日蓮正宗のススメ

人生談義と時事放談

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1169夜:メールを頂いた方へのお返事として(絶対的幸福境涯の捉え方)

時折ブログを拝見させていただいております。
貴重な資料の数々たいへんありがたく深謝いたします。
私はまだ日蓮正宗寺院に縁して〇年目、登山もまだ〇回しか内拝できておりません。
御書はひととおり目を通しましたが、まだまだこれからの幽霊です。

現在〇歳で、昭和〇年頃最初に親を折伏したのが創価、幼稚園児のその頃はじめて個人宅の本尊に唱題をしました。ずっと創価ばかりが折伏(勧誘)していて一時期(破門後〇年程)創価に所属したのですが、あまりに日蓮正宗の宗旨から外れていたので詐欺に気が付いて脱会、〇歳でようやく本物に出会いました。
門前折伏に逢いましたがスルー。〇寺寺院内に無断で侵入して唱題していたところ信徒に声をかけられて御授戒させられました。

ブログでは信頼関係のないO氏と議論するのは無駄だというお考えで、それはその通りだと思います。見ず知らずの人に折伏されても、その後の意志疎通は困難です。
折伏した側は、自分の言うことを聞いたと思っているのですが、私のほうは大聖人様の直系の本尊に唱題したいほうが強いので、どちらかといえば彼とは不仲になりました。
ただ街折、見ず知らずに近い折伏で信心を続ける人がそれなりにいることも頭に置いて接するのが良いと思います。

O氏、創価の絶対的幸福について、戸田さんの話はかなり解りやすく説明していると思いますが、おそらく掴み所のない曖昧な感覚としてしか理解されていないと思います。
というのも、創価日蓮正宗の(大聖人直結の)信心だと言って折伏(勧誘)しているけれども、創価の本尊に唱題しても変な感覚、奇異、魔力しか感じないし、生命力を吸いとられるだけ。
戸田さんは大御本尊を基準にして説明しているのが明らかな違いです。末寺ですらきちんと響く。
死んで記憶などがなくなるから意味ないとか、とにかく意味を求めることは、実はそれ自体が無意味です。
生死を繰り返す生命の実体を実感として知覚することは、大御本尊様と血脈の通う本尊に唱題することでしかできません。
裏を返せば、一度大石寺の本尊に唱題すれば、意識しなくても、永遠に自分の生命を知覚しているので、なにも考えなくてもよいくらいです。
悟りを実感してからしか理解できないことを、いくらかわかったようなつもりになったり、その気にさせる創価顕正の大罪は深いと思います。
私は拙者ではありますが、創価の死にかけの古株たちが口を揃えているのは、昔の日蓮正宗の信心をやらなければダメだと言うのです。
今の創価の若いのは話にならないと見ています。
私が古株に言ったのは、今の若いのは大御本尊様に手を合わせられないから解りませんよということです。
創価はどうやらそこが見えない人たちなのです。「大御本尊は立派な本尊だが不要」と切り捨てています。別のある古株は、大御本尊は小さいと言います。
悟りや教学の正統性が大御本尊を中心に成り立つことを、彼らに理解させるのは、かなり難しいです。御書の読み方そのものの違いです。
しかも御僧侶がたが信徒に対して絶対服従を強いているというイメージと僧侶階級の名残がそこに加われば、あえて日蓮正宗の正しい悟りや大御本尊の絶対的幸福が欲しいとは感じないのです。
与党は絶対的に安定して幸福だというほうが彼らにはわかりやすいのでしょう。
生死と生命の連続性を悟ることが幸福かどうか、信徒の私ですら時には幸福な動物のほうが悟った人間よりも幸福かと錯覚します。ボケッと美味しいものを満腹にまどろむ幸せ。
信心を保つために苦心惨憺することもあり、わざわざ厳しい道をたとえ親族であれ勧めるには、凡夫には宿縁とか相性なども大きく、拙者としてはまだまだ修行が足りないということかなと思います。
無慈悲と悟りは紙一重で、蚊やハエが成仏するかどうかと同じように他人に無関心で無関係で大差ないことにも思えます。
現代人の感覚では、日蓮宗日蓮正宗の違いをまず主張することが最善だなと思います。

これからも興味深い史実資料の豊富なブログを楽しみにしています。

〇〇(複雑な事情がありますのでご容赦ご勘弁下さい)

※メール主さんの個人情報に配慮して、具体性を帯びる事項は〇字にさせていただきました。

nichirendaihonin.hatenablog.com

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気持ちが通じるというのはうれしいものですね

先日の記事について、法華講員さんからメールを頂戴いたしました。
ありがとうございます。
コメント欄への書き込みでも、メールでも結構です。
皆様の御意見、御自身の思うところなど、お聞かせいただければ嬉しいです。
E-mail:porigin@yahoo.co.jp

第八 唯有一門の事  

文句の五に云はく「唯有一門とは上の以種々法門、宣示於仏道に譬ふ〇門に又二あり。宅門と車門となり。宅とは生死なり、門とは出づる要路なり。此は方便教の詮なり。車とは大乗の法なり、門とは円教の詮なり」と。御義口伝に云はく、一門とは法華経の信心なり、車とは法華経なり、牛とは南無妙法蓮華経なり、宅とは煩悩なり。自身法性の大地を生死生死と転り行くなり云云。(就註法華経口伝1737㌻)

