日蓮正宗のススメ

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【只南無妙法蓮華経とだにも唱え奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき】 成仏が叶う信心 

【只南無妙法蓮華経とだにも唱え奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき】

成仏が叶う信心 

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 【組織利用される大聖人様の御書】
 本日は、ただ今全員で拝読申しあげました「顕立正意抄」の
 「我が弟子等の中にも信心薄淡(うす)き者は、臨終の時阿鼻獄(あびごく)の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず」(御書751頁)
の御文について、お話し申しあげたいと思います。
 今、この御文を拝して、皆さんはどんな感想を持たれましたか?
●大聖人様は随分厳しいことをおっしゃるではないか。
●大聖人様はなぜこうも弟子を恐がらせ脅されるのか。
●大聖人様は我を恨むなと仰せだが、冷たくは無いのか。
●よし、大聖人様に感謝出来る信心を生涯貫こう。
と、それぞれの境界、信心の状態によって様々な思いがよぎったと思います。
 この御文は、昔から創価学会顕正会などの『インチキ宗教』の上層部が、大聖人様の教えとはかけ離れた、自分達の都合や理論を押しつける際、会員を脅し、従わせる為に利用してきました。
 例えば「センセーに背けば罰が当たる」「組織への疑問や反発は地獄の相」「謗法の大石寺参りは地獄」と言い切り、「ほら、御書にこうあるでしょ」といった具合です。
 この何でもかんでも、自分の意にそぐわない内部や外部の人に対して、すぐに「地獄へ堕ちる」と決めつける悪習は、大聖人様が世間的にも随分と誤解され、誹謗される要因にもなっています。

 大聖人様は、何も無慈悲に衆生を脅すために仰せになったのでは無く、弟子達がそうならないための道を、しっかりと示して下さっているのです。
 また、大聖人様は仏ですから、何とか御自身が悟られ御所持されている法を、末法の一切衆生に受持させ、救っていきたいと願われています。
 よく「罰が当たる」と使われますが、「罰」とは仏様がその人を懲らしめるために「当てる」のではなく、真理や道理から外れた者が自分から「陥(おちい)る」のです。
 いくら常に手を差しのべて下さる仏様でも、全く縁の無い者、信じない者、反発し誹謗する者、信じていても悪業を積む者までは、今生で救うことは難しいのです。


 【堕獄(だごく)を逃れるには】
 大聖人様は、堕獄を逃れるためにどうすれば良いか、具体例を示して下さっています。
 『是を免れんと欲せば、各薬王(やくおう)・楽法(ぎょうぼう)の如く臂(ひじ)を焼き皮を剥(は )ぎ、雪山・国王等の如く身を投げ心を仕(つか)へよ。
 若し爾(しか)らずんば五体を地に投げ遍身(へんしん)に汗を流せ。
若し爾(しか)らずんば珍宝を以て仏前に積め。
 若し爾らずんば奴婢(ぬひ)と為って持者に奉へよ。若し爾らずんば等云云。
 四悉檀(ししつだん)を以て時に適(かな)ふのみ。』   (御書751頁)

 「もし、無間地獄に堕ちる苦しみから免れようと思うならば、あなた方は薬王菩薩のように、我が身と肘を焼き、その光で仏に供養を捧げたり、楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)
のように、仏の説いた、たった一偈(いちげ)を聞き書き留めるために自らの皮を剥いで経文を写したり、雪山童子のように、身を殺して法を求めたり、須頭檀王(すずだんのう)のように、王位を捨てて千年の間、師の阿私仙人(あしせんにん)のために、水をくみ、薪を拾い、身を床として仕えながら教えを求めたりしなければなりません。
 もし、このような修行が出来ないならば、五体を大地に投げて、全身から汗を流しなさい。
 もし、それも出来ないならば、珍しい宝を、仏の御宝前に積んで供養しなさい。
 もし、それも出来ないならば、従者となって、法華経を持つ者に仕えなさい。
 もし、それも出来ないならば・・・その他、四悉檀の法門に従って、時に適った修行をしなさい。」
 と、どこまでも自分の臨終の際に後悔しなくていいように、自分の身命を法に捧げなさいとその心構えを仰せなのです。

 また「四悉檀を以て時に適うのみ」とありますが、【四悉檀】とは仏が人々を教え導く四種の方法を云います。
 1.世界悉檀…一般世間の願い等に従って、法を説くこと。
 2.為人(いにん)悉檀…それぞれの衆生の能力や性質等に従って、法を説くこと。
 3.対治悉檀…貪欲の者には不浄、瞋恚の者には慈心、愚癡の者には因縁を説いて、貪・瞋・痴の三毒を対治すること。
 4.第一義悉檀…以上の三種の悉檀は、仮の化導である。それに対して、第一義悉檀は、仏法の真理を直ちに説いて、衆生を悟らせることである。)

