真の仏と架空の仏 【末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。】
《真実の仏は必ず人界の中にお出ましあそばされる》
日蓮正宗では、宗祖日蓮大聖人様こそ末法の御本仏(ごほんぶつ・唯一本物の仏様)と拝します。
そして、大聖人様が久遠元初(くおんがんじょ)の仏様として、悟り ・所持されている久遠の本因妙(ほんにんみょう)の法体(ほったい)を、末法万年の衆生のために本門戒壇の大御本尊として御建立下さったことを拝し奉って、末法の御本仏として信仰申し上げるのです。
それ故に、大御本尊様を生身(しょうしん)の日蓮大聖人様と拝して、そこに信をとることが「事の一念三千の法門」に他なりません。
しかしながら、日蓮宗などの大聖人様を宗祖と仰ぐ宗派の人や、世間一般の人達は、大聖人様が仏様ということを、どうしても信じられないのです。
インドに出現をされて、五十年間様々な爾前権経(にぜんごんきょう)を説かれ、そして最後に法華経をお説きになった釈尊に対しては、一応、仏として尊敬する志はあったとしても、大聖人様は一宗派の開祖であるぐらいの概念しかないのが、世間一般の考え方です。
世の中の人達に、本当に理解してもらいたいことは、真実の仏は必ず人界に出現されるということです。このことは、仏様の大きな慈悲に基ずく御化導(ごけどう)の上から、一切衆生を救済するためには、必ず人間界にお出ましになるのです。
日蓮大聖人様この世に出現され、一切衆生のために法を説き個々の人々を実際に教導され、ご本尊様を御下付下さったからこそ、我々末法の衆生が救われるのです。
大聖人様は『四条金吾殿御返事』の中に、
「仏は六道の中には人天、人天の中には人に出でさせ給ふ」(御書1041頁)
とはっきり名言されています。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の衆生を救おうと思ったら、やはり御本仏が六道の世界にお出ましになられる必要があります。この縁がなければ一人ひとりを教導することは出来ません。
《主師親三徳兼備してこその仏》
さらに真実の仏様は、この人界にお出ましになり、あらゆる衆生との間に、娑婆阿世界の教主として、師匠として、また深い慈悲の上から親の役割を果たすのです。
御本仏は実際に主師親(しゅししん)三徳(さんとく)兼備の姿を確立されて、はじめて、すべての人々を教導することができるのです。
大聖人様は、また『祈祷抄』という御書の中に、「仏は人天の主、一切衆生の父母なり。而しかも開導の師なり。(中略)娑婆世界に出でさせ給わざれば師匠にあらず」(御書628頁)
と仰せられております。
また、「其中衆生(ごちゅうしゅじょう)悉是(ひつぜ)吾子(ごし)」(その中の衆生は、悉(ことごと)くこれ吾が子なり)という法華経の有名なお経文をここに掲げられ、仏様が実際に娑婆世界にお出ましになって、三の主としてのお立場、師匠としてのお立場、そして一切衆生は、ことごとく一仏の子供であるという關係を、ちゃんと成立させなければ、救済することはできないということをお示しなのです。
この主師親の三徳を兼ね備えなければ、仏様があらゆる人びとを実際に救うことはできないということをお示しなのです。
この主師親の三徳を兼ね備えなければ、仏様があらゆる人びとを実際に救うことはできないということは当然の理です。
今日、阿弥陀如来や不動明王や大日如来などの様々な仏、菩薩を仏像に刻んで、本尊と頼んで、宗旨の根本として尊崇する宗旨はたくさんありますが、全部そうした宗旨の仏、あるいは菩薩、その他の像は、全部これは架空の仏、架空の権仏です。
さらに、歴史上の偉人を神と崇め、像にして拝むというのは間違いです。大宰府天満宮のように当時の権力者が、菅原道真の祟(たた)りをおそれ鎮魂(ちんこん)として祀(まつ)ったり、日光東照宮のように時の為政者(いせいしゃ)が徳川家康を神として祀ったりしているに過ぎません。
実際に、この娑婆世界にお出ましになって、たった一人の人でも教導して苦しみから救ったという事実はまったくないのです。当然のことです。
