日蓮正宗のススメ

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させていただく信心【 名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだ しなり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし】

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源平合戦と言えば、那須与一を思い出しますが、その後の彼は、どうなったんでしょうか?

 

ja.wikipedia.org

治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍した。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ、頼朝より5カ国に荘園を賜った[5]。また、為隆を除く9人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆も後に罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。

 

【おごれる者は久しからず】
 平家物語の冒頭に
『おごれる人も久しからず 
            ただ春の夜の夢のごとし』
 (学研 現代語訳日本の古典 平家物語 
                       水上勉 14頁)
という一節があります。
 古典の教科書にもよく登場しますので、ご存知の方も多いかと思いますが、
 「おごり高ぶる者の天下は長続きしないもので、ただ春の夜の夢のようにはかないものである。」
と、勢いが盛んな時ほど慎まねばばらないという戒めを含んでいます。
 この『おごりたかぶること。また、その心』
広辞苑第四集・2435頁)
を「慢心まんしん」と言います。
 『法華経方便品』には、五千人の衆生が未だ悟りを得ていないのにも関わらず、釈尊の説法を聞く必要はないと慢心まんしんを起こし、その座から立ち去ったことが説かれています。
 結局、増上慢となったこれらの衆生は、『法華経』の会座において成仏することができませんでした。

 世間でも、大会社の社長の親族が、社員たちが自分にかしずくのは、実際には社長の権威に従っているにすぎないのに、自分が偉いからだと錯覚することによって、傍若無人ぼうじゃくぶじんに振る舞い、世間から糾弾きゅうだんされることがよくあります。

 今回は、皆さんにとっても深く関わりのある、「慢心まんしん」について、日蓮大聖人様はどのように仰せなのかをお話ししていきたいと思います。
 大聖人様は、「持妙法華問答抄」に
 『あなたが、仏になりたいと思うならば、慢心まんしんの旗竿はたざおを倒して、忿いかりの杖を捨てて、ただひたすら一仏乗である法華経に帰命しなさい。
 世間の名声や権力、金銭や財産は飾りとはなっても、そのことで成仏につながることは無いし、却かえって欲望の心に支配された生命は無限の豊かな心の財を失い、成仏の妨げになります。
 ああ、恥ずべき事である。怖れなければならない事である。』(御書296頁 意訳)
と、一切衆生が皆等しく成仏できる大聖人様の教えを、どのような心構えと実践をすべきであるかという事を、お示し下さっています。
 この「持妙法華問答抄」は弘長3年(1263)大聖人様が42歳の時、鎌倉において認められました。 
 大聖人は、2年前の弘長元年(1261)5月11日に伊豆に配流され、2年後の弘長3年(1263)2月22日に流罪が御赦免になり、鎌倉にお帰りになられ、その直後の執筆とされています。 
 この御書は、月日と対告衆は確定されていませんが、鎌倉において法難体験の上からも末法の正法たる妙法蓮華経を受持していく意義について、5つの質問形式で述べられております。 
 この御書では、釈尊一代の説教の中で、法華経こそが真実の教えであり、従って法華経以前の諸経は、「四十余年未顕真実」の方便の教えであること、爾前経には、許されなかった「二乘(声聞・縁覚)の成仏」と「女人、悪人の成仏」が説かれ、一切衆生の成仏が明かされた事が説かれています。 
 さて、一切衆生皆成仏の法華経の信仰を、どのような心構えと実践をもって受持すべきであるかという事を述べられているのが、先程の御文です。 
 法華経の受持は、観念観法(自分1人の悟りのために心理を観察し瞑想する)ではなく、受持即観心(正法を受け持ち、仏の教えのままに実践修行し、悟得るであり、その受持に特に慢心まんしんと瞋いかりと名聞名利みょうもんみょうりの心は、成仏の妨げとなるので慎むべき事を強く誡められています。


 【七種の慢】
 慢については『倶舍論ぐしゃろん』には七種類の慢心まんしんが説かれています。これは・慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢の七慢です。それぞれの概略とその意味は以下の通りです。

