十牛図入門―「新しい自分」への道 (幻冬舎新書) | 横山 紘一 読了
書店で手に取り、なんとなく興味をそそられて買ってしまった本。
読みやすくてすぐに読了できた。そして、感慨深い思いに浸ることが出来た。良い本だと思う。
著者は元々、魚の血液の研究をしていた理系の学生だったそうだが、人生への探究心にかられ仏教学を学ぶため、転部を決意して仏教学の研究の道に。なんだか、法華経翻訳の植木さんを思い出してしまった。植木さんも物理学の研究をしていたのではなかったかな。
横山さんの考えに感心したのは、「自己究明」と「生死解決」と「他者救済」の三つが人生の三大目的であると、明解に答えているところ。
なかなか、ここまでスッキリと断言できない。
横山さんの思索と宗教体験が、嘘偽りのない本物の求道心から沸き起こったことの証左と言えるだろう。
横山さんの人生三大目的は、正解だと思う。
私は学生時代、フロイトやユングの深層意識研究に興味を持っていた。深層心理学ブームの影響もあったかもしれない。そこから、井筒俊彦の意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)を読んで、東洋の哲人が到達していた心の探究を知った。
著者の横山さんの考えは、ホームページに詳しいので参照してほしい。
さて、十牛図とはいかなるものか?
著者のHPから引用してみたい。
第一図 尋牛(じんぎゅう)
ある日、牧人の飼っている一頭の牛が牛小屋から逃げ出たことに気づいた牧人は、野を歩き川を渡り山を越えてその牛を探し求めています。ただ一人で・・・。彼は「自己究明」の牛探しの旅に出かけたのです。
第二図 見跡(けんせき)
「もう牛は見つからない」とあきらめていた牧人が、ふと前方に目を落とすと、そこに牛の足跡らしきものを発見しました。「ああ、牛は向こうにいるぞ」と牧人は喜んでその足跡をたどって駆け寄っていきます。
第三図 見牛(けんぎゅう)
牧人はとうとう探し求めている牛を発見しました。牛は前方の岩の向こうに尻尾を出して隠れています。牛が驚いて逃げ出さないように、牧人は足を忍ばせて牛に近づいていきます。
第四図 得牛(とくぎゅう)
牛に近づいた牧人は持ってきた綱でついに牛を捕らえました。牧人は、再び逃げ出そうとする牛と渾身の力をふり絞って格闘を始めました。
第五図 牧牛(ぼくぎゅう)
牧人は暴れる牛を綱と鞭とで徐々に手なづけていきます。牛はとうとう牧人の根気に負けておとなしくなりました。牛はもう二度と暴れることも逃げ出すこともありません。
第六図 騎牛帰家(きぎゅうきけ)
牧人はおとなしくなった牛に乗って家路についています。牛の堂々とした暖かい背中を感じつつ、楽しげに横笛を吹きながら・・・。
第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
とうとう牧人は自分の庵に帰り着きました。牛を牛小屋に入れてほっとした牧人は、庵の前でのんびりとうたた寝をしています。静寂の中、安堵の気持ちで・・・。彼は「生死解決」をほとんど成し遂げたのです。
第八図 人牛倶忘(にんぎゅうくぼう)
うたたねをしていた牧人が突然にいなくなりました。あるのはただ空白だけ。牧人になにが起こったのでしょうか。
第九図 返本還源(へんぽんげんげん)
空の世界からふたたび自然が戻りました。牧人の中に根本的な変革が起こったのです。牧人は自然のようにすべてを平等視して生きることができるようになりました。
第十図 入廛垂手(にってんすいしゅ)
牧人は再び人間の世界に立ち帰りました。人びとが行き交う町の中に入った彼は一人の迷える童に手を差し伸べています。牧人はとうとう「他者救済」という彼が目指す最高の境地に至ったのです。
横山さんは、牛を自分と置き換えて、自分探しの旅に例えてお話されています。唯識で得た「理」を、座禅によって「事」に置き換えようという試みなのではないだろうか?
自意識や過去への後悔などで、自分の心を苛み続けている方は一度手に取って見てほしい。唯識の発想は、現代物理学や現象学的実存主義に近い。
私は、哲学的営為の続きを荘子によって、引き継ごうと思う。
岩波文庫の四分冊を購入した。
自分の心を自由にさせることは、なかなかに難しい。
特に私のような、哲学病に罹患している者には。
でも、日蓮正宗の信仰には、「自己究明」と「生死解決」と「他者救済」の三大目的達成の全てが存在している。座禅会に参禅しようとするくらいなら、日蓮正宗寺院を訪ねてみてほしい。日蓮正宗 寺院紹介 全国