日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

理一開会について

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『日曜講話』第八号(平成元年5月1日発行)
理一開会について

 皆さん、お早うございます。先般来、御本仏によるところの「四一開会」(しいちかいえ)ということにつきまして、この宇宙法界の根源の教え、法というものは、ただ一法しかない。またこの法界を貫く、つまり過去、現在、未来、その三世を通達した根本の仏様は、また久遠元初の一仏しかないということを申し上げ、先週は、今度は更に修行の上において、真実の如説修行の信心は、またこの妙法の一法しかないということのお話を申し上げました。

 今日は、その教・行・人・理の中の一番最後、つまり道理、その法理の上におきまして、この宇宙法界を貫く根源の真如の法というもの、根本の法性の真理というものは、またただ一つの道理しかないのだということを説き明かし、そこに御本仏の御本仏たる所以(ゆえん)があるということを申し上げたいと思うのであります。釈尊自身は法華経において、くり返しくり返し御自身の本懐を説き明かされるのでありますが、まず『方便品』に、迹門の「理一開会」といたしまして、

 「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもう」(開結一六六)

ということを申されております。今まで釈尊が約四十年にわたって、インドの各地を転々として説き明かしてきたところの教えというものは、先週も申し上げましたように、衆生の機根に合わせて、衆生の欲するところによって、そこに随順して、その時その時に必要な教化をされてきたわけであります。しかし、いよいよ法華経の、釈尊自身の本懐を顕わす時点に立ち至って、自分が今まで四十何年間にわたるところの方便の教々を説いてきたということも、また本懐を顕すことができなかった、顕すことはなかったということも、それは未だその正法を説く説時が立ち至っていないという上において、今こそ真実を明かす。まさにその時が来て、そして仏というものが、つねに一切衆生をことごとく真実の正法のところに導いて、その仏知見を開き、そしてまた仏知見を示し、仏知見に入らしめ、仏知見を悟らしめんが為に出現するんだという、その諸仏出世の一大事の因縁を説き明かされるのであります。そして今こそ、法華経に説くところの南無妙法蓮華経が、

 「是の法は法位に住して、世間の相常住なり」(開結一八三)

と、法位というのは、この宇宙法界の根本の真如の理の位(くらい)という意味でありますから、この南無妙法蓮華経こそが宇宙法界の法性の淵底(えんでい)の位にあるところの教えなのだということを説き明かすのであります。そして同時にこの宇宙の実相の、また世間のあらゆる相そのものが、皆この法界の妙法の世界と、この妙法の法理に合致して、共に不変常住の法なのだということを説き明かすことが、それが釈尊法華経の『方便品』におけるところの「理一開会」でございます。この妙法こそが諸仏の真実の一仏乗の法なのだというその道理の上からきちっと示されるというところが「理一開会」でございます。

 次に、釈尊の『寿量品』の、本門の上におけるところの「理一開会」というのは、これは、ただ今皆様が読経された『寿量品』の中に、

 「乃(すなわ)ち此の薬の色香味美なるを知って、即ち取って之を服するに、毒の病皆愈(い)ゆ」(開結五〇四)

ということが説かれております。本心を失った子供も、本心を失なわなかった子供も、共に父親の与えるところの寿量品の「是好良薬(ぜこうろうやく)」つまり久遠の妙法

蓮華経の大良薬を受持して、そうして信行に励んだところの子供は、十界の衆生ことごとく妙法の種を覚知して、今までの爾前権教に対する執着を捨てる。また伽耶始成(がやしじょう)の執着を捨てて、みんな地獄界から仏界に至るまで、二乗を含めてあらゆる十界の衆生の、久遠の妙法による十界皆成の義理が、きちっと『寿量品』において示されるというところが、本門の「理一開会」ということであります。

 ならば、末法の仏様によるところの「理一開会」はどこにあるかと申しますと、それは大聖人様が、『当体義抄』という御書の中に、

 「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之れ有り、之を名けて妙法蓮華と為す」(全五一三)

と、その久遠元初の御本仏の心性の上に築かれ、悟られるところの南無妙法蓮華経こそが、真実の仏因仏果、あらゆるその因果を窮めた根本の法なのだと、また一念三千、十界互具の法門が、きちっと備わったその妙法が、久遠の一仏の当体にあるということを示されるのであります。しかも、この妙法を受持する人々は、

 「此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し之を修行する者は仏因(ぶついん)・仏果(ぶっか)・同時に之を得るなり」(全五一三)

として、末法衆生が、この大聖人様の弟子檀那として、その久遠の妙法蓮華経の大法、一閻浮提第一の御本尊を持(たも)って信心修行する時、その御本尊に整足する仏の仏因仏果を、私達は信心を通して自分の命の上にそれをいただくことができる。そして大聖人様と、南無妙法蓮華経の大法を通して、師弟一箇、境智冥合して、この妙法を如説修行する時、私達一人ひとりが当体蓮華の仏として、心も命も、そのまま大聖人様の妙法の光明に照らされて、十界皆成の命へと改革していくことができる。そこに、私達の尊い成仏の為の真実の修行の在り方があり、また実際に成仏の道を大聖人様が指し示し、具体的な事実の上に、この御本尊様を授与して下さっておられるのであります。

 そしてこの御本尊様のあるところ、信心の波動が、社会に、また日本に、世界に広がっていくところに、一閻浮提の広宣流布ということが、必ず実現することができる。

 「大地を的とするなるべし」(全一三六〇)

と、大聖人様が世界の一切の民衆を救済するただ一つの道、広宣流布の道をそこに示されておられるというところに、末法の、万年に臨んでの「理一開会」を、大聖人様が、はっきりと示されておられるということを、深く心に置いていただきたいと思うのであります。

 したがって、世間の人がこの日蓮正宗のことを、大聖人様のことを、また皆様方のことを、どんなに自分の我見によって悪し様(あしざま)に罵(ののし)り、日蓮正宗のことを、とやかく誹謗いたしましても、本当の仏の真実の教法の上から言っても、道理の上から言っても、修行の上から言っても、そうした御本仏によるところの開顕の法門の上から言っても、大聖人様のこの四一開会の法門を凌ぐものは、この法界のいずこにもないという強い確信を持っていただきたいと思います。そしてまた、その事実の上においても、道理の上においても、信心の功徳の上においても、この大聖人様の正法に勝るものはただの一法もない。法界の全体を貫く妙法、その大聖人様の最勝の法というものは、そういう全体の広がりの上から説き明かし、あらゆるものを説き尽くし、あらゆるものをまた打ち破って、そしてまた全体を包含した意味において開顕された御法門であり、また教えであり、御本尊様であり、信心であるということを知って頂きたいと思います。何と申しましても、の大聖人様の御本尊を信じ、大聖人様の説かれた教えを信じ、そしてまたこの一閻浮提第一の正法に、また一閻浮提第一の正法を行ずる者には、それほど大きな最勝の功徳がまた自(おのずか)ら備わってくるということを、どこまでも強く確信していただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年八月二十一日)