職場のウザい新人が創価学会員だと判明して、新人のO君から私が創価への勧誘を受けました。
O君は、戸田城聖さんが会通した絶対的幸福論をもって、創価の云う信心の目的を力説してくれたのですが、私にはピン!と来ませんでした。
創価教学も顕正教学も、日蓮正宗の教学をベースに再構成したものです。
大石寺三兄弟は、お互いに罵り合っていますが、九割は同じことを言っているのです。
永遠に崩れぬ絶対的幸福境涯とは、つまり、煩悩即菩提・生死即涅槃のことであると推測できます。
煩悩即菩提・生死即涅槃は、宗旨の根幹で御本尊様の両脇にも、左に愛染明王の種子(煩悩即菩提)、右に不動明王の種子(生死即涅槃)が顕されています。

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梵字による種子

事実というものはただ一つですので、そのようである以上、意味を問うこと自体がナンセンスかもしれません。

  • なぜ世界が存在するのか?
  • なぜ何もないのではないのか?
  • 主体や本質は存在するのか?
  • 時間とは何か?
  • 存在とは何か?
  • 私とは何か?

皆さんも、毒矢の喩えを御存知かもしれません。
形而上学的問いの無効性・無意味を説いた、釈尊の教えです。

仏教説話 毒矢のたとえ
 『中阿含経(ちゆうあごんきよう)』というお経典に次のようなお話があります。
 お釈迦様が舎衛国(しゃえいこく)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)というところにいらした時のことです。そこに鬘童子(まんどうじ)という人がおりました。

 鬘童子は人から仏教の信仰を勧められても、「この宇宙は一体どうなっているのか。広さに限りがあるのか、ないのか。永遠なものか、それともいつかは滅びるのか。仏様の命は無くなるのか、無くならないのか、無くなって無くならないのか、無くなるにあらず・無くならないにあらずなのか。これが解るまで自分は仏法を信じないし、仏道修行もしない」と言っていました。
 このような鬘童子に対しお釈迦様は、「ある人が恐ろしい毒矢に射(い)られました。その人は毒のために、もがき苦しんでいます。そこに家族や親類が集まって、急いで医者を呼んで毒矢を抜いて手当をしてもらおうとしました。しかし、その人は〝この矢を抜くのはしばらく待ってくれ。誰がこの矢を射(い)たのか。それが知りたい。男か女か。どのような身分の人か。色の黒い人か、白い人か。矢は東から飛んできたか、南からか。西からか、北からか、それが知りたい。また、弓は柘(つげ)か、桑(くわ)か、槻(つき)か、何かの動物の角(つの)か、それが知りたい。また、矢に付いてる羽根は、鶏(とり)の毛か、鷲(わし)の毛か、鶴(つる)の毛か、それが知りたい。また、弓矢を作った人はどのような人か。それらがわかるまで矢を抜いてはいけない〟と言う。今のあなたはこれと同じである」との譬(たと)え話をしました。

 言うまでもなくこんな質問をしていたら、答えがわからないまま毒が回って死んでしまうでしょう。
 さて、ここで大切なのは、この愚(おろ)かな問いを発する者が、実は我々自身であること、体に回った毒とは、貪(とん)(果てのない欲)瞋(じん)(ひとを許せない怒り)癡(ち)(自己中心の愚かさ)の三毒で、そこから発する苦しみは並大抵(なみたいてい)のものではありません。しかも人としてこの世に在(あ)る期間は限られている。それでも尚、凡夫は「わからなければ信じない」というわけです。 

 けれども、私達現代人は仏様の目から見れば、一人残らず「下根(げこん)・下機(げき)」、つまり出来の良くない者の集まりで、仏教の深い道理を頭で理解する事は出来ません。
 その無数の凡人達を現代の仏、日蓮大聖人様の教えは七百年間救(すく)い続けて来たのであり、それは「やってみないとわからない」のです。
 自分の中の貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)と、しっかりと向き合い、限りある人生を喜んで生きる、それは仏様自身の願いでもあります。
 日蓮大聖人様は「一念三千を識(し)らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代(まつだい)幼稚(ようち)の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ」と仰せです。 

 あなたも日蓮大聖人様の教えに耳を傾(かたむ)けてみませんか?

myoshinji.net

私は鬘童子なのかもしれません。
それでも、根源的な問いを放棄することはできないのです。
二乗根性の宿命なのでしょう。
今の私は、日蓮正宗の修行を実践しつつ、この不毛な問いかけを追い求めていくことを、自身のライフワークだと思っています。
功徳乞食や修羅信心よりもタチが悪いかもしれません。
でも、信心とは根源を尋ね行く振舞だと思っています。
そこから逃げ出して、目を背けてしまっては、もう、自己欺瞞でしかないように思うのです。
私は若い頃、大学でハイデガー哲学に出会いました。
正確に言うと、ハイデガー研究者の第一人者に出会ったのです。
その教授は、潜水特攻機「回天」の乗員訓練生の生き残りでした。
死を決意した江田島特攻隊員が、出撃前に終戦を迎え、生き残って実存主義哲学の研究者になったのです。
本物の哲学者でした。
八五歳まで生きて、ずっと、人生の意味を問い続けたのです。
知的遊戯ではありませんでした。
そんな、凄まじいほどの哲学的気魄に触れた私も、また、重度の哲学病に罹患したのかもしれません。
いや、それこそが私の使命だと思っています。