日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

全ての人に仏性が有る

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衆生の心は皆善につけ悪につけて迷を本とするゆへに仏にはならざるか】
  全ての人に仏性が有る

【はじめに】
 涅槃経に「一切衆生悉有仏性(しつうぶっしょう)」という有名な御文があります。
【一切衆生に悉(ことごとく)仏性有り】と読みます。一切衆生は本来、仏性を具えているという意味です。
 日蓮大聖人は『聖愚問答抄』に、
「一切衆生の備ふる所の仏性を妙法蓮華経とは名づくるなり。されば一遍此の首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれて爰(ここ)に集まる時、我が身の法性の法報応(ほっぽうおう)の三身ともにひかれて顕はれ出づる、是を成仏とは申すなり」(御書406)
と仰せであり、御題目の南無妙法蓮華経を唱えることが仏性を呼ぶ方法であります。
「仏性」とは、仏の性分で仏果を得るための因として一切衆生にそなわっている種子のことです。
 大聖人様は誰にでも仏性があると仰せです。しかし、仏性と仏は明確に違います。
『日女御前御返事』の
「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ。只我等衆生法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(御書1388)
をもって、現在の創価学会は「私たちの心の中にご本尊があるのだから、胸中のご本尊を拝むことにより成仏が叶う」と、もっともらしいことをいいます。
 その根底には、本門戒壇の大御本尊様から会員を引き離すための悪質な心があります。
 実は昭和五十二年頃の「第一回創価学会問題」の時にも同じようなことをいって、登山をしなくてもよいなどといっておりました。そのときには、総本山六十六世日達上人から、次のような破折を受け一度は引っ込めた経緯があります。
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合(きょうちみょうごう)して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」(日達上人全集第二輯五巻600)
と、明確に御指南されています。
 現在の学会では、ことさらに「御本尊は妙法を唱える人自身の胸中に存する」と主張し、会員を本門の本尊抜きの信心へ改変しようとしているのです。
 そこで今回は、仏性についてお話しします。
 まず、仏性には「三因仏性」といって、正因仏性・縁因仏性・了因仏性の三種があります。  
 正因仏性とは、すべての生命に具わる仏の生命(仏性)のことです。
 次の縁因仏性とは、その仏性を開発するために行なう修行などの仏縁をいいます。
 そしてこの縁によって悟りを開いてみずからの仏性を知ることを了因仏性といいます。 
 法華経以前の爾前経では、仏道修行によって迷いや煩悩を断ち切り、聖者になってこそ悟りが得られると説かれました。
 しかしこれでは、迷いの多い凡夫が成仏することは絶対に不可能です。 一方、法華経では、いかなる衆生も本来、生命のなかに三因仏性を持っており、迷いを持った姿のままでも法華経を信ずれば成仏すると説かれました。
【三因仏性について】 
 正因仏性について総本山第六十六世日達上人は、「いわゆる仏性、諸法実相の理、そのものを我々が心にそなえておる(中略)諸法実相の真に我々の仏性がかなえば、即座に成仏の境涯である。しかしこれはそなわっておるというだけでは、なかなかこれはできない」(日達上人第一輯一巻166)
と仰せです。 
 つまり衆生に仏性が有ることだけを強調すれば、どんな人も既に仏であるということになり、修行をする必要がなくなります。逆に凡夫には仏性が無いと考えれば、いかに修行しても成仏することは不可能です。
 ですから、いかなる衆生であっても正因仏性としての仏性は具えるものの、それを開発してはじめて、その功徳が顕われると考える必要があります。 
 次の縁因仏性について日達上人は、
「一生懸命に実行していけば、そこに仏性が更に大きく開いて仏になることができる(中略)これを縁因仏性、すなわち智慧で得たところのものを縁として、その仏性を開いていくという事〔修行〕が縁因仏性である」(日達上人第一輯一巻167)
と示されています。 

 縁因仏性とは扶助の意味、つまり仏となるための扶けとしての善根、功徳を起こす性質をいいます。これらの善根によって、結果として了因仏性(悟り)が起こります。 
 そして最後の了因仏性については、「智慧が偉大になっていけば仏性がだんだん大きく顕れていく、すなわち仏になれる、これを了因仏性という」(日達上人第一輯一巻166)
と示されています。 
 了因仏性は、迷いや妄想を打ち破って、みずからの生命に本来存在する正因仏性を覚知し、その功徳を顕すことをいいます。 
 総本山第67世日顕上人は、本来具わる三因仏性について次のように譬えを示されています。
「土の中に金の塊があるとします。その金が土の中に埋まっている状態は正因仏性なのです。本来具わっているけれども見えない。そのように正因仏性はあらゆるものに存在しているけれども、それを見ることができない。それを今度は、土を掘って金を取り出す作業、これが縁因仏性の開発に当たるわけです。それで最後に取り出して、金それ自体が顕れて煌々たる光が輝く。これは了因仏性が顕れてくるという意味であります」(日顕上人全集386頁) 
 土の中に埋まっている金塊を自分のものとするためには、それを掘り出せばよいことは誰でも分かるはずです。そして掘り出す能力は誰にでも存在します。大切なことは、それを実際に行動に移すということなのです。 この行動に移すということが、三因仏性を私たち自身が開発するということになります。

