日蓮正宗のススメ

広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし

以信代慧の修行

 

 

 

 

 

f:id:ekikyorongo:20190309224335j:plain

【慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。】
 以信代慧の修行

1、 三学
 釈尊が説いた仏教の中で、法華経が最高の教えであるという事は、現在でこそ仏教界全体においても通説になっていますが、大聖人様が御在世であった鎌倉時代は念仏信仰とか、真言の教え、禅宗が蔓延(まんえん)していて、法華経が最高の教えである事は誰も解りませんでした。
 また法華経の行者といっても、大聖人門下の人たちだけで、修行のあり方も分らなかったのです。
 普通、世間では、仏教の修行といえば、山に籠って断食したり、滝に打たれたり、写経をしたりしますが、末法の本当の法華経の行者の修行は、そういうものではないのです。
 仏教の教えは八万四千の法蔵と言われます。これは衆生に八万四千の煩悩があり、その一つ一つを滅するために、仏は教えを説くということです。
 この八万四千という数字は具体的な数量というより、数え切れないほどおびただしいことの表現であるといわれますから、衆生が持つ無量の煩悩に対して、仏が無量の法門を説かれることを示しています。 教えがあれば、それを体得するための修行があります。無量の法門に対しては、またおびただしい修行法があります。これらをどう取り入れて、どう実践していくかで様々な宗派に分かれるのです。
 しかし、その教えを大別すれば、戒(かい)・定(じょう)・慧(え )の三学に括(くく)ることができます。
 「戒」とは、悪道へ堕ちないように、身と口と意の三業(さんごう)に亘(わた)って、道理に外れた非行をしないように防ぎ、悪を止める修行法です。
 「定」とは、心の散乱を防ぎ、正しい悟りに向かわせる精神統一の修行法です。
「慧」とは、煩悩を断じて迷妄の心を破す智慧を得ることです。この三学はすべての仏教に共通するものですが、小乗・大乗などの教えの内容、仏法流布の時、衆生の機根などにより、その修行法に違いがあります。


2、 四信五品抄(ししんごほんしょう) 
 日蓮大聖人様の御在世に富木常忍(ときじょうにん)という御信徒がおられました。この富木殿が修行方法について日蓮大聖人様にお尋ねの書状を送られ、その御返事として送られたのが「四信五品抄」です。
 富木殿の質問の第一は「どのように修行すれば仏教の法理を得ることができるのか?」というものでした。そのお答えの一つとして、
 「問ふ、末法に入って初心の行者必ず円の三学を具するや不や。答へて曰く、此の義大事たり。故に経文を勘へ出だして貴辺に送付す。」(御書1112)と日蓮大聖人様は説示されました。
 「末法において、仏道修行を始めたばかりの者でも、円教である法華経に説かれた戒・定・慧の三学を修めることが必要かどうか?」という設問に対し、日蓮大聖人様は、
 「これに関する教義は大変重要な問題であるから、それにあたる経文を考え、引用して、貴方に送付しました」と答えられております。 
 そして、この要点を
 「所謂五品の初・二・三品には、仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。」 (御書1112頁)
と仰せになり、以信代慧(いしんだいえ)の法門を示されています。
 以信代慧の法門は、法華経の『分別功徳(ふんべつくどく)品(ほん)』に典拠があります。 
 末法の本未有善の凡夫は機根が低い為、機根の高い衆生に対して説かれた教えを修行することができません。ですから、本已有善(ほんいうぜん)の衆生の為の智慧による成仏に対し、信心による成仏を説くのです。


3、 智慧
 ここで「智慧」について考えたいと思います。 
 仏法でいう智慧とは世間で考えられている智慧とは違います。通常、智慧といえば「物事に対する処理能力が高い」「物知りである」など、いわゆる「頭が良い」ことと考えられています。
 たしかに、人間には智慧があり、人類数千年の歴史を顧(かえり)みれば、進化の一途をたどり種々高度な文明を生み出し、さらなる発展を遂げることと思います。
 しかし、その反面、いまだに、戦争・飢餓・伝染病・自然災害など、人類を脅かす実に多くの不幸な要因と隣り合わせで生きていることも現実です。
 これらのことを考えるに、私たち人間は自分たちの智慧の限界を謙虚に省みるべきものと思います。 人はだれでも、幸せな自分自身、安穏な国家・国土・社会・家庭の中で生きたいと願っています。そこに、仏法の智慧の尊さが必要となります。人間の不幸の原因は煩悩にあり、これを断じて迷妄の心を破す根源となるものを智慧といいます。
 国家間の戦争も、地域での諍いや、家庭内のいざこざもすべて、貪瞋痴(とんじんち)という、むさぼり・いかり・おろかさが引き起こすものです。その元凶が、一人ひとりの人間が抱える煩悩なのです。
 末法以前、仏道修行における智慧の役割は、自分の心の奥底まで、すっかり見通すということにありました。煩悩などの悪い心、苦しみの原因となる心を明確に掴み、そして対治していけば、迷いの心は無くなります。そして、最後には仏が仏となった真実の因果を得ることで、自らが成仏を得ることを目的とし修行がなされてきました。
結局、仏法で言う智慧とは「いかなる法によって成仏できるか」「いかなる行によって 成仏できるか」ということであり、成仏が叶う真の因果を得ることにあります。この成仏の真の因果を得るのに、末法以前では智慧を用いることができました。しかし、末法衆生は、以前のような智慧を備えて修行できる機根ではありません。ここに以信代慧の法門の重要性があります。