《仏の十号》
昔から仏様の尊称の中に、仏の十号と申しまして、十の尊称が挙げられております。
①如来(にょらい) 真理に従って完全な状態を得た人
如=真理から来たという意味で如来
②応供(おうぐ)供養を受けるにふさわしい人
③正遍知(しょうへんち) 正しく悟った人
⓸明行足(みょうぎょうそく) 知恵と行為を備えた人
⑤善逝(ぜんぜい) 完成した幸福な人。
善く逝く=彼岸と此岸を自在に行き来できる人
⑥世間解(せけんげ) 世の中のことをよく理解している人
⑦無上士(むじょうし) 最高の人
⑧調御丈夫(じょうごじょうぶ) 人を指導することに巧みな人
⑨天人師(てんにんし) 神様と人間の師
⑩仏世尊(ぶっせそん) めざめた人、福徳のある人
一般的には釈尊のことを「お釈迦さま」と呼びますが、釈迦は古代インドの種族の名前です。 ゴーダマ・シッダルタという呼び方のゴータマも種族の別名です。シッダルタが名前で悉達多、悉達太子などと音写します。
釈尊は釈迦族の尊者という意味で、釈迦牟尼むにの略です。牟尼は聖者を意味します。世界的に広く使われている呼び名は「ブッタ」です。古代インドでもゴータマ・ブッタと呼ばれていました。
ブッタは、めざめた人、真理を悟った人、などといった意味で、古代インドではお釈迦様以外の外の宗教者にも使われた呼び名です。中国ではこれを仏という字で音写し、後に仏陀となります。
このように、実際にこの世に出現され、人々を教導されてこそ、はじめて世の中の人から尊敬される仏と仰がれるわけです。
仏様の十号のことごとくが、やはり仏様が実際にこの世の中に御出現にならなければ成立し得ない仏様の尊称です。十号全部が、実際に仏様がこの世に御出現され、教導あそばされるところからうまれてくるのです。
したがって、阿弥陀如来や大日如来などの、釈尊が人々を教化するにあたって説かれた架空の権仏には仏の十号は成り立ちません。架空の権仏には、この世に出生して一切の人びとを教導された事実も、そうして実際の功徳も絶対にあり得ないということを、こうした側面からも実証することができます。
その権仏に執着するあまり、弘法大師は釈尊に対し、「釈尊は大日如来に比べれば草履係以下の劣った仏」と悪口を言っているのです。
また釈尊が「真実で最高である」と説いた「法華経」を、「第三番目の劣った教え」であると否定しているのです。
また、念仏宗の開祖法然は、法華経を「捨てよ・閉じよ・閣さしおけ・抛なげうて」といって、法華経に帰依することを否定しています。念仏を称となえる宗教では、この世は苦悩に満ちた穢(けが)れた土であり、死後に阿弥陀仏によって西方(さいほう)極楽浄土に往生することだけを願いなさいと教えています。
これでは、目の前で悩み苦しみ苦しむ人に対し、「あなたは今の世では救われることがない」と突き放しているようなもので、とても人々を救う教えとは言えません。
これらはまるで、アニメを見た子供が、創作された物語の世界と現実の区別が付かず、アニメのヒーローの存在を固く信じ、日常生活で自分がピンチの時にヒーローによる救いを願うのと何ら変わりがありません。
まさか、仏壇にウルトラマンやアンパンマンの人形を入れて、救いを求めて拝む人はいないでしょう。
しかしこれが、仏像や絵像になると、道理は同じでも人々はありがたいと思い、救いを求めて手を合わせてしまうのです。
ウルトラマンを拝んだところで罰は当たりませんが、本物の仏をないがしろにし、架空の仏を拝む行為は、知ると知らぬとに関わらず罪障を積んでしまうのです。
《末法の御本仏》
日蓮大聖人は末法の御本仏として、人々に法を授けられ、末法万年の衆生を救うために、数々の御指南をあそばされています。
『御義口伝』に、
「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり(中略)仏共云はれ、または凡夫僧共云はるゝなり」
(御書1779頁)
大聖人様は凡夫僧でありながら仏様であり、仏でありながら凡夫僧です。そのお姿、こうした御境界をこの『御義口伝』の御文を通して、私共にお示しになっていらっしゃるのです。