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【三因仏性の開発】 
 総本山65世日淳上人は、
「一切衆生は皆妙法十界互具三千の当体である(中略)しかしながら凡夫は此れに迷ふて知らない」(日淳上人全集553頁)
と仰せです。 
 大聖人様は『顕謗法抄』にて、
衆生の心は皆善につけ悪につけて迷を本とするゆへに仏にはならざるか」(御書282頁)
衆生の心はみな善につけ悪につけ迷いが元となっているために成仏することがむずかしいのだろうか)と仰せです。
 つまり、凡夫の生命は迷いによって覆われていますから、たとえば座禅などによって空想にふけったとしても、自分の心を中心にしている故に仏の智慧を悟ることは不可能なのです。 
 ですから、仏智のすべてが具わる日蓮大聖人の御本尊を信じて実践することにより、正因仏性を元とした縁因・了因の仏性を同時に開発することができるのです。 
 これらの三因仏性を開発するとはどういうことかと言えば、大聖人、あるいは日寛上人は法・報・応の三身如来と顕われることであると示されています。
 三身とは、仏の生命と肉体と知恵の三つが、すべて、備わっているという意味です。 
 つまり、正因仏性が開発されれば、永遠の真理を体とする法身如来の徳を具えることができ、私たちはいかなる困難にも負けず、揺るぎない自在の境界を満喫することができます。
 また縁因仏性を開発すれば、仏による慈悲の振舞い、即ち応身如来の徳を具えるのであり、自分だけの幸せに満足することなく、一切の人々を真実の仏法に導いて救済する大慈悲の生命と振舞いとなって顕われてきます。 
 最後の了因仏性とは即ち仏智を示す報身如来の徳を具えることになり、一切の道理や物事を正しく見極めて、過ちのない人生を歩んでいくことができるようになるのです。
 また、その大事な修行の一つとして、御本尊様へのお給仕が挙げられます。そこでなによりもまず、報恩謝徳の真心をこめたお給仕を心がけることが肝要です。
 日有上人の仰せに、
「花香仏供等を備え申す事は仏の三因仏性を供養し奉るなり」(『富士宗学要集』一巻246頁)
とあります。
 御本尊へのお給仕は、信心をする者にとって欠かせない大切なことです。毎朝、仏壇を掃除し、仏飯を供え、水や樒を上げ、また、勤行の時にローソクを点し、香を焚いて御宝前を荘厳することは、すべて御本尊への供養なのです。御本尊に水・香・華・飯等をお供えすることは、法報応の三身、仏法僧の三宝に御供養申し上げる意義があり、それは即ち我が身の三因仏性(正因・了因・縁因)を養育し、成長せしめることになるのです。 本宗では古来、御宝前の荘厳には三具足(華・香・燈)、又は五具足(華一対・香・燈一対)が用いられております。
 そして華、香、燈明は仏の三身、法理としての三諦、三因仏性などを表しています。御本尊へのお給仕の心構えとしては、かつて日興上人が影の形に随がごとく大聖人に常随給仕申し上げたように、私たちも御本尊即大聖人とあがめてお給仕することを忘れてはなりません。

【仏による下種が必要】 
『総勘文抄』に「三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず。善知識の縁に値へば必ず顕はるる」(御書1426頁)と仰せられています。私たち凡夫は自分の智慧をもって悟りを開くことができない以上、仏性を開発するために善知識の縁を必要とします。 
 具体的には、『曾谷殿御返事』に、
法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候」(御書1040頁)
と示されるように、仏様、末法の現代においては日蓮大聖人によって成仏するための種を下種していただく必要があり、それを唯一の善知識の縁とするのです。
 そして『初心成仏抄』に、
「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。(中略)何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(御書1316頁)
とのお示しのように、末法の今日において一切衆生が成仏するための根本種は、法華経の文底に秘沈された独一本門事の一念三千の南無妙法蓮華経以外にはあり得ません。 
 私たちが信心の目的とする「成仏」とは、言い方を変えれば各自がみずからの生命に能力、あるいは可能性として具わるこれらの三因仏性を、実践を通して開発することなのです。 
 私たちはただ、大聖人様の仰せのままに、妙法の実践修行に励むところに、必ず即身成仏の大功徳を成ずることを信じて、ますます精進していきましょう。

平成三十年八月度 御報恩御講拝読御書

開目抄 文応九年二月 五十一歳

 

摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし。火は水をいとう、水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ。無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす、安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし。 (御書五七五㌻一五行目~一七行目)

 

 

日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 
平成新編日蓮大聖人御書

平成新編日蓮大聖人御書

 
六巻抄

六巻抄

 
一念三千法門

一念三千法門