f:id:ekikyorongo:20190309224519j:plain

4、以信代慧 
 日蓮大聖人様は『観心本尊抄』に、
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書653頁)
と仰せです。
 日蓮大聖人様が久遠元初に仏となり、その悟りが因行果徳の妙法蓮華経であり、末法では一大秘法の大御本尊様なのです。
 そして、この御本尊様を信じ受持することで、御本仏の仏因仏果を同時に得ると示されているのです。 
 ですから、日蓮大聖人様は「四信五品抄」に、
 「信の一字を詮と為す。」(御書1112頁)
と示され、智慧によらず、信心によってこそ仏因仏果を得ると示されているのです。
妙法蓮華経に備わる因果を修行、すなわち、唱題をする事によって成仏の境界を得ることができるのであり、また、慧の修行も同時に備わるのです。
 慧の修行が備われば戒・定の修行を備えることとなり、三学同時に修行し、その功徳を得ることができます。
これが「以信代慧」の法門です。 
 以信代慧の法門は、仏力・法力の力用が具わる御本仏日蓮大聖人様の御本尊に対して、私たちの信力・行力の大切さを示す法門です。以信代慧の功徳は、不自惜身命の修行と、唱題行によって頂く御仏智を無二なく信ずることが肝要であります。


5、御講参詣・法門聴聞の功徳
 さらに、その修行の根幹は、
智慧才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず(中略)心無二にして筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふ也」 (有師談諸聞書・富士宗学要集2・146頁)
と第九世日有上人が述べられるように、自分の智慧や、我見によって仏法を測る心を捨てる事が何より大切です。
 かつて御隠尊日顕上人猊下
 「やはり、皆さん方は、できるだけお寺に参詣して、法門を良く聞き、我見などに執われることがないようにしなければなりません。お題目を唱えること、また妙法の命は、すなわち我見を浄化していくことであります。我々は、我見や煩悩から離れることはできませんが、その我見を浄化することによって、仏様の教えに導かれて、我々の振る舞いや考えを清浄な功徳に転ずることができるのであります」(大日蓮・平成4年6月号31頁)
と、法門を聴聞する功徳を御指南くださっています。
 我々が成仏出来る唯一の道は、唯授一人の血脈を根本とした師弟相対の信心をもって、仏道修行と広宣流布の行業に邁進することにあります。
そして、御当代日如上人猊下は、折伏の大事と秘訣を具体的に御指南くださっています。
「やはり、折伏は勇気を持ってしなければなりません。逆に、折伏すれば相手が怒ってしまって、今まで培ってきたところの友情とか、あるいは様々な良好な人間関係も崩れてしまうと考え、それならば控えておこうと思ってしまったならば間違いです。そうではなく、そういった本当に親しい人にこそ、この仏法を勧めていかなければならないのです。
折伏すると仲が悪くなってしまうからいやだ」などと言っているようでは、これは本当の信心ではありません。むしろ、本当に大切な自分の知人、友人、周りの人達であればこそ、私達は折伏をしなければならないのです。
 折伏は、けんかを売るのではありません。折伏と言うと勘違いしてしまって、なんでも気張って、怒鳴ったりする人もいるのです。しかし、そうではないのです。やはり普段のお題目がその人の人間性を培って、その人間性が相手を感化するわけです。ですから、お題目を唱えていないと、どうしても修羅闘諍の心が先に立ってしまって、怒(いか)り心頭に発して、けんかになってしまうのです。
 ですから折伏をする時には、まず御自分がお題目をしっかり唱えて、自分の命のなかに慈悲の心を持つのです。心に仏界の生命が顕れてこないと、本当の折伏はできません」(大日蓮平成30年8月号37頁〜38頁)
と、具体的に御指南くださっています。


