日蓮正宗のススメ

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【心みに法華経の信心を立てゝ御らむあるべし】御本尊にその身を任せる

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寿命を仏様から賜ることができるかどうか。。。そこに固執してはなりませぬ。

【父母の病】
 昨年の6月はじめ、母から「京都に住む叔母の容態が悪く入院しているがどうもよくないらしい」と電話がありました。
 すぐに一人娘である従兄妹にLINEを送ると「平安寺のご住職様、講の皆さんに、本当に本当に支えていただいています。土日お寺に通い、唱題しています。お父さんも、御本尊様に向き合い、唱題してくれています。母は、本当に気力があり、ほとんど動けないはずなのに、自分の力で食事もしようと頑張っています。やはり、御本尊に守っていただいていると、私も確信しています。一生懸命、勤行、唱題し、御祈念いたします。本当にありがとうございます。」と返信が来ました。
 私は、前向きな姿に安堵し、「辛いけど、必ず良くなるからね。乗り越えていけるから。」と返信しました。
 叔母は私が大坊在勤の高校2年生の時に、修学旅行で京都へ行った際、千載一遇のチャンスと心に決め、自由行動の日に自宅へお邪魔し、折伏しました。その縁で夫婦そろって入信することが出来ました。
 入信後もあまり熱心で無かった叔父と対照的に叔母は平安寺で薫陶を受け、信心強情な信徒になりました。
 本山や実家の法事などで会うと「いまウチの支部折伏状況はこうだから、まだまだがんばらなあきませんねん。」「リレー唱題会でマイクをさせてもらってます。私がやすむわけにはいきまへん。」と、目をキラキラさせて報告してくれるような方でした。
 『可延定業かえんじょうごう御書』という御書があります。
 このお手紙で大聖人様は富木常忍殿の奥様である尼御前に「あなたの病は必ず治る。また治しなさい」と激励されました。
 病には軽病と重病の二つがあり、重病であっても善い医者によって直ちに処置すれば命を永らえることができる事。
 私たちの命には「定業じょうごう」と「不常業ふじょうごう」の二つの「業」があると説かれます。
 その「定業」ですら、よく懺悔すれば消滅することができると御教示されています。


 【叔母の臨終】
 叔母は一介の主婦ではありましたが、心の綺麗な真っ直ぐな方で健気な信心を貫いた方でした。御本尊様の御加護を頂き、快復されるものと信じていました。
 しかし、一週間後に信心の醍醐味を夫と娘に教えて、叔母は霊山浄土へ旅立ちました。
 生前中の叔母の人徳だと思いますが、お通夜・葬儀・初七日と100人以上もの講中の同志が集い、心からのお題目を送って下さいました。
 叔母が元気な頃は、御講参詣もままならない叔父でしたが、「ここまでみなさんにして戴いたからには、妻の分も含めてこれから頑張っていきます。」
と決意を披露し、現在、真面目に取り組んでおります。
 葬儀の際、叔母の病状について知り得たことは、疲れやすく体調が悪くなり体調が悪くなり調べると血液の病気だと言われ即入院だったそうです。無菌室に入って処置をしていましたが、症状は瞬く間に悪くなっていたそうです。その間も、意識をはっきり保ちお題目を唱えられていたとの事でした。
 
 慈本寺に戻りしばらくすると、私の中で、従兄妹に「必ず良くなるから」との声かけが正しかったのか?
 真面目な強信徒だった叔母を思い出す度に、この思いがよぎるのです。
 勿論、御本尊様の仏力法力は微塵も疑っていませんし、成仏したとの確信もあります。
しかし、よくよく考えてみますと、私たちは、お医者様ではないのですから、その方の正確な病状や、今後どう治療していけば治るのか、もう治らない病気なのか、そういったことは分かりません。
 それにも関わらず「必ず良くなる」と言って良かったのか?
 却って不信を抱かせなかっただろうか?
 闘病中の方へ、御本尊様の素晴らしさ、功徳を訴え、平穏な心で日々を過ごしてどう申し上げれば・・・と父母の一周忌に当たり、悶々と考えておりました。
 

