『妙法蓮華経』の体(実体)は、十界の依正であることをあかした書【当体義抄】 その一
【当体義抄(とうたいぎしょう】
■出筆時期:文永十年、五十二歳御作(西暦1273年)
■出筆場所:佐渡ヶ島 一谷(いちのさわ)にて述作
■出筆の経緯:妙法蓮華経の体(実体)について、十界の依正[一切衆生及び国土(自然)]が、すなわち妙法蓮華経の当体であることを明かしている。尚、依正とは、依報・正報の事で、仏法では人間と、それをとりまく国土(自然)は相互に密接に影響し合っている存在で、このことを「依正不ニ」と言い表している。
■本書は佐渡で大聖人に帰依した最蓮房に与えられている。最蓮房はもともと天台宗の学僧で、文永九年の一月十六日、十七日の二日間、大聖人が既存諸宗派・数百人の僧侶と法論された「塚原問答」を聴聞し、大聖人の確信に触れ、翌二月初旬に大聖人の弟子となり、日浄の名を頂いている。
■ご真筆: 現存していない。
[当体義抄 本文] その一
日蓮之を勘う
問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正(えしょう)即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾(しか)れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり、経に云く「所謂諸法(しょいしょほう)・乃至(ないし)・本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」云云。
妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土(しんど)」と云云、天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云、南岳(なんがく)大師云く「云何(いか)なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云、又天台釈して云く「衆生法妙」と云云。
問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや。
答う、法性(ほっしょう)の妙理に染浄(せんじょう)の二法有り、染法は熏(くん)じて迷(まよい)と成り、浄法(じょうほう)は熏じて悟(さとり)と成る。悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり。
此の迷悟(めいご)の二法、二なりと雖も然も法性真如(ほっしょうしんにょ)の一理なり、譬えば水精(すいしょう)の玉の日輪に向えば火を取り、月輪に向えば水を取る、玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し。
真如の妙理も亦復(またまた)是くの如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇(あ)えば迷と成り、善縁に遇えば悟と成る、悟は即ち法性なり迷は即ち無明(むみょう)なり。
譬えば人、夢に種種の善悪(ぜんなく)の業を見、夢覚めて後に之を思えば、我が一心に見る所の夢なるが如し。
一心は法性真如の一理なり、夢の善悪は迷悟の無明法性なり、是くの如く意得(こころう)れば、悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為す可きなり。
大円覚修多羅了義経に云く「一切諸の衆生の無始の幻無明(げんむみょう)は皆諸の如来の円覚の心従(よ)り建立す」云云、天台大師の止観(しかん)に云く「無明癡惑(むみょう・ちわく)・本是(もとこ)れ法性なり癡迷(ちめい)を以ての故に法性変じて無明と作(な)る」云云、妙楽大師の釈に云く「理性(りしょう)体無し全く無明に依る、無明体無し全く法性に依る」云云、無明は所断の迷・法性は所証の理なり、何ぞ体一なりと云うやと云える不審をば此等の文義を以て意得(こころう)可きなり、大論九十五の夢の譬(たとえ)・天台一家の玉の譬誠に面白く思うなり、正く無明法性其の体一なりと云う証拠は法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、大論に云く「明と無明と異無く別無し、是くの如く知るをば是を中道と名く」云云、但真如の妙理に染浄(せんじょう)の二法有りと云う事・証文之れ多しと雖も華厳経に云く「心仏及衆生是三無差別」の文と法華経の諸法実相の文とには過ぐ可からざるなり、南岳大師の云く「心体に染浄の二法を具足して而も異相無く一味平等なり」云云、又明鏡の譬真実(まこと)に一二(つまびらか)なり、委くは大乗止観の釈の如し又能き釈には籤(せん)の六に云く「三千理に在れば同じく無明と名け三千果成(じょう)すれば咸(ことごと)く常楽と称す三千改むること無ければ無明即明・三千並に常なれば倶体倶用(くたいくゆう)なり」文、此の釈分明(ふんみょう)なり。
問う一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば我等が如き愚癡闇鈍(ぐちあんどん)の凡夫(ぼんぷ)も即ち妙法の当体なりや、答う当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず、謂(いわ)ゆる権教の人・実教の人なり、而も権教方便(ごんきょうほうべん)の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云わる可からず、実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華・真如の妙体是なり、涅槃経に云く「一切衆生大乗を信ずる故に大乗の衆生と名く」文、南岳大師の四安楽行(しあんらくぎょう)に云く「大強精進経に云く、衆生と如来と同共一法身(どうぐいちほっしん)にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す」文、又云く「法華経を修行するは此の一心一学に衆果普(しゅうか・あまね)く備わる、一時に具足(ぐそく)して次第入(しだいにゅう)に非ず亦蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し、是を一乗の衆生の義と名く」文、又云く「二乗声聞(しょうもん)及び鈍根の菩薩は方便道の中の次第修学なり、利根の菩薩は正直に方便を捨て次第行(しだいぎょう)を修せず、若し法華三昧(ざんまい)を証すれば衆果悉く具足す、是を一乗の衆生と名く」文。
