するに至る則は已に一切の三世の仏を供養するなり等云云。

応まさに知るべし、此の中の法の字は並びに一念三千なり。

記の四の末の終りに云わく、懸けん遠のん等とは、若し此の劫に准ずれば六四二万なり文。劫章の意に准ずるに住劫第九の減、人寿六万歳の時・拘留孫仏くるそんぶつ出で、人寿四万歳の時・拘那含仏くなごんぶつ出で、人寿二万歳の時、迦葉かしょう仏出で、人寿百歳の時、釈迦如来出づと云云。是れ即ち人寿八万歳より一百年に人寿一歳を減じ乃至一千年に十歳を減じ而して六四二万等に至る豈懸遠に非ずや。
 縦たとへ世に出づると雖も須しゅ扇せん多仏だぶつ・多宝如来の如きは遂に一念三千を説かず、大通仏の如きも二万劫の間之れを説かず、 今仏世尊の如きも四十余年秘して説かず、豈あに是の法を説く、復難きに非ずや。既に出興懸遠にして法を説くこと亦難し、豈あに容易に之れを聞くことを得んや。縦へ在世に生まると雖も舎しゃ衛えの三億の如きは尚なお見ず聞かざるなり、況んや像ぞう末まつ辺土へんどをや。
 故に安楽行品に云わく、無量の国中に於て乃至ないし名字をも聞くを得べからず等云云。豈聞法の難きに非ずや。聞法尚爾なり、況んや信受せんをや。応に知るべし、能く聴くとは是れ信受の義なり、若し信受せずんば何ぞ能く聴くと云はんや。故に優曇華に譬たとうるなり、此の華は三千年に一たび現わるゝなり。
 而るに今宗祖の大悲に依て一念三千の法門を聞き、若し能く歓喜して讃めて乃至一言をも発すれば則ち已に一切の三世の仏を供養するに為るなり。

日享上人 註解

○経に曰くとは、方便品比丘偈びくげに在り妙法の稀有なる事を歎じた頌じゅである。

○無量無数劫とは、劫は劫波の略語で印度国で年期の絶大に長遠なる事に名づけ其れが又小劫中劫大劫等と次第に数字が増上して又其の上に無量又は無数等の多数を示す語が加へられてある、吾が国の人の知り得る億とか兆とかの大数とは飛んでもない桁違ひの想像だも及ばぬ大数である。

優曇華とは、此れ又印度の理想とも云へる物で世界を統一する転輪聖王出現する時、其の瑞兆ずいちょうとして海中に開く広大なる華である、此の統一大々王の出現が何億万年とも一定せぬ空想やうなものであるから此の華も従って極々ごくごく希まれに見ゆるもので其れと同じく此の妙法も亦容易に値あひ難きものとしてある。

○一切三世仏とは、過去に出で現在に出で未来に出でんとする十方世界の有らん限りの仏の事である。

○記の四の末とは、天台大師が法華経の文々句々を釈せられたが文句もんぐ十巻である、其れを又法孫ほうそんの妙楽大師が解釈せられたが疏記しょき十巻である。その疏記を略して記と云ひ其れが調巻の都合一巻を本と末との二巻に分つ、其れで「記の四の末」とも云ふ事になる。

 六四二万とは、六万四万二万の略で次下に委くわしく出づる。

○須扇多仏とは、大品般若経にあり住する事半劫で受化の者が無いから法を説かずして入滅せられた。

多宝如来とは、大論には法を説かずと書いてある、天台大師は此れを解して全く法を説かんでは無い、開三を得れども顕一を得ずと云はれた、顕実即一念三千なる故に今不説と書かれた、又天台は応身にして法を説かざる須扇多、多宝の如きは此の雲うん潤じゅんを含まずと云って此の二仏の慈悲は雲となり雨となり衆生を利益りやくする事無しと判ぜられたのである。

○大通仏とは、化城喩品の中に此の仏出世して諸梵王の請いに応じて十二行法輪を転じ更に十六王子の請いを受け二万劫を過ぎて妙法蓮華経を説くとある、妙法即一念三千であるから今爾か書かれたのである。

○舎衛三億とは、舎衛国は中印度で全印度中に別して釈迦仏に因縁多き仏都であるのに、其の中の三分の一は仏を見て仏の説法を聞いたが、三分の一は仏を見た計りで法を聞かぬ、三分の一は仏を見たことも聞いたこともない、左様に見仏聞法の因縁は難物である。

○像末辺土とは、像法末法は時に約し辺土は処に約す、我が日本国は一般仏教国の上から云へば粟散ぞくさん辺土と云はれて粟粒の散った如き小島の辺鄙へんぴである、時は像末の悪時、処は辺鄙の小国・人機又不善・中国大国の印度ですら舎衛の三億である、何とて大善の妙法が此の国に栄へやうかと云はるゝ。

○一言を発すとは、今末法の詮せんを取れば南無妙法蓮華経と唱へ奉る事である。

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大石寺奉安堂に戒壇の大御本尊様は御安置されています。信徒になれば末寺様の許可を得て、内拝させて頂くことができます。

 

六巻抄

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