【故光久日康御尊能化の御指導】
 そんな時、一冊の本と出会いました。
 「六根清浄-親と子の絆-」(幻冬舎メディアセンター)という自伝で、作者はペンネーム「永久」という女性信徒です。
 Facebookで知り合い、贈呈戴きました。
 作者のお母さんとの思い出を綴った中にこんな記述がありました。要旨を抜粋します。
 『永久さんのお母さんは、戦後猛威を振るっていた結核を患い、結核療養所へ入院していたそうです。』
 お母さんは永い闘病生活の果てに、余命後二カ月という時に、我が家に戻りました。
 そんな時に、お父さんの姉が「日蓮正宗」の信心を勧めてくれました。
 お父さんは、「信心で楽になるはずがない」と叔母に反抗しましたが、学校も出ていない叔母が理路整然と説き伏せる話に、「これは今まで自分が考えていた信仰とは何か違う」と思ったそうです。
 入信したのが昭和29年3月で、家族で素直に信心を始めました。
 その年の夏には、寝たきりのお母さんは床上げして、久しぶりに入浴し、姉弟にセーターを編んであげるなど、はじめて家族団らんの一時を過ごすことが出来、おせちを囲んで元気に楽しいお正月を迎えました。
 しかし、翌年三月、流行性感冒かんぼう(インフルエンザ)に罹かかり体力が十分でないお母さんは肺炎を併発し寝込むことになります。
 その際、当時、軽井沢・妙照寺のご住職であった故・光久日康御尊能化が御両親へ
 「人には寿命というものがあり、定業と命が定められている人、また不定業といっていつ死ぬか決まってない人がいます。不定業ならば、きっと治り生きられるでしょう。定業であれば、苦しむことなく楽に命を終え、来世にまた御本尊様にお会いできるでしょう。しっかり御本尊様を拝み、願ってご覧なさい。」と話されました。
 お母さんはお話を聴いて「ここまで行かせていただき、一時でも楽しい時を過ごせ、苦しまないで死を迎えられる。」と安堵し、さらに家族で一生懸命祈られたそうです。
 そして永久さんは、
 『母との思い出はその数カ月しかありませんが、御本尊様のお陰で、母は、お題目を唱えながら、本当に安祥として静かに息を引き取ったのです。母の臨終の姿、それは素晴らしいものでした御題目を唱えながら静かに眠る様に息を引取り、頬はほんのりと紅色、目は薄く開いて口元も緩んで、昼寝をしている様でした。身体は座棺ざかん(体育座りの状態で納める棺・硬直が進むと無理矢理骨を折ることも)に入れることも支障なく、舟を漕ぐかのように柔らかでした。

 箱山の火葬場で焼かれた骨は、ペニシリンなどの抗生物質を長年投与されているにも関わらず「真白に耀かがやいて」いました。日蓮大聖人様の教えられている様な姿に、子どもながらにも仏様の素晴らしさを感じたのでした。
 それが、私の信仰体験の始めの体験です。未だに母よりきれいな姿の死に姿は見たことがありません。その姿は、日蓮大聖人様のお認したためのとおりなのでした。』
と述べられています。
 私は、故・光久御尊能化様のお言葉を拝し、霧が晴れる思いでした。
 その方の、宿業・信心・寿命など仏様しか分からない部分が多々あります。御本尊様の功徳を確信し、御本尊様に身を任せることが大事であり、そう勧めるしか道は無いのです。