本宗のお会式は、大聖人様の御命日に当たり、宗祖大聖人様が非滅現滅のお姿を如実に示されたことをお偲び申し上げ、大聖人様に対する御報恩の誠をもって、奉修申し上げます。
しかし、大聖人様の仏様としての御境界、お立てになった教法の力は、末法万年、三世常恒に輝いて、一切衆生に対しあらゆる救済の事実をお示しになることは、これはまた当然のことです。
大聖人様のこの人法一箇の御境界、その法体は三世常恒であるということを、深く確信していただきたいのです。
その意味から、大聖人様は『報恩抄』に、
「日蓮が慈悲こう大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」(御書1036頁)
との有名なお言葉をお示しくださるのです。
大聖人様は、一応法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり。、衆生の御化導の上からは御入滅の姿をお示しになりましたが、大聖人様の仏様としての御生命と、我々衆生をご教導くださっている事実と、法体の妙法の経力は、未来永劫、三世常恒であり、未来万年に及ぶことを確信してください。そして、本物の仏の存在を知らしめていくという折伏を大いに行じていこうではあるませんか。
令和二年 一月度 御報恩御講拝読御書
最蓮房御返事 文永十年一月二十八日 五十二歳
法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり。
(御書六四二ページ六行目~八行目)
いつも、慈本寺様の御法話を勉強させていただいて、感謝しています。
住職の法話第315号/真の仏と架空の仏【末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり】
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人間というのは、進化の過程で虚構を信じることで、チームワークを形成することが出来て、他の人類種を亡ぼして唯一の人類として生き残った。。。
そんな歴史学者の、空観にも似た世界観が世界に衝撃を与えたのが、サピエンス全史でした。
同じく、評判という虚構にすがって、間接互恵の道徳感情を身につけてしまったと説いたのが、道徳感情論で有名なアダムスミスです。
「仏は六道の中には人天、人天の中には人に出でさせ給ふ」(御書1041頁)との御金言ですが、実際に出現すると、人は公平さを求める本能から、とてもじゃないけれども目の前の人が仏だとは信じられません。
日蓮宗などの大聖人様を宗祖と仰ぐ宗派の人や、世間一般の人達は、大聖人様が仏様ということを、どうしても信じられないのです。
と、御住職様も仰せですが、まさに嫉妬心という道徳感情を刺激されて、認知バイアスに囚われてしまうのです。同じ日本人で仏様がいるなんて、公平さに欠けるので嫌なのです。「ノーベル賞をとった見ず知らずの男の栄誉よりも、隣のデスクの男が課長に抜擢されることの方が耐えられないのです。」だから、どうでもいい、架空の神や仏には手を合わせられるのです。
世界最高の文学書、カラマーゾフの兄弟に「大審問官」のエピソードがありますが、まさにそれのことなんです。 異端審問官は目の前に現れた復活のキリストに対し、あろうことか火あぶりの刑を宣告してしまう。。。
理想と現実のはざまに放り込まれると、人間は理想を憎むようになるのです。大審問官については、下のブログを参照してください。
nichirendaihonin.hatenablog.com
認知バイアスについてもっと知りたくなってきました。
FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣
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心の中のブラインド・スポット: 善良な人々に潜む非意識のバイアス
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