日蓮正宗のススメ

広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし

【教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ】 一生成仏の道

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【教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ】
 一生成仏の道


【信仰の目的】
 私たちが信心する目的は何でしょうか?
 ・経済的な問題を何とかしたい
 ・人間関係で悩んでいる
 ・亡き家族の供養をしたい
 ・将来が不安だし、死ぬのが怖い
など、入信の動機は様々で、願い事は際限なく挙げられるかも知れませんが、この信心の究極の目的は、『広宣流布と一生成仏』です。
 日頃から、日蓮正宗の信仰者であるならば、高い志を持ち、その体現者となるべく、精進することが大事です。
 日如上人猊下様は、何をどの様に精進していくべきなのか具体的にお示し下さっています。
 即ち、広宣流布のための基礎中の基礎となる
『平成33年法華講員80万人体制の名実共の構築』です。
 我が支部がその足を引っ張ることは許されません。毎年の目標は必ず達成しなければならないのです。
 考えてみますと、この戦いは日本国乃至全世界の命運を左右する、我々が命をかけるべき大事業なのです。
 我々はまさにこの時のために、久遠の御本仏日蓮大聖人様から尊いご命令を受けてこの世に出現してきた地涌の菩薩の眷属なのです。
 どんな建築物も基礎が盤石でなければ建物は建ちません。『名実共の80万人体制構築』こそが未来広宣流布のための基礎となるわけです。
 本日御参集の皆さん一人ひとりに、尊い使命と存在意義があるのです。
 世間の信仰心がないような方であっても、心のどこかでは、本物の仏、本物の真理を求め、誰しもが宿業に苦しみながら、幸せになりたいと考えています。
 我々は異体同心して、こういう本物の仏様を知らず迷っている方達を一人でも救って行くにはどうしたらいいか、常に祈り、考えるわけです。
 日如上人猊下は次のように仰せです。
『陥りやすいのは、心で「やらなければならない」と思っていても、思うだけで終わってしまって、実行が伴わない場合であります』(御指南集14・13頁)
 では、どうすれば行動が伴うようになるのかお話しします。

【身口意の三業を整える】
 マハトマ・ガンディーは「幸せとは、あなたが考えることと、あなたが言うことと、あなたがすることの、調和が取れている状態である。」と言いました。
 偉人の思考は、本物の仏の教えに適(かな)っている部分があると感心させられます。
 皆さんは、普段の生活で、考える事と、話すことと、行動は一致しているでしょうか?
 大聖人様は『土籠(つちろう)御書』に
法華経を余人のよみ候などは、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴(たっと)く候へ」(御書483頁)
と仰せです。
 私達法華講は、御法主上人より賜った御命題成就の為に折伏に励んでいますが、どんなに大聖人様の仏法が広まっても、一人ひとりが、心から御本尊様を信ずることができなければ、何にもなりません。
 仏道修行の根本は「信ずること」であり、それに尽きます。ですから
「信は道の源功徳の母」(御書38頁)
と仰せられるのです。

 一口に「信じている」と言っても色々で、御本尊様をお護りする心持ちで命を捧げるように信じている方もいれば、困った事があった時だけ拝んでみるという方、ちゃんと朝夕勤行唱題している人もあれば、毎日三唱していれば護ってもらえると思っている人、三唱すら一年に一度するかどうかという人もいます。そういう人でも「御本尊様を信じている」と言います。
 さらに、御本尊様は信じているけれども、占いや血液型にも興味があって惹かれたり、風水を信じて金運を上げようと黄色い財布を持ったり、念珠ブレスレットをつける人もいたりします。
「信じている」と言っても、法華講員はみな同じというわけではなく、それぞれその度合い、深さと混じり気のなさは全く違い、それは自分でもわかっていなかったりしますから、仏様だけが御存知なのです。