南岳の釈の意は次第行の三字をば当世の学者は別教なりと料簡(りょうけん)す、然るに此の釈の意は法華の因果具足(いんがぐそく)の道に対して方便道を次第行と云う故に爾前(にぜん)の円・爾前の諸大乗経並びに頓漸(とんぜん)大小の諸経なり・証拠は無量義経に云く「次に方等(ほうどう)十二部経・摩訶般若(まかはんにゃ)・華厳海空(けごんかいくう)を説いて菩薩の歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)を宣説す」文、利根の菩薩は正直に方便を捨てて次第行を修せず、若し法華経を証する時は衆果悉く具足す是を一乗の衆生と名くるなり・此等の文の意を案ずるに三乗・五乗・七方便・九法界・四味三教・一切の凡聖(ぼんしょう)等をば大乗の衆生妙法蓮華の当体(とうたい)とは名く可からざるなり、設(たと)い仏なりと雖も権教の仏をば仏界の名言(みょうごん)を付く可からず、権教の三身(さんじん)は未だ無常を免れざる故に、何に況や其の余の界界の名言をや、故に正(しょう)・像(ぞう)二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり、南岳釈して云く「一切衆生・法身(ほっしん)の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、是の故に法華経に云く「父母所生清浄常眼耳鼻舌身意亦復如是」文、又云く「問うて云く仏・何れの経の中に眼(げん)等の諸根を説いて名けて如来と為(する)や、答えて云く大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文、他経に有りと雖も下文(げもん)顕れ已(おわ)れば通じて引用することを得るなり。
大強精進経の同共(どうぐ)の二字に習い相伝するなり、法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり不同共(ふどうぐ)の念仏者等は既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり、所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那(だんな)等の父母所生の肉身是なり。
正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦(く)の三道・法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて三観・三諦(さんたい)・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり。能居所居(のうごしょご)・身土(しんど)・色心(しきしん)・倶体倶用(くたいくゆう)・無作三身(むささんじん)の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり、是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり。敢(あえ)て之を疑う可からず之を疑う可からず。
問う天台大師・妙法蓮華の当体譬喩(ひゆ)の二義を釈し給えり、爾れば其の当体譬喩の蓮華の様は如何、答う譬喩の蓮華とは施開廃(せかいはい)の三釈委(くわし)く之を見るべし、当体蓮華の釈は玄義第七に云く「蓮華は譬えに非ず当体に名を得・類せば劫初(こっしょ)に万物名無し、聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文、又云く「今蓮華の称は是れ喩(たとえ)を仮(か)るに非ず乃ち是れ法華の法門なり、法華の法門は清浄にして因果微妙(みみょう)なれば此の法門を名けて蓮華と為す、即ち是れ法華三昧(ざんまい)の当体の名にして譬喩(ひゆ)に非ざるなり」
又云く「問う蓮華定めて是れ法華三昧の蓮華なりや定めて是れ華草(けそう)の蓮華なりや、答う定めて是れ法蓮華なり法蓮華解し難し故に草花を喩と為す、利根は名に即して理を解し譬喩を仮らず但法華の解を作す、中下は未だ悟らず譬を須(もち)いて乃ち知る易解(いげ)の蓮華を以て難解(なんげ)の蓮華に喩う、故に三周の説法有つて上中下根に逗(かな)う、上根に約すれば是れ法の名・中下に約すれば是れ譬の名なり、三根合論し雙(なら)べて法譬(ほっぴ)を標す、是くの如く解する者は誰とか諍(あらそ)うことを為さんや」云云。
此の釈の意は至理(しり)は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時(ぐじ)・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す、此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し、之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり。
聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、故に伝教大師云く「一心の妙法蓮華とは因華(いんげ)・果台(かだい)・倶時(ぐじ)に増長す、三周各各当体譬喩有り。
総じて一経に皆当体譬喩あり別して七譬(しちひ)・三平等・十無上の法門有りて皆当体蓮華有るなり、此の理を詮(せん)ずる教を名けて妙法蓮華経と為す」云云、妙楽大師の云く「須(すべから)く七譬を以て各蓮華権実(ごんじつ)の義に対すべし○何者(いかんとなれば)蓮華は只是れ為実施権(いじつせごん)・開権顕実(かいごんけんじつ)・七譬皆然なり」文、又劫初(こっしょ)に華草(けそう)有り聖人理を見て号(ごう)して蓮華と名く、此の華草・因果倶時なること妙法蓮華に似たり、故に此の華草同じく蓮華と名くるなり、水中に生ずる赤蓮華(しゃくれんげ)・白蓮華(びゃくれんげ)等の蓮華是なり、譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり、此の華草を以て難解(なんげ)の妙法蓮華を顕す、天台大師の妙法は解し難し譬を仮(か)りて顕れ易しと釈するは是の意なり。
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