・慢まん…自分より劣った者に対して、自分が勝れていると思い、等しい者に対しては、等しいと心を高ぶらせること。
・過慢かまん…自分と同等の者に対して、自分が勝れていると思い、自分より勝れている者に対しては、同等と思うこと。
・慢過慢まんかまん…自分より勝れた者に対して、逆に自分のほうが勝れていると思うこと。
・我慢がまん…自分の勝手な思いに執着すること。
増上慢ぞうじょうまん…法門等を正しく理解、証得していないのに、自分は既に証得したと思うこと。
・卑慢ひまん…自分よりはるかに勝れている者に対して、自分は少しだけ劣っているだけだと思うこと。
・邪慢じゃまん…自分は徳がないにもかかわらず、徳があると思うこと。

以上の七種の慢の心を七慢と言います。
 一般の仕事や、勉強や習い事も、基本的には師匠や先生について教わっていきます。この「七種の慢」は、普段の生活の中においてもとても重要な事柄です。

 仏法は、師弟相対して正しく信じていくことが第一です。一般の習い事も師匠や先生について教わっていきます。中には、独学で免許を得る人もいますが、成仏だけは自分の我流だけでは絶対叶いません。それは、仏様のお心にかなってこそはじめて仏になる事ができるからです。 
 大聖人様の本懐は、富士大石寺の奉安堂にまします本門戒壇の大御本尊様です。 
 そして、大聖人様の血脈は現在総本山第68世御法主日如上人のもとに、正しく法統連綿されております。 
 その御法主上人の御命によって住職は、御法主上人の御意を体し、各寺院の御本尊様と御信徒をお守りしていきます。 
 このように、日蓮正宗の信仰は、人法一箇、師弟相対して根源の大聖人様のもとに繋がっていき、そこにこそ正しく成仏の功徳が備わっていくのです。 
 それに対して、他宗や、日蓮正宗から破門された団体には、この血脈がないから、一切功徳はありません。それどころか返って謗法の害毒による罪の現証を生じていくのです。
 さて、その謗法を生む大きな原因になっているのが、一に慢の心です。
 大聖人様の唯一無二の正法に対して、自分たちの方が正しいとか、血脈がないのに仏法を証得したとする思い上がりの我見我意の心です。 
 ところが、この我見我意の我慢の命は、正しい日蓮正宗の信心をしていても、自分のわがままな思いに執着することによって、大聖人様のお心からどんどん離れていつの間にか籍は日蓮正宗にあっても、心が自分個人の心に執われた考えの中に縛られて、正しい血脈も流れ通わなくなるのです。 
 だから大聖人様は、ことさら我慢の心が生じたならば、すぐさまその旗印を下げて素直に信心しなさいと仰せなのです。
 日蓮大聖人は『新池御書』に、
 「皆、この経を信じ始めるときは信心があるようにみえるけれども、中ほどになると信心も弱く、僧侶をも敬わず、供養をもせず、慢心を抱いて邪悪な考えを起こす。これは恐れるべきである、恐れるべきである。
 始めから終わりまで、いよいよ信心を貫くべきである。そうでなければ後悔するであろう。
 たとえば鎌倉から京都へは十二日の道程である。それを十一日ほど歩いて、あと一日になって歩くのをやめてしまったならば、どうして都の月をながめることができようか。なんとしても、この経の心を知る僧に近づき、いよいよ仏法の道理を聞いて信心の歩みを運ぶべきである。」(御書 1457頁 意訳)
と仰せです。

 この御指南は、まさに今の創価学会のことを指しています。
 創価学会が破門になった原因の一つに、池田大作の「正本堂は我々が建て、宗門に使わせてやっている、しかし僧侶は偉そうにするばかりで大して感謝もしない。」という本音がありました。 
 このように、「七慢」等の慢心まんしんを起こすと、自分自身の信心の姿勢も、また他の物事に対する問題も、すべてにわたって正しく判断することができなくなってしまいます。


