日蓮正宗のススメ

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彼岸会奉修の意義

『日曜講話』第二号(昭和63年5月1日発行)
彼岸会奉修の意義

 皆さん、お早うございます。今日はお天気には余り恵まれませんが彼岸の中日でもございますので、本宗におきまして、どういう理由をもって彼岸会の法要を奉修するのかということに就いてのお話を申しあげたいと思うのであります。これは極端な人だと思いますけれども、自分の両親は日蓮正宗の信徒であって、大聖人様の御本尊様のもとに臨終の時、しっかりとお題目を唱えてお送り申しあげたのだから、殊更、彼岸が来た、お盆が来たからといって特別、供養ということをしなくとも良いのではないか、しっかりと、もう成仏し終わっているのではないかという、そうした疑問を持つ人も中にはいらっしゃると思うのであります。これはやはり信心の在り方の上において、よく考えて頂きたいと思うのであります。彼岸ということも、今世間では何か自分の菩提寺へ参詣する、あるいは先祖代々の墓地へお参りするということをもって、彼岸の行事という風にお考えでありますけれども、確かにそれはそれとして一つの志の上において、尊いことではありますが、一番大事なことを忘れていると思うのであります。

 それは彼岸ということはパーラミータと、インドの言葉に示しておりますように、到彼岸、彼岸に到るということであります。しかし彼岸に到ることを心に置いて、現実の自分が、この大乗の六波羅蜜の中の何等かの修行の志を立てて、自分の精進と自分の境涯の向上を目指していくということを、世間の人は皆忘れているわけであります。何か親のため、先祖代々のためにして上げている、しなければいけないという程度には考えるのでありますけれども、自らの修行、自らの発心、自らの向上ということを皆忘れていると思うのであります。彼岸の中日を境にして前に三日、そしてその後に三日、都合一週間が彼岸の期間とされております。

 これは念仏の方で言いますと、念仏の西方極楽浄土にとって都合のいいように解釈をするものですから、彼岸の中日は太陽がま東から昇って、ま西に沈むから、西の方、西方極楽浄土に一番近い日だ。だから一番功徳のある日、一番修行をすることに意味のある日だという風に言うのであります。しかし、そうではありません。

 これは仏法の意味から言いますと、昼の長さと夜の長さが同じということを「時正」という風に本来は申すのであります。それは、まさに一年を通じて中道といいますか、「仏好中道」、「仏は中道を好む」と申しまして、中道の日にそうした大乗の六波羅蜜誓願を起こすということが、仏道を行ずる者にとって又、大切な意味を持っておるということなのでございます。

 次に六波羅蜜とは何かと言いますと、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つであります。大聖人は『観心本尊抄』に、

「未だ六波羅蜜の修行を修する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」(全二四六)

というお経文を引かれまして、この大聖人の御本尊を持って日々、南無妙法蓮華経と唱えて、この信心修行をする皆様方の、その一日の信心の中に、その六波羅蜜の修行が厳然として整っておる、整足しておるということを大聖人は教えておられるのであります。

 もう一つの意味は、これは前にも申し上げましたが、「四悉檀」ということを心に置いて、今彼岸会を奉修する意味を考えてみたいと思うのであります。大聖人は、『太田左衛門尉殿御返事』の中に、

 「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成 仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか」(全一〇一五)

ということを仰せになっております。従ってこの彼岸の行事も、日本の今日の社会に於きまして、奈良時代からずっと平安時代室町時代、江戸時代を経て、今日に、彼岸の行事が社会に定着をしてきているわけであります。世間の心無い人達も、その信心ということに対して全く無知な人でさえも、彼岸ということはやはり考える、頭に置くわけであります。従って、ましてやこの正法正師の正義を修する私達にとっては、むしろ世間の人の範となつて、世間の人よりも率先して、敢えてこの世間の法に準じて、更にこの彼岸会を奉修する意義がここにあるわけです。これを「世界悉檀」の意義に則って彼岸会を奉修するという理由がそこにあるわけであります。

 もう一つは、つまり「為人悉檀」生善悉檀と申しまして、実際にこの正しい戒法の整足する正宗の寺院に詣でて、そして実際に自分がその功徳善根を積み、そして又過去の精霊、先祖代々の人々に対しまして、たとえ一本の塔婆といえども、そこに亡くなった人々の五重の宝塔を顕して題目を認め、題目を唱え、題目を供えて、報恩供養の誠を尽くし、そして更に自分の功徳善根を積んでいく。その生善のために、そして「為人悉檀」という意義の上において、この彼岸会の法要を奉修するという理由がここにあるわけであります。

 三番目は、これは「対治悉檀」をもって本宗における彼岸会を奉修するということです。これはどういうことかと申しますと、本当の彼岸というものも、本当の涅槃ということも、あるいは本当の成仏ということも、あるいは真実の報恩ということも、結局それは第一段階として、何よりも正しい法に目覚めて、そしてその意味のある、功徳のある最勝真実の法義をもって、その功徳善根をもって、過去の精霊を救わなければいけない。今までの永い間の過去世におけるところの念仏だ、真言だと、一切の邪法邪師の邪義に対するその執着を捨てて、真実の供養、本当の涅槃に到る道、あるいは彼岸に到達する道は、この大聖人様の一仏乗の南無妙法蓮華経の大法以外には絶対にあり得ないということをきちっと心に置いて、そして世の中の人々の誤りを指摘し啓蒙して、そして真実の正法のもとでなければ、大聖人様の御本尊のところにしか真実の彼岸はないということを如実に指し示し、教えていくというところに、そして又、私達のこの信心を次の世代の人に、又次の世代の人に、きちっと法燈を相続して、唯一の彼岸はここにあるということを教えていくというところに、この彼岸会を奉修する意味があるわけであります。

 そして最後はこの「第一義悉檀」と申しまして、実際に皆様方お一人お一人が自分の過去の精霊、先祖代々の人々、あるいは亡くしたお子さん達、ありとあらゆるこの法界の衆生を実際に、この自分の信心の一念において、そして具体的な事実の上に救済し、そして又この御本尊のもとに妙法蓮華経の功徳をもって過去の精霊を救い、自分の善根を積み、そしてその未来の一族一門の人達の幸せの因をそこに積んで、結局、過去、現在、未来と三世の人達をこの正法の門に導いて、正法のところに、又その正法の功徳を皆が頂けるように事実の上に、その彼岸の功徳を、その三世の人々に手向けていくというところに、本宗におけるそうした彼岸の意味があるのです。ただ自分の頭だけで解釈をしないで、あくまでも大聖人様の御指南を通して、深く一つ一つのそうした行事に致しましても、よく心に置いて、その信心の志をもつて、深くこの法会を一つ一つ奉修していくことがやはり大切だということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。大変御苦労様でございました。

(昭和六十三年三月二十日)

 

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