【法水は慢の高山に留まらず、何に依ってか大道を得ん】法華講衆としての筋
法華講衆としての筋
【法水は慢の高山に留まらず、何に依ってか大道を得ん】
【決起の大事】
本年最初の御講にあたり、今年の折伏成就と、御参詣の皆様を始め、慈本寺有縁の皆様の信心倍増と息災延命、大願成就を御祈念申しあげました。
皆さんは、年頭に当たり、何を御祈念されたでしょうか?
法華講員であるならば、「今年こそは(今年も)、一人以上の折伏をさせてください。」と、まずは祈れなければなりません。
かつて、御隠尊日顕上人猊下は、
『私が「一人が一人の折伏を」と言っているのは、恨本的な心構えを申し上げておるわけなのです。つまり一年の最初に当たる元旦勤行に寺院へ参詣し、その時に「なんとか今年は、私の信心において、一人以上の折伏をやらせていただきたい」ということを御本尊様に誓願し、また、その実践を心掛けていくということです。(中略)
例えば、去年一年間に一人の折伏も出来なかった人がいたとして、どこに自分が折伏できなかった原因があるのかというということを、自分自身の心の上において、あるいは自分の人格の問題、教学の問題その他において、自分自身が深く感じつつ、とにかく一歩でも進もうという心を持つ事が大事なのです。「一人は必ず折伏していこう」という強い気持ちを持って進むところに、自分自身の姿が妙法の唱えのなかにおいて照らされてくると思うのです。』
と仰せになられました(大日蓮 平成6年10月号 36頁)
自らが御本尊様に唱えるお題目によって、自分の姿が照らされるとは、六根清浄の姿であり、即身成仏の大功徳の姿、深い境地なのです。
具体的には、大聖人様が『十字御書』にて、
・とく(徳)もまさ(勝)り人にもあい(愛)せられ候なり
・法華経を信ずる人はさいわ(幸)いを万里の外よりあつ(集)むべし
・法華経を信ずる人はせんだん(栴檀)にかを(香)ばしさのそなえたるがごとし。(御書1551頁)
と仰せの姿に、自分が変革できることが、御本尊様の功徳なのです。このような境地、境界になれますと、自分自身の小さな願いは悉く成就します。
まずは、皆さん一人ひとりが決意し、立ち上がるのです。
【師弟相対の信心】
私達の信心の基本は、師弟相対です。
大聖人は『法蓮抄』に、
「師匠を仰がなければ、邪な智慧や迷いが月々日々に増幅していってしまう。そして木の生い茂った林の中に、曲がりくねった木を引きずって入っていくと、曲がりくねった木が、林の中に引っかかってしまって、自分も林の中から出られなくなってしまう。それと同じように、師をもたないで仏道修行をすれば、結局、迷いから迷いの中に入り、ついに誤った道から抜けられなくなる」
という摩訶止観の文を引かれています。
そして、「世間の学問とか仕事とか習い事も、自分一人で極めることはできず、必ず、先生とか上司・先輩といった先達の人達から教わって、それで身に付けていくことができる。世間の浅いことですら、そうなのだから、まして甚深の教えを説く仏法において、自分自身を中心として、自分の勝手な智慧で仏法を習い極める、などということは絶対にできない」(御書29頁 趣意)
と示されています。
つまり、正しい師匠をもたなければ、迷いから迷いに入っていってしまうのです。
正しい師匠とは、時の御法主上人猊下であります。日蓮大聖人様は、御自分が御遷化されたあとも、未来永劫に渡って正法が正しく伝わるように、唯授一人血脈相承を日興上人にされ今日まで伝わっています。
大聖人は、
「代代の上人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典379頁)
と、日興上人以来、歴代の御法主上人は悉く大聖人の御身代わりである、大聖人の後継者である、と仰せられていますから、大聖人様亡き後は、歴代の御法主上人を大聖人様と思って師弟相対することが肝心です。
その御法主上人のしたためられた御本尊様は拝んでいるけれども、御指南に従えないということは、大聖人様への反逆であり、退転であります。
