日蓮正宗のススメ

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【仏法と申すは道理なり】仏の功徳と神の恵み

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聖書って上から目線ですよね?

【仏教と一神教
 現在世界に広まっている宗教は、実に多数にのぼりますが、大別すると仏教と一神教の二つに分けることができます。
 宇宙以外のどこかに存在する人格的唯一の神があって、その神によって宇宙の全てが創造されたというこの見解をもつのがこの一神教であり、イスラム教、キリスト教ユダヤ教の3つがその典型とされています。
 話が乱れるので今回はキリスト教に絞ってお話します。キリスト教では、神と人とを二元的に見て、神は神、人は人と、そこには大きな隔たりがあり、根源を二つにして区別しています。
 ですから、どんなに進行を重ねても、人はどこまでも人であり、たとえ彼らが説く天国へ行けたとしても、決して神になることはできません。
 神と人、そこに絶対的な「差別」を設けて対立的に見るのが、キリスト教一神教)であり、仏教では、仏も人も、その本源は「平等」であると説きます。
 また、信仰の本源である神(創造主)の父母は誰で、どのようにして生まれ、どこの国に出現し、人びとにどの様な
 教えを説いて導いて来たかという、具体的な疑問に対して、その実態は未だに明確のされていません。
 それに対して、仏教で説く仏とは、経典の中には阿弥陀仏とか、大日如来とか、或いは薬師如来とか数多くの仏名挙げてありますが、それはその教義の内容やていどによって、その時々に付けられた方便上の仏の名前であって、煎じ詰めると、
 1・・真理の主体としての仏(法身如来
 2・・真智の霊体としての仏(報身如来
 3・・この真理と真智とを活用して衆生を現実に救済する仏(応身如来
の三方面からみて、この三身を一身に具えているのが仏です。
 仏教は、仏の出生も、出現した国も、また教化の姿も明白です。これを分かりやすい例を挙げますと、仮に医学を「法身」としたならば、それを体得した医師は「報身」であって、病気を治療する医術は「応身」に当たります。
 このように仏には三身がありますが、これが各々別個に存在していたならば仏としての力用はありません。
 医学と医者と治療とが各々別々のものであったら、何の役にも立たないのと同じです。同様に仏も私共を直接教化指導して下さるところに、仏としての真の価値があるのですから、仏は架空の偶像ではなく、実際この世の中にお生まれになって事実上衆生を教化していなければならないのです。
 そして一身に法身と、報身と、応身との三身を兼ね備えられた仏が、真正の仏なのです。

 【キリスト教の奇跡とは】
 キリスト教の信仰は、神に対する服従と、その神がおこす「奇跡」また「恵」による救済を願望します。
 キリスト教は、仏教のごく一部の教えと類似している点も見受けられます。
 仏法の教えを歪曲した法然親鸞の説いた浄土教の教えは、人間はしょせん煩悩のすべてをとり除くことも、意のままに招福を実現することも出来ないという認識から始まり、煩悩を捨てきれない罪深さを、阿弥陀仏の前に認めて、その赦しによって浄土へ往生する他力信仰です。この浄土教の教えと、キリスト教とほぼ重ね合わせることが出来ます。法華経の教えから見れば、彼らの説く天国と地獄は虚構の世界なのです。