  【瞋るは地獄】
 次に信心の障害になるのは、瞋いかりの心です。仏法では、貪・瞋・痴を三毒といって、貪り、瞋いかり、癡かの生命は、功徳を消滅する三要素です。 仏法では、瞋いかりの生命は、地獄の苦しみの生命です。医学的にも瞋りの生命は癌になりやすいと言われています。 では何故、正しい信心をしても瞋いかり瞋りの心が生じるのでしょうか。それは、一念三千といって、瞋いかりや貪りの癡かな生命は誰もが持っているものです。縁によって出てきて瞋いかり狂うか、冥伏して穏やかな生命でいられるかは、その人が身口意の三業(振る舞い)によるものです。 
 謗法の信仰をすれば、この三毒はより活発になります。 
 自分の執われの生命によって、瞋いかる心が湧いてくることがあります。その時は瞋いかりことで全て功徳は消滅し、瞋いかる生命は自分の我慢の心に巣づくりしていることを知って、心を強く正しく覚悟を持って瞋いかりの心を捨て去り、ただひたすら素直に御本尊様に帰命していくのです。

 医学的にも、瞋いかりの命は、精神的のも肉体的にも自分自身を害し、様々な病気の温床とされています。
 名聞名利みょうもんみょうり(世間の名声や権力・金銭や財産)は、現実の世間においては人々が羨むことです。しかし、今生においては飾りとはなっても、そのことで 成仏につながることはありませんし、返って欲望の心に支配された生命は、貪欲の貪りのとりことなって無限の豊かな心の財を失っていきます。 
 また、我慢偏執たる自分の我見我意の執われた心に執着する生き方は、素直な信心の妨げになり、現世安穏後生善処の束縛となるのです。 

 いよいよ、宗祖日蓮大聖人御生誕八百年の大慶事まで14ヶ月となりました。この大事な法要にきちんと覚悟を定めて信行に励んで臨まなければ、魔にたぼらかされることでしょう。
 「魔は仏を憎む」とありますように、皆さんの成仏の障りとなる魔も本気で立ち向かってくることでしょう。
 「嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。」と諌められているように慢心まんしん、瞋いかり、名聞名利みょうもんみょうりの三つの障りの心に執われる自分の心を恥じ、成仏の妨げになる事を恐れ、心して御生誕八百年を目指していきましょう。
 この三つの障害を乗り越えていくところの確実な修行を「持妙法華問答抄」の最後の御文にて、
 「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。」(新編1200頁)
と仰せです。これは、唱題、折伏です。
 どうか唱題に励み、折伏の実践によって、慢心がさせていただく素直な心に変わり、瞋いかりの心は感謝と思いやりの心に変わり、世間の名聞名利の心が仏法護持の誉れと誇りに変わり、一生成仏が叶い、人生の本当の目的がきちんと定まってくるのです。 どうぞ喜びある信心に精進しましょう。

令和元年十二月度 御報恩御講拝読御書

四(し)条(じょう)金(きん)吾(ご)殿(どの) 御(ご) 返(へん)事(じ)  文永九年  五十一歳

 法華経(ほけきょう) 云(い)はく「若(も)し善(ぜん)男(なん)子(し)善(ぜん)女(にょ)人(にん)、我(わ)が滅(めつ)度(ど)の後(のち)に能(よ)く竊(ひそ)かに一人(いちにん)の為(ため)にも法華経(ほけきょう)のない乃(ない)至(し)一(いっ)句(く)を説(と)かん。まさ当(まさ)にし 知(し)るべし 是(こ)の人(ひと)則(すなは)ちにょらい如来(にょらい)の使(つか)ひ如来(にょらい)の所遣(しょけん)として如来(にょらい)の 事(じ)を行(ぎょう)ずるなり」等云云。法華経(ほけきょう)を一(いち) 字(じ)一(いっ) 句(く)も唱(とな)へ、又(また)人(ひと)にも語(かた)り申(もう)さんものは教主(きょうしゅ)釈尊(しゃくそん)の御(おん)使(つか)ひなり。

  (御書六二〇㌻二行目~四行目)



      住 職 小こ 橋はし 道どう  芳ほう

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