 そこで大聖人様は、目に見える形で、身と口と意(こころ)の三業が揃って「信ずる」ことの大切さを説かれています。つまり、身体で信ずる、口で信ずる、心で信ずることです。心で信ずるのは、深さは別としておわかりでしょうが、身体と口で信ずるとは、「勤行唱題を実践する」「寺院行事へ参詣する」「総本山に登山する」事などです。中でも、寺院の清掃は、関係ないと思っている方が多い様ですが、自分の命を磨ける尊い修行です。
「私は御本尊様を信じています」と言いながら、勤行も唱題もしない。手も合わせない。お水もご飯も御供えしない。樒は水も替えず枯れて仏壇は埃だらけ。仏壇に足を向けてテレビを見る、寝る。
 これで本当に御本尊様を信じている事になるのでしょうか?
 例えば日本には茶道・お茶の作法があります。最初は何がなんだか分からず、こんな事お茶を飲むだけなのに必要かと思う事すらある。けれど分からなくても、決められた形を繰り返し練習するうちに、少しづつその形が身に付き、不思議と、次第にお茶の心も理解できるようになる、と言います。仏法も同じです。
「信じられるようになったら、拝んでみる」という人がいます。
 仏法の正邪を勉強してから実践することは当然であり、必要なことですが、奥深い仏法の全てを理解し尽くそうとしても、それは無理なことで、そんなことを言っていては、一生始められません。
 ですから入口の部分、さわりの部分が納得できて、何か他の宗教とは違う、正しいということさえわかれば、あとは「よく分からないけれど、まずは勤行・唱題をしてみよう」「お寺に行ってみよう」と始めるしかないのです。
 やった者にしかわからない果報や感覚や理解もあるからです。そうした、一つの形から入ることによっても、御本尊様を本当に、心から信じられるようになるのです。
 法華講の信心の基本は寺院参詣です。かつての創価学会は、一生懸命勤行唱題する人や、御書もよく知って教学ができる人も沢山いました。御開扉も百回以上受けた人もいます。それでも、お寺とは別のところで、信徒だけで信仰を続けた ために、結局は池田大作を通して御本尊を拝むという我流の信じ方となって謗法に堕ちてしまいました。
 形からでもお寺に参詣するというのは、例え何も学ばずお参りするだけであっても、道場に足を運ぶ功徳が積まれますし、言葉にはならないけれども正宗の空気を肌で感じていくのです。
 自分の我見に固まって、誰とも話さず自分勝手に通っていれば、なかなかその空気も感じられませんが、実際に、お題目三唱だけならいいよと、言われるまま三唱だけしにお寺に通ううちに、いつの間にか自分から勤行をするようになり、信心が成長出来た方もおります。
 それがさらに、今日の皆さんのように御講に参詣して御法門を聴聞するならば、教学的にも理解が深まり、さらに多くの空気を吸収でき、正しい信仰の在り方、大聖人様の仰せられることが何となくわかってきて、誤った方向に向きにくくなるのです。
 故に御法主上人の御指南に御講参詣の推進もあるのですが、仮に最初は世法でしか物事を捉えず、感覚や基準が大聖人様の教えと違う人であっても、長くお寺に通っていれば、少しずつ矯正され、正しく物が見え、正しく考えられるように変わってきます。
 これが
「須弥山に近づく鳥は金色となるなり」(御書1054頁)ということです。
 逆に、例え正邪が判断できていた方でも、お寺に参詣しなければ、それはいつしかただの愚癡となって、自らの批判に潰される形で常に信仰の喜びが浅く、御本尊様への感謝や確信も薄く、空気感も歓喜も信仰の深さも、お寺に通う人と違ってきます。
 当然のことながら、御登山は大事ですが、御開扉もお寺からの添書によって内拝を許されるのですから、お寺を蔑ろにして御登山しても、功徳も半減し、歓喜も薄いものとなります。
 私達の成仏に絶対不可欠で一番の根本の仏道修行は、何より勤行・唱題の実践ですが、それと同時に、御本尊様に対する絶対の確信も、揺るぎない幸せも、道場たる寺院に参詣するところにあるのです。
 行動が伴った信心をするには、自分勝手な思いを捨てて、素直に信じ、まずは成仏の道場である寺院へ参詣することです。

三毒に冒されてはいけない】
 本来ならば、私たちは円満で正しい妙法を持ち行じているのですから、その仏力・法力と功徳によって、私たちの境界も、また身口意(しんくい)の三業による振る舞いも、自ずと円満で正しく立派なものとなっていかなければならないはずです。
 ところが現実は、お互いにまだ修行中の身であるために、なかなか生命が浄化されず、縁に触れ時として貪・瞋・癡の三毒の生命が剥き出しで現われ、他とぶつかり合ってしまうことがあります。
 同じ寺院に参詣しながら、故意に顔を背けたり挨拶をしなかったりということはないでしょうか。
 過去世からの重い業のなせる事とは言え、あるいは信心未熟のためとはいえ、あるいは修行中の身であるとはいえ、正法を受持し行じながら、三毒に流された生活と信心をしていて、一体どうやって広布を前進させていくことができるのでしょうか?
 どうやって罪障を消滅させ、境界を高めて、正法受持の実証を世間へ示していくことができるのでしょうか?私たちは、まずこのことを真剣に考える必要があります。
 正法を受持し行じていながら、いつまでも三毒に流された生活をしている人は、自分は正しい仏法を正しく修行しているという慢心から抜けられません。
 いくら正しい仏法といっても、世間の信心していない人や、大聖人の仏法を学んでいない人は、大聖人の正法そのものを直接知ることはできません。
 世間の人が大聖人の仏法を判断するのは、私たちの振る舞いによってであり、時に私たちの言動であったり気遣いであったりしますが、煎じ詰めて言えば私たちの人間性によるのです。
 世間の人や初信の人は、私たちの信心の姿を見て、特に身口意の三業による振る舞いを具(つぶさ)に観察して、大聖人の仏法の尊さ、正しさを推し量るのです。
 大聖人様の御本尊様を信じる人、折伏して人々を導きたいと思っている人、共に、大聖人の正法に対する責任が生ずることを知ってください。

 その責任とは、「大聖人の最高唯一の正法を卑(いや)しめるようなことをしてはならない。法を下げてはならない、自らが広布の妨げとなってはならない、異体同心の和を破るような言動をしてはならない。」という責任です。
 正法を持ちながら三毒の生命をそのままにするのではなく、また正法を持っていることのみの自己満足にとどまることなく、私たちは更に一歩も二歩も進んで正法を受持し行ずることへの責任を果たす信行を実践していくべきなのです。

 大聖人様は四条金吾殿に対して、
「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ。穴賢(あなかしこ)穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という」(崇峻天皇御書・1174頁)
 と仰せられているように、仏法即世法の道理であればこそ、釈尊の出世の本懐の教えとなる法華経は、直ちに最も優れた最も尊い、人としての振る舞いを実践することを説いているのであり、法華経を受持し行ずる私たちは、人としての最高の振る舞いができるように努力しなければなりません。

 一人でいると「今日はいいかな」と思ってしまうこともありますが、誰かに声を掛けられ、背中を押されると唱題会や折伏に動けるものです。
 法華講という組織はその為にあるのであって、みなさんはこの大聖人様の信仰で知り合った者同士なのですから、常に仏法を基準・中心において、お互いに、合い言葉のように「勤行唱題してる?」「お寺に行ってる?」と声を掛け合い、みんなで楽しく異体同心して、幸せな境界を築いていこうではありませんか。

引用元:御住職の法話第293号:一生成仏の道【教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ】

 

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