【仏教で説く因果とは】
 これに対し、本来の仏教の教えは、因果の法理を厳格に説いています。因果とは、原因・結果です。私達の今日の生活は取りも直さず昨日の生活の結果であり、また明日の生活の原因ともなっています。そこに連鎖した因果の法則のあることを知らなければなりません。
 因果とは原因によって生ずる結果です。因縁果報とも言います。
 宇宙間の森羅万象はすべてこの『因果律』の法則によって或いは生じ或いは滅し、絶え間なく移り変わっているのであり、因に縁を結んで果を生じ、それに応じた報いがあり、その結果がまた因となり結果を生じ、絶え間なく繰り返していくのが宇宙観の現象です。
 仏教は過去、現在、未来の三世にわたる因果の理法によって、すべてを達観したものです。故に仏教には善因善果、悪因悪果ということを力説しています。このことはあらゆる方面に発見することができます。私達の現在は過去の行為の因縁によるものであり、これがまた未来への素因となっているのです。
 たとえば、よい土地によい種を蒔いて、よい肥料を施し培養を怠らなければ、よい実がみのり、これがまた、よい種となることは誰でも知っており、私共もよい仏の種を心田に蒔き、それをよい教えによって大切に育てて行ったならば、よい仏の果(実)が実り、それがまた、将来へのよい種となるのです。
 何事に限らず全ての面に亘って、この原則は曲げられません。即ち仏教では宇宙の森羅万象に就いて、実に徹底した観察を下しています。
 さらに、衆生の性格について見るとき、普通善人とみられている人は勿論、どんな極悪に見える人でも必ず仏性が内在していることを仏教では説き、その仏性を信仰によって育成し、すべての人々を仏の境涯に到達させるのが仏教、即ち仏の教えなのです。
 このように仏教は、あらゆる生命についての因果の法則を解き明かした者なのです。
 
 【仏教で説く功徳とキリスト教の恵み】
 キリスト教では、奇跡とか、恵みなどという言葉を使用しています。私達も日常的にそうした言葉を使用しますが、一般に奇跡とは、脅異又は不思議な出来ごと、あるいは、人智で測ることのできないような現象に遭遇したような時にしようします。
 キリスト教にあっては、「奇跡」は神の偉大な力を示すものとして使用されています。この「奇跡」は人間に対する神のなんらかの啓示、または神の愛のあらわれ(恵み)とされています。救い・恵みは神という絶対的存在からの一方的な賜物であると言われます。
 しかし、実体のない神が何らかの恵みを人にあたえるなどということが出来るのでしょうか?
 仏教では、一切は個々の「宿業」「因」にあるとします。佐渡御書には、
「高山に上る者は必ず下り、我人を軽しめば環って我が身人に軽易きょういせられん。形状端厳ぎょうじょうたんごんをそしれば醜陋しゅうろうの報いを得。人の衣服飲食おんじきをうばへば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば貧賤ひんせんの家に生ず。正法の家をそしれば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に値ふ。是は常の因果の定める法なり。」(御書528頁)と仰せです。
 私達は、身・口・意の三業、すなわち、身業とは身体でなす行動であり、口業とは発する言語、意業とは、行動・言語を起こす思いであり、私たち一人ひとりの生命活動それ自体が自身の環境・境遇を決め、生存の仕方の方向を自分自身がきめているとするのが、本物の仏教の捉え方なのです。
 さらに本物の仏教の思想はもう一歩、現在という枠を打ち破って過去世の自身の振舞にまで、遡さかのぼって見ていくのです。そして同時に、未来に向かっては、現在から来世にまたがる原因・結果を見ていきます。
 心地観経には「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」と説かれています。
 現在の結果(個々の差罰)は、過去世の原因(身口意の三業にわたる行為)によってもたらされたものであり、現在の身口意の三業にわたる行為の集積が、未来の結果をもたらすということです。この原因結果を説いているのが仏教の立場なのです。
 従って私達の生命とは、神という絶対的な存在によって意図的につくられたものではなく、他の『なにか』によってつくられるものでもなく、『偶然の波間』に漂っているのでもなく、『自分自身の原因結果』によって、そこに存在すると説くのが仏法の考え方なのです。
 ここで注意しなければならなことは、命は過去世の原因によってあらかじめ定められたコースを流転するだけの存在であるかのように考えてはならないということです。
 このような決定論、運命論は、本物の仏教では取りません。日蓮大聖人様の教えでは、生命は、豪によって自身のあり方を規定され、業を感じていくと同時に、ひるがえって業を従え、あらたな業を形成していく力をもった主体的存在であることを主張しているのです。
 日蓮大聖人様は、困難を、現在から未来にかけての人生を、逞しく積極的に生きていくように説かれています。例えば自分の肉体に難病を持っていることを発見した時や、心の病にかかった時など、一度は愕然がくぜんとし絶望的になります。
 しかし、その時に、責任を神や仏、あるいは親や、社会に転嫁てんかしている間は全く解決しません。ひたすらお題目を唱えながら、この結果をもたらした原因を、過去世の自分の生命が犯した罪業に見いだす、つまり、自己の生命の問題として捉えきれたとき、はじめて解決への方途が開かれてくるのです。
 いかに悲惨な現状であったとしても、御本尊への真剣な唱題は、過去世の宿業(原因)を見つめ得る力強い生命力や知恵となって、その人を根底から支えるのです。これこそが唱題による仏界の湧現であり、仏法の功徳なのです。日蓮大聖人様は、法華経題目抄に、「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがえる義なり。」(御書360頁)
と御本尊を信受する者の大功徳について教えられています。
 また、四条金吾殿御返事には、
「仏法と申すは道理なり」(御書1179頁)と仰せになられており、正しい仏法による功徳は決して奇跡を期待するものではないのです。
かつて、日顕上人は、
「御本尊の妙法七字には、一切の文化、一切の心情心理、一切の生活の要諦が悉ことごとく篭っており、信じ行ずる人は必ず、その個々の状況と境遇に従って適切な、また不思議の功徳を得て仏力法力の加護を感じます。皆様の口より出でて天地に響く唱題は、必ず自他に大利益を齎すのであります。」
(第百法1996年1月1日号)
と御指南され、御法主日如上人猊下
「今日の悩みも、過去から持ち込んできた過去遠々劫の様々な悩みも全部、折伏によって解決できるのであります。要するに、自行化他の題目を唱えていうこと、つまり唱題をするとともに、多くの方々の幸せを願って折伏をしていくことが大事です。」(功徳要文 194頁)と御指南されました。