私達は、創価学会や顕正会、正信会などの過ちを繰り返してはならないのです。
総本山三十三世日元上人は、
「法水は慢の高山に留まらず、何に依ってか大道を得ん。」(富要集1巻388頁)
と仰せです。
私達は、慢心を起こして高い山になってしまってはダメなのです。自分の身と心を低くして、謙虚に法を求めるところに、御本尊様の功徳が流れ込んでくるのです。
よく、「信心は御本尊様対自分だから」という人がいますが、日蓮正宗の場合、必ず師匠と師弟相対して信心をしなければなりません。
師匠がいらないということは、「何でも自分一人でわかる、自分一人で仏道修行はできる」ということになってしまって、その姿自体が慢心していることになってしまいます。
同じ御本尊様を拝んでいながら、大功徳がある人と、功徳がない人と違いが出てくるのは、ひとつには、こういうところに原因があると考えられます。
【末寺における師弟関係】
菩提寺における、住職と御信徒の師弟の関係も、堅く守るべきものであり、これが本宗の伝統的精神です。
それを、好きとか嫌いとか、家から近い遠いと自分の都合で師匠を変えていたら大変なことになります。
しかし、手継の師匠が熟慮の上、移籍を承認された場合は問題ありません。
『化儀抄』第68条には、
「仏の行体をなす人には、師範たりとも礼儀を致すべし。本寺住持の前に於いては、我が取り立ての弟子たりとも、等輩の様に申し振舞うなり。信は公物なるが故なり云云。」(聖典986頁)
とあります。
これはどういうことかといいますと、師弟相対というのは、 師匠が弟子を支配するとか、師匠には絶対服従という関係ではありません。
たとえ自分の弟子であっても、「 御本尊様を一生懸命に拝み、 また折伏に励んでいるような人は、皆、仏様の教えられた振る舞いを実践している人達なのだから、これを大切にしなければいけない」と言われております。
しかして、「本寺住持」である御法主上人の前においては、住職も御信徒も、共に猊下の弟子という立場になる、と示されているのです。
つまり、仏法における師弟関係は、小師である住職が絶対的立場の上から御信徒を自分の所有物にして支配する、などという関係ではなく、根本の師匠は大聖人様であり、大聖人様の名代たる猊下であられる、さらに本師の御指南を伝え指導していくために、小師として末寺の指導教師住職が、本師の任命を受けて存在します。
そして、みなさんに細かく信心を教えてくれる講中の役員や先輩達がいます。そういう師弟の筋道、本末関係の中で私達は信心をしています。
普段は慈本寺に通うのがどうしても大変なので、自分が住んでいる近くの寺院へ参詣したいという方がいます。相談された方へは、寺院参詣願いを持たせるようにしています。こちらから先方の住職へ参詣をお願いするわけです。
自分の寺院を通さないで、いきなり地元のお寺へ飛び込むというのは、筋が違うわけです。
住職であれば、自分の所属しているところの住職も、あちらのお寺の住職も、みんな同じ住職だ、同じ小師だ、というのは筋が違うのです。
その辺を間違えないでいただきたいと思います。 そうしないと本当の功徳はありません。
また第24条には、
「弟子檀那の供養をば、先ず其の所の住持の御目にかけて、住持の義に依って仏へ申し上げ鐘を参らすべきなり。先師は過去して、残る所は当住持計りなる故なり。住持の見たもう所が、諸仏聖者の見たもう所なり。」 (聖典977頁)
要するに、大聖人様はすでに御入滅になって、残ったのは日興上人。そして日興上人が御遷化になれば、残ったのは日目上人。そのようにして現在は、御当代の御法主上人がおられる。さらに猊下の名代である住職がいます。そういう状況のもとで今日、みなさんは信心をしているわけですが、寺院に御供養するということは、それは住職を通じて仏様に御供養申し上げたことになるのであります。