6、信仰は実践あるのみ
 大聖人様は
「問ふ、其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱へて解義の功徳を具するや不や。答ふ、小児乳を含むに其の味を知らずとも自然(じねん)に身を益す。」(御書1114頁)
と仰せです。
 大聖人様は、赤ん坊が乳を飲めば、その味や成分が解らなくても、自然に身が養われるようなものであると仰せです。
 この御文は、全く無智の行者が南無妙法蓮華経の意義も知らずに、ただ南無妙法蓮華経と唱えるだけでも、その得るところの功徳が、いかに勝れているかということを示されています。
 また、その得益(とくやく)の由来は、まさしく無上の妙法力にあることを示されております。
 つまり、唱える者の信力、行力もさることながら、御本尊様に偉大なる力があるからこそ、その義を知らなくても、南無妙法蓮華経と唱えていけば必ず成仏するのです。
 例えば、小さい子供が全く意味も解らずに、お父さんやお母さんと一緒に勤行し、お題目を唱える。すると、自然に功徳が具わるのです。
 まさにこれは、御本尊そのものに偉大なる功徳が具わっているからなのです。
 だから、題目の功徳、妙義そのものを理解できなくても、ただ御本尊こそ絶対であると信じて、南無妙法蓮華経とお題目を唱えていけば、功徳は広大無辺であると仰せなのです。
 小さな子供は何も御法門など分かりません。わからないけれども、一緒にお経をあげてあげるのです。一緒に題目を唱えてあげるのです。一緒に折伏に連れて行ってあげるのです。その事によって、知らず知らずに子供に功徳が具わるのです。
 我々日蓮正宗の僧俗が唱えるお題目は、日蓮宗創価学会顕正会が唱えるお題目と異なり、すべて本門寿量文底に秘沈された、久遠元初本因下種の妙法に帰結します。
 したがって、私たちが唱える南無妙法蓮華経は、単なる経典の題名ではなく、また文上の法華経の義理でもなく、文底下種の御本仏の御本意なのです。
 その根本の意という仏法の心、仏様の心が、一番大事なところなのです。したがって、大聖人出世の御本懐である、本門戒壇の大御本尊を根本とし、信心に励むことが、末法今日の正しい修行なのです。
 大聖人様は、「仏法上の教義だとか、御法門のあり方だとか解からなくとも、それでも南無妙法蓮華経と唱えれば功徳があるのだ」と仰っております。
 これは南無妙法蓮華経という「法」、御本尊様に大きな力があるからです。信心は解る、解らないではない。実際にやってみる。自分が体験することなのです。
 折伏も、自分が信じているから人に話をしていくのです。信を持たないで、理屈で話していっても、なかなか折伏はできません。根本は「信」なのです。
 日蓮大聖人様の仏法は、理の仏法ではなく、実践の仏法ですから、私たち自身がこの身体を動かし、大聖人様の仏法を守って、弘めていくということです。
 この御本尊様に全てをかけるところに、必ず全てが護られていくのです。
 生活の中で苦しいことが出てくると、世間の人達は、すぐに経済であるとか、生活を中心に考えますけれども、日蓮大聖人様は、
 「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。」(『諸経と法華経と難易の事』1469頁)
と仰せです。
 そうだと気がついて、本当に信心根本にやってみてください。お寺に参詣し、講中活動に参加して、折伏もやった。そうしたら病気も、経済的な苦しみも乗り越えられた。そんな体験談が、至る所で語られ、「大白法」や「妙教」にも掲載されています。
このように、日常の生活の中でも、信心によってきちんと護られる姿があるのです。私たちは「転迷開悟」といって、迷いの中で生活していますが、 気がついたら悟りの境界が開かれているものです。
 慈本寺法華講の皆様方は、そういう仏法に入信して信仰をしておられるのです。
 我々の信心・唱題行の力は、以信代慧の法理により、仏様の智慧を頂き、いかなる艱難に対しても道を開き、煩悩即菩提の功徳を我が心に備え、不幸にあえいでいる方々を折伏して救っていけると確信し、さらなる精進をしてまいりましょう。

平成三十年十月度 御報恩御講拝読御書
 聖 愚 問 答 抄

 今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり(中略)今の世を見るに正法一純に弘まる国か、邪法の興盛す(こうじょう)る国か勘ふ(かんが)べし。
 文永五年 四十七歳  (御書四〇三㌻一二行目~一五行目)

 

 

日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 
平成新編日蓮大聖人御書

平成新編日蓮大聖人御書

 
六巻抄

六巻抄