 唯一真実の仏法である、日蓮正宗の御本尊を根本に唱題と折伏に励んでいくならば、過去世の悪業悪因を消滅し、六根清浄の成仏の境界を得ることができるのです。
 今や、コロナ禍で人々の苛立ちは収まらず、アメリカで発生した人種差別反対のデモは、暴動と略奪にまで発展しながら世界中に広まるなど、国内外で陰惨な事件が多発しております。
 こういう御時世だからこそ、我々正信の徒が唱題を根本に命を正常にしながら、慈悲の折伏に励むことこそ、日蓮大聖人・御法主上人猊下の御意に叶った道であるのです。


令和二年六月度 御報恩御講拝読御書
 立正安国論りっしょうあんこくろん  文応元年七月十六日 三十九歳
 倩(つらつら)微管(びかん)を傾(かたむ)け、聊(いささ)か経文(きょうもん)を披(ひら)きたるに世(よ)皆(みな)正(しょう)に背(そむ)き、人悉(ひとことごと)く悪(あく)に帰(き)す、故(ゆえ)に善神(ぜんじん)は国(くに)を捨(す)てて相去(あいさ)り、聖人(しょうにん)は所(ところ)を辞(じ)して還(かえ)りたまわず、是(これ)れを以(もっ)て魔来(まきた)り鬼来(きた)り災起(わざわいおこ)り難起(なんきた)る。言(い)わずんはある可(べ)からず、恐(おそ)れずんはあるべからず。
                                    
                   (御書二三四ページ一四行目~一六行目) 

【通釈】よくよく浅見を傾けて、わずかに経文を開いてみると、世の中が皆正法に背き人々は悉く悪法に帰依している。ゆえに善神は国を捨てて去り、聖人はその所を去って帰ってこない。これにより魔や鬼が来て災難が起こるのである。このことを言わずにおられようか。恐れないでおられようか。

 

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