したがって、皆様方の寺院への御供養は直ちに住職の私的な収入になるものではなく、この寺院を維持管理することに使われますから御供養をされた方へ「ありがとうございます」と私は言いません。
中には、お礼を言われたくて御供養をしているわけでないが、もっと喜んだり「ありがとうございます」と言ってもいいじゃないかと思う方もいるかもしれませんが、御本尊様に代わって「お供えさせて戴きます」とか「ご苦労様です」と申しあげるのです。
私達は、皆の人気を集めようとか、皆から尊敬されようとか、そんな根性で信心をしてはいけません。誰からどう思われようと、やはり、猊下様の御眼から見て「この人は、立派な信心をしている人だ。真面目な信心の人だ」と、そのように師から認めていただけるということが、じつは、すでに御入滅になっておられる大聖人様からお認めいただけることに通じるのであります。
ゆえに私達は、 常に、本師の御意に添うべく信心に励んでいかなければならない、また、それだけで充分なのであります。
『可延定業書』に、
「法華経にあわせ給ひぬ。一日もいきてをはせば功徳つもるべし」(御書761頁)
という御金言があります。これは、一日でも長く生きることによって、それだけ仏道修行を長く行じ、功徳を積んでいくことができる、ということでありますが、講の中には、小さな子供ばかりでなく、お年寄りの方もたくさんおられます。
私は、このお年寄りの方々に対して、本当に大切に思っていかなければいけないと思います。
それはなぜかというと、高齢であられるということは、やはり人生の残されている年月が少なくなってきている、これは厳しい現実です。その残されている年月の中で、どれだけ正しく信心をし、どれだけ多くの功徳を積めるかが、その方の成仏・不成仏を決めてしまうのです。
私は、そのようなことを思ったときに、 自分より遥かに高齢な方がいて、いろいろな状況で苦労されているとすれば、 積極的に手を貸してさし上げて、少しでも仏道修行をしやすいように、 また功徳が積めるように、応援してさし上げることが、若い世代の務めだと思います。
その意味でも、積極的に添書登山会も今年は推進していきたいと思います。
巷では武田信玄の名言と言われいますが、『正範語録』(作者不明)に、こんな一節があります。
一生懸命だと知恵が出る
中途半端だと愚痴が出る
いい加減だと言い訳が出る
色々と不安もあるでしょうが、そこを乗り越えて御開扉を賜り、功徳を積んでいただきたいのです。
お山に行けない理由、行きたくない理由を挙げてうつむくより、よし!行くぞ!と決意して、どうやったら行けるか、考えて祈った方が価値的だと思います。
また、『妙心尼御前御返事』には、
「やまひは仏の御はからひか。その故は、病によりて道心は起こるなり」(御書900頁)
との御金言があります。病気のときに、信心によって病を克服し、そのことを通じて信心が強盛になる、というケースが数多ありますが、大聖人様はその事をさして、病を契機として成仏の境涯に到達する、と教えられているのです。
そうして考えてみると、現在、病気をされている方がいるとすれば、その方を言い励まして、 その病気に挫けず信心で病気を乗り切れるように、 できるかぎり力を貸してさし上げることが大切だと思います。
また自分も、その病人の人を助けて、共々に仏道修行をしていくことによって、その方と共に御本尊様の功徳力を味わい、信心が強くなって、共に成仏へ近づくことができるのであります。
何よりも堕獄を恐れ、何よりも成仏を願うという大道心を持つならば、高齢の方々や病気で苦しんでいる方々に対し、本当に大切に思って、共々に仏道修行をしていけるよう心がけていくことが大切ではないか、と思うのであります。
そもそも、組織のために人があるのではありません。
老若男女、また健康な人も病人も、皆、共々に功徳を積んで、一人ひとりが成仏をしていく…その為のお手伝いや励ましていくのが組織であり、そういう人達が日本中に増えていったときに広宣流布になるのです。
今年一年、愚痴や言い訳をせずに過ごそうではありませんか。