 【御本尊は一閻浮提の人の良薬】
 法華経の『薬王品』には、
 「此の経は即ち為れ、閻浮提えんぶだいの人の病の良薬なり」(法華経開結539頁)
と説かれています。
 私たちの命には、過去世からの色々な病気や、宿業があり、罪障を持っています。
 正しい信心をしたら、罪障があっても、絶対に消滅させてくれるのです。大聖人様は
 「心みに法華経の信心を立てゝ御らむあるべし」(御書760頁)
絶対に大丈夫だから試してみなさいと激励されます。
 この信心は、本当に試みる・実践することによって、命を絶対に変えてくれるのです。
 また、かえていかなければ、「何の為に生きているのか?」という事になってしまいます。
 病気は病院で医者に治してもらうというのは当然ですが、その病気の原因は様々です。
 「病の起こりを知らざらん人の病を治せば弥いよいよ病は倍増すべし。」(種々御振舞御書1067頁)
とあるように、病気の原因を知らずに治療すれば、逆に病気はひどくなる、と仰せです。
 「色心不二」といって心と体は一つです。ですから信心をして命を強くすると、体も強くなってきます。
 信心を根本として、病院にかかると、
 「いい医者に出会った」
 「手術や治療が上手くいった」
 「薬が殊の外よく効いた」
という話は講中でもよく聞く話です。
 一日の命は三千世界の宝物よりも大事なものです。
 命がなぜ大事かというと、命があれば自分で功徳積むことが出来るからです。
 自分の力でお題目が唱えられ、勤行が出来、折伏が出来ます。
 死んでしまったら、いくら自分で修行して功徳を積もうと思っても出来ません。残った人に塔婆供養とか、追善回向をしてもらって功徳を積むしか方法がありません。
 だからこそ法統僧俗・一家和楽の信心が大事になってくるのです。
「一日もいきてをはせば功徳つもるべし。」(御書761頁)
と大聖人様仰せです。
 生きていればこそ自分で功徳を積むことが出来るから命が尊いのです。
 「定業」という罪障さえも変えることが出来るから、「命を懸けていきなさい」「一日でも永く生きてしっかりと使いなさい」と御教示されております。
 誰にでも今世の寿命があります。しかし、その生老病死の苦しみさえも、妙法のもとに命を全うした人は、「常楽我浄」という妙の功徳として、その命に顕現していくのです。
 ですから、真の法華経の行者の死は、虚しく悲しいだけの死ではないのです。その生老病死を必ず三世常住の命へと転換できるのです。言うならば、新しい命への旅立ちです。
 そこには清らかで円満な浄行菩薩としての徳分を具え、妙法の功徳によって即身成仏の境界を顕していくことができるのです。
 そこが解っていないと、お金の為、地位の為、名誉の為、娯楽の為のみに、時間を費やし命の無駄使いをしてしまいます。
 信心に命を懸けていくところに仏様の功徳が表れてきます。
 だから「不自借身命」というのです。

 私たちが戒檀の大御本尊様にお目通りした際に、御法主日如上人猊下上人猊下が「無始以来の謗法罪障消滅、信心倍増、息災延命、家内安全、一切無障礙、現当二世、大願成就の御記念を懇ろに申し上げました。
と、最後に御挨拶下さいます。
 宗祖日蓮大聖人様の血脈を継承される御法主上人に、私たちはご祈念していただいているのですから、コロナ禍や自然災害で不安ばかりが増す世の中ですが、大丈夫です。必ず御加護があります。
 我々はこのありがたい御本尊様への唱題を根本に、折伏の情熱を失わず、共に励んで参ろうではありませんか。
 皆様の御精進を心より念願する次第です。

令和二年七月度 御報恩御講拝読御書
 曾谷殿御返事そやどのごへんじ  建治二年八月二日 五十五歳

 謗法ほうぼうを責せめずして成仏じょうぶつを願ねがはゞ、火ひの中なかに水みずを求もとめ、水みずの中なかに火ひを尋たずぬるが如ごとくなるべし。はかなしはかなし。如何いかに法華経ほけきょうを信しんじ給たまふとも、謗法ほうぼうあらば必かならず地獄じこくにを堕つべし。うるし漆 千ばい杯蟹かに入いれたらんが如(ごと)し。「毒気深入どっけじんにゅう失本心故しっぽんしんこ」とは是これなり。(御書1040ページ二行目~五行目)

【通釈】謗法を責めないで成仏を願うのは、火の中に水を求め、水の中に火を探し尋ねるようなものであり、実に虚しいことである。
いかに法華経を信じても、謗法があれば必ず地獄に堕ちるのである。
たとえば、漆千杯に蟹の足を一つ入れるようなものである。(法華経如来寿量品の)「毒気深入、失本心故」とはこのことである。 

 


立川談志/死神


滝田ゆう落語劇場 死神


【立川志らく】YouTubeで落語 三席目「死神」(2020.5)


【あらすじ名作落語③】