身命を捨つる程の事ありて

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『日曜講話』第九号(平成元年7月1日発行)
身命を捨つる程の事ありて

 田 辺 道 紀 代 講

 皆さん、お早うございます。本日も御住職様は海外の方へ行っていらっしゃいまして、代わりに私が日曜講話を代行させて頂きます。今日は確か、御住職はブラジルの方へ行かれてまして、来週の日曜日、十八日の昼間、お帰りになります。それまで、今日とこの次の日曜日は代行させて頂きます。先週も最後に言ったように、本日は、なにゆえこの日蓮正宗の信徒、又、私達は人一倍苦しまなければならないのか、ということで話をさせて頂きます。

 仏教では、今の世の中を末法という風に説いているわけでありますけれども、お釈迦様の滅後一千年間の時代を正法時代と言いまして、そして、さらにその後の一千年間、すなわち天台大師や伝教大師のいらっしゃった時代を像法時代と言います。そして、お釈迦様が入滅してから二千年以後の時代、すなわち日蓮大聖人様が、この世の中に現れた時代を末法という風に言うわけです。正法千年、像法千年の時代を経て、そして今現在の時代、末法は万年であると言われ、この末法という時代は、ずぅっと続いていくんだということが言われております。

 その中で、正法時代というのは、お釈迦様がなくなって間もない時代ですから、お釈迦様のいらっしゃった時と、ほとんど変わりなく仏法が行われ、人びとの心自体も汚れていませんので、有難い法門を聞いて迷いや苦しみから解き放たれ、又、心静かに瞑想するというような修行によって、悩みから脱れることができるという時代なのであります。

 そして、次の像法時代というのは、どちらかというと、仏法の形式だけが流行した時代です。お経を読んだり写経をしたり、色々なお説法を聞いたり、あるいは立派な堂塔伽藍を建立したり、又、滝に打たれるとか、そのほか数々の難行、苦行を試みる修行者は多いけれども、本当の内容に欠けていますから、実際に証果を得て成仏できるという者は、ほとんどいないというのが、像法時代なのであります。

 ところが、今この時代、末法という時代は、確かに、お釈迦様の説いた経典は残っておりますけれども、もはや正法・像法時代のような修行をする者もいない。たとえ、そういう自分自身の体を戒めて修行したり、又お釈迦様の有難い法門を聞く者があったとしても、けっして実際に証果を得て成仏得道することはできないのです。

 今この末法という時代は、お釈迦様自身が『大集経』に、「白法隠没せん」とおっしゃって、もはや、お釈迦様の仏法の利益はなくなる時代です。そうして、やはり、釈尊が『法華経』に予証されているように、大聖人様の南無妙法蓮華経の大白法が広宣流布する時代であります。

 従って、今この末法の時代においては、正法や像法の時代のように、ただ、お釈迦様の有難いお経を読み、お説法を聞いていればよい。あるいは自分自身の体を戒めて修行すればよいというような、そんな、今なお他宗で行われているような信心ではいけません。私達は、末法の御本仏、日蓮大聖人様の御本尊を受持して、自分自身が本当の功徳を頂戴し、成仏していかなければならない。今はそういう時代であるわけです。

 又、よく即身成仏ということが言われますが、この即身成仏ということも、大聖人様の南無妙法蓮華経の御本尊を信じて、しっかりと、お題目を唱えて、そうして自分自身の命を、心の底から、きれいにしていくことであります。六根清浄という風に言っておりますけれども、それをしていかなければ、本当の成仏、即身成仏ということは得られないわけあります。先ほども言いましたように、正法、像法の時代と同じく考えて、その有難い法門を聞けばそれでいいのだと言う者や、又、難行、苦行をすればそれで本当に成仏出来るのだという風に考えている他の宗教は、間違いなのであります。

 私達は、この末法の世に生れて来て、そして、大聖人様の仏法を学んでいるわけでありますけれども、大聖人様は、御自身が、小松原や竜の口の法難等々、そういった所で色々と苦労なさっていらっしゃったわけであります。竜の口の法難の時には、首を切られそうになったわけですけれども、そこで首を切ることが出来ず、そのまま佐渡の方へ流されたわけです。

 大聖人様は、『佐渡御勘気抄』という御書の中に、

 「仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめ」(全八九一)

と仰せられています。仏になるということは、必ず自分の命を捨てる位のことがあって、はじめて本当の成仏は出来るのだということであります。だからと言って、それなら、その場で、なにがなんでも自分自身の命を捨ててしまうのかと言うとそうではない。そこで、やはり、救われている。諸天善神に守られている。又、この御本尊様に守られていくということが、本当の功徳であって、又それが、この日蓮正宗の不思議なところであります。

 南無妙法蓮華経の妙法と言うのは、よく世間一般のことでもそうですけれども、不思議なことがあった時に、妙なことが起きたとか、又、妙だなという風に言われると思うのですが、それがこの妙、不思議なのであります。そういう凡人の知恵では考え及ばない不思議な有難い正法、仏法ですから、妙法と言う風に言われるわけであります。

 大聖人様は、御在世の時に、小松原や滝の口等々で色々な大難を受けられたわけでありますけれども、私達も、いずれは大なり小なり、その難を受けないわけにはいかないわけです。この末法において、大聖人様の当時と同じように、刀で首を切られるというようなことはないでしょうけれども、それ相当のやはり苦しみを受けながら、そして自分自身の命をきれいにし、又、御本尊の功徳を自分自身の命に植え付けて、そして、自行化他の修行によって自分自身の命の中に功徳を積んでいってこそ、本当の成仏ということが叶えられるのであります。

 一般世間でも言われるように、この人生というのは、よく重い荷物を背負って、坂を登る如く進んで行くんだと言う風に言われるわけでありますけれども、その人生の坂を登って行く途中には、決して楽なことばかりではなく、色々と挫折することもあるでしょう。しかし、同じ苦労をするにしても、再びそこを足場にして又、立ち向かっていく。そうした気力をもって、しかも、できるだけ最短距離で、又、間違った方向に行くことなく、正しく貫いて行けるというのが、この日蓮正宗の有難さであるわけでもあります。

 自分達が進んで来た道を今振返ってみれば、やはり若い時に色々と間違ったこと、又、色々なことをして来たと感じられることもあると思います。ですけれども、今現在、幸せに生活出来ると言うのは、そういった色々な面で、色々な苦労を受けながら、でも、御本尊の功徳によって、間違いのない道を辿って来たからだと思うのです。これから先、もっともっと色々と苦労をしていかなければならないこともあると思います。又、それは過去世の業だと言う風に言う方もいらっしゃいますけれども、自分自身のこの末法においての貴重な修行なんだということを、よく肝に銘じて、これから先も、ますます信心を磨いて頂きたいと思います。

 大石寺開創七百年が近づいております。又、色々な面で記念行事も控えておりますけれども、どうか一人も、もれなく、皆さん一緒に手をつないで進めるように、御祈念しながら頑張って頂きたいと思います。今日はそういった意味から、この末法の時代において、この日蓮正宗の信心を全うする上において、なにゆえ苦労をしなければならないのかということについて、お話をしたわけでございます。又、来週は来週で別に考えておりますので、この一週間の中で皆さんから受けました疑問や何かを、又、話していきたい思います。それでは長くなりましたけれども、皆さんも、ぜひ頑張って頂きたいと思います。

(昭和六十三年十二月十一日)