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四一開会の法門

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『日曜講話』第七号(平成元年3月1日発行)
四一開会の法門

 皆さん、お早うございます。皆様方も一乗という言葉、乃至は、一仏乗という経文の言葉をお聞きになったことがあると思います。一乗の一とは、唯一絶対に正しい成仏のための、ただ一つの正法という意味のことであります。乗とは、一切の十界の衆生を、ことごとく成仏させる、ただ一つの仏果菩提へと導くための教法を乗り物にたとえまして、その教えを乗というのであります。そして一切の衆生を、ことごとく成仏せしめるために、ただ一つの正しい教えは何かということを開顕し、それを一切衆生に説き、示し、教え、そして修行のあり方を、きちっと指し示して、一人ひとりを残らず仏果菩提へと導く。さとらしめるというところに、仏のこの世に出現あそばされる意味があるわけであります。そのことを、ひるがえって言うならば、一仏乗ということを開顕しなかったならば、開顕しない仏は、真実の仏とは言えないということを、今日は皆様方に申し上げたいと思うのであります。

 釈尊は四十余年の間、ずぅっと、小乗を始めとして、いろんな爾前権教を説いてこられまして、いよいよ法華経に入って、法華経の迹門の釈尊という立場において『方便品』に、

 「如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗(その他の教え)の若は二、若は三有ること無し。舎利弗、十方の諸仏の法も亦是の如し」(開結一六七)

ということを、お説きになっておられます。そして、今までの声聞を対象にした三蔵教や、あるいは又、縁覚を対象にした今までの通教を、そして菩薩を対象にして説いてきたところの別教の教え等々を、ことごとく捨てて、ただ法華真実の妙法につかなければいけないということを、開顕あそばされるわけであります。

 従って同じ『方便品』の中にも、

 「十方仏土の中には唯一乗の法のみ有り。二無く亦三無し」(開結一七四)

 「正直に方便を捨てて但無上道を説く」(開結一八九)

というふうに、釈尊はこの三乗を開して唯一乗と説かれた。「無量義とは一法より生ず」(開結八四)ということを申しますが、ただ成仏のための正法は、この一法しかないということを、きちっと説き明かされる。これを「開会の法門」と言うのであります。

 その「開会の法門」の中には、四つの意味がございまして、その一つは、ただ今申し上げましたように、この法界に正法はただ一つしかない、一切の十界の衆生を、ことごとく全部成仏へと導くことの出来る正法は、ただ一つしかないと開顕されることを、「教一開会」と言うのであります。唯一絶対の正法を示され、開顕されることを「教一開会」と申します。教えは一つという意味です。 

 そしてその「教一開会」の上にのっとって、その教法を説かれる仏も又、仏の名号を数え上げれば、釈尊の一代経経の中には、無量の三世十方の諸仏が、沢山の仏の名前が出てきます。仏の役割が示されております。爾前権教の仏ではなくして、本仏、根源の仏は、ただ一仏以外にはないということを示されるのが、「人一開会」です。法界の唯一絶対のこの正法を護持し、正法を説き明かされる、又、正法を下種して人々を救済してゆく根本の仏は、ただ一仏しかないということを示されるのを「人一開会」と言うのであります。

 従って、「教一開会」と「人一開会」つまり人開顕と法開顕の上に、唯一絶対の正法には、人法一箇の不思議な仏の働きと法門が、きちっと整足しておるということが、分かるのであります。

 そして同時に衆生に対しても、「成仏のための本当の修行というものは、この一法しかない。この信心しかない」ということを示される、これを「行一開会」と言います。「念仏の教えもいいですよ。こっちの教えもいいですよ。あれもいいですよ。これもいいですよ」と言うような信心、そういうようなことを説く仏は、絶対の正法を護持した仏とは言えない。御本仏とは言えないのであります。われわれ衆生に対して、真実の法を教え、又、真実の修行をきちっと指し示す、教示する仏をもって、本仏と申し上げることが出来るわけであります。ですから、「教一」を示し、又、仏はただ一仏、「人一」を示しつつ、修行も唯一つしかないという、その絶対の如説修行を示されるということ、これを「行一開会」と言うのであります。