 この中で、一番大切な方法が『第一義悉檀』であり、これは大聖人様の正法を直ちに説くことであり、すなわち「折伏」を指します。
 自らの安穏を願うばかりでは真実の信仰ではありあせん。また、それでは自らの安穏も実現しません。周りの人たちのために行動を起こすとき、自らの幸福も確立します。 御法主日如上人が、常に具体的な目標を掲げて御命題を仰せ下さるのも、実に「法華講員が全員功徳に満ちた生涯を送れるように」との御慈悲の発露なのです。


 【折伏は楽しい】
 『聖愚問答抄』には、
 「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」 (御書406頁)
と仰せのように、末法においては、大聖人の仏法だけに偉大な功徳があるのです。

 しかしながらこの仏法には、その功徳に相応した仏道修行が必要となります。
 まず朝夕の五座三座の勤行・唱題を行い、御講をはじめとするお寺の法要に参詣し、力に応じて折伏を実践するというのが、最も基本となる仏道修行です。また、信心を深め魔に紛動されないために、法華講活動や唱題会などに出席し、信心や法門の勉強(教学)に努めることが大切です。

 こうした信心修行を確実に実践することが、功徳を受けるための修行であり、法華講員であれば何もしないでも功徳がいただけるというものではありません。
 さらに『御義口伝』には、
 「末法に於て今日蓮等の類の修行は、妙法蓮華経を修行するに難来たるを以て安楽と意得べきなり」 (御書 1762頁)
との御文があります。
 この御文は、折伏を実践する中で、迫害や難が来ることこそが安楽・功徳である、との仰せです。私共は、この南無妙法蓮華経、すなわち文底下種の仏法の広宣流布を目指し、人々を救済するために折伏に励んでいます。これこそが、末法における正しい仏道修行、信心の在あり方なのです。

 しかし「安楽」とは、決して表面的な生活が穏やかだという意味ではありません。正しい信念があるからこそ、どんな困難にも左右されない安らかな境地にいるということなのです。
 大聖人は『開目抄』に、
 「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然(じねん)に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ (御書 574頁)
と、諸難が起ころうとも、疑うことなく正法への信仰を続けるよう戒められています。
 退転してしまった人々は、これらの正法信仰の心構えを、肝心な時に忘れてしまった拙(つたな)き者というべきです。
 
 私共は、本門戒壇の大御本尊という万行万善(ばんぎょうばんぜん)の功徳を聚(あつ)めた御本尊をいただく大果報者であります。 この大確信に立ち、堂々と折伏することが「如来の使い」であり、「無上宝珠(むじょうほうしゅ)・不求自得(ふぐじとく)」の信心をする「福徳あふれる人」なのであります。
 折伏をすると、友人関係が壊れるのではないかとか、嫌がらせや、徒党を組む集団との軋轢(あつれき)などを危惧し、実践に躊躇(ちゅうちょ)しては、大聖人や日興上人の弟子檀那とはいえません。


 【現世安穏・後生善処】
 昨今の異常気象や、常識では考えられないような事件や事故の報道を見るまでもなく、もはやどこで暮らしていても、絶対に大丈夫とは言い切れない実相があります。
 不安定な世相だからこそ、成仏という人生最高の境界を得る方途を知らない世間の人は、一時の安楽を強く追い求め、さらに人心は荒廃し、邪義邪宗が威力を増すのです。
 しかし、妙法を受持する私たちは、唱題によって得られる生き生きとした命において、自ら苦しみを安楽に変えることができるのです。
そればかりではなく、折伏をすることによって自他ともに大きな喜びの境界が得られるのです。
 正しい信心を実践しているところには、必ず諸天善神の加護があって、生活は守られ、功徳に満ち、成仏が約束されるのです。まさに「現世安穏・後生善処」の信心というべきであります。
 このような確信に根ざした信心で、功徳を積み、福徳に満ちた良識豊かな日蓮正宗の信仰者の姿を、雄々しく示していく振る舞いが大事となります。
 日如上人の仰せのままに実践していけば、必ずどんな人でもそうなれるのです。
 人生における一切の悩みや苦しみに打ち勝って、共に揺るぎ無い幸せな境涯を開拓して行こうではありませんか。

 

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