 そして最後には、即身成仏のための道理、その法門というものは、これ又、ただ一つしかないということを道理の上から衆生にきちっと示されることをもって、これを「理一開会」と言います。この教・行・人・理、「教一」「人一」「行一」「理一」という、この四つの開会の法門をもって、真実の開会と言うのであります。従って、この「四一開会」を説くことの出来ない、説かない仏は、絶対に御本仏と仰いではいけない、本仏とは言えないということを、皆様に知っていただきたいと思うのであります。

 かって釈尊は、法華経の迹門において、迹門の仏として、十方の仏道の中には唯一乗の法のみありと、衆生に真実の正法ここにありということを、きちっと示されたわけであります。そして正直に、今までの方便をことごとく捨てて、「この妙法の一仏乗につきなさい」と説かれました。つまり「三乗即一乗」と開会せられたわけであります。

 そして又、いよいよ本門に入って参りまして、皆さんご承知のように『寿量品』において、その妙法が久遠の妙法であるということを開顕されまして、その上に立って、今度は衆生に対して、その妙法を良薬、最大のおくすりに譬えまして、『寿量品』に、釈尊は、次のように説かれるわけであります。

 「此の大良薬は、色香美味、皆悉く具足せり。汝等服すべし」(開結五〇三)

と、この妙法蓮華経には、三世十方の諸仏の一切の万行、万善の諸波羅密が全部ことごとくそなわっている。又三世十方の諸仏は、みんな、この南無妙法蓮華経の大法を種子として、それを基として成仏を果たし、三世十方の仏になったんだということを、きちっと説き明かされました。そこに本門の釈尊は、ここにおいて、先ほど申しました「四一開会」、つまり教えは一つ、又、久遠の仏はただ一仏である。そして、われわれの修行は南無妙法蓮華経の大法以外にはないということを、きちっと示される。成仏の道理も、これ以外にはないということを、きちっと示される。本心を失った、命の汚れた衆生に対して、きちっと即身成仏の大道を、本門の仏として指し示されたわけであります。

 それが『寿量品』における久遠の開顕の法門であります。しからば、末法において、末法の今日において、如何なるお方が、如何なる所において、末法のこの「四一開会」を開顕あそばされているかということをもって、末法の御本仏がどなたであるかということを、われわれは知らなければいけないのであります。末法の「四一開会」の法門を指し示された方は、もちろん、それは宗祖大聖人様であります。

 いま大聖人様が、どこにおいて、そのような御法門を展開されているかと申しますと、それは今日は時間もございませんから、その「四一開会」の中の「教一」ということだけをお話し申し上げますが、大聖人様は『立正安国論』に、その結論として、

 「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」(全三二)

ということを、きちっと、お示しでございます。『教行証御書』の中にも、

 「濁悪たる当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す。『是の好き良薬を 今留めて此に在く汝取って服す可し差えじと憂る勿れ』とは是なり」(全一二七六)

と、一切の十界の衆生末法万年の人々を成仏せしめる真実の一仏乗は、この南無妙法蓮華経の、大聖人様が建立あそばされる本門の本尊以外にはないと、ここに、きちっと、一仏乗をお示しであります。

 単に示されただけではありません、大聖人様はその大法を本門の本尊としてお顕しになって、そして末法の私達一人ひとりに、その御本尊を下種し、御下付して下さっている。

 そして『開目抄』において、「人開顕」を、「人一の開顕」をあそばされまして、その道理といわず、修行といわず、教・行・人・理の開会を、大聖人様は、一代の御化導の中にきちっと示して、真実の十界の衆生をことごとく成仏せしめる、「一仏乗はここにあり」ということを示しておられます。

 「一仏乗」、「四一開会」の法門を衆生に指し示すことの出来ない、「四一開会」の法門をもって教化出来ない仏を、絶対に御本仏として仰いではいけないのです。そして皆様は、大聖人様こそ末法の開会の上において、真実の仏様であるということを深く確信して、どんなことがあっても大聖人様の正法からは離れてはいけないという深い確信の上に立って、この信心を全うしていただきたいということを申し上げたいのです。本日は大変、御苦労様でした。

(昭和六十三年七月三十一日)