日蓮正宗のススメ

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1134夜:中秋の名月に月見団子を買ってきました。

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御宝前にお供えしました。

今日は十五夜お月さん。
天気がいいので拝めるかも。
昨日の月明かりはきれかった~。
月見団子を買ってきて、御宝前にお供えしました。
御仏壇に供えることを、御宝前に供えるというのはなぜか?
宝とは三宝のこと。

凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。真言見聞

私たち日蓮正宗の御本尊様は、三宝一体なんです。
仏様であり、仏法であり、御僧侶であります。
「南無下種三宝御報恩謝徳御供養の為(ため)、南無妙法蓮華経」と観念をして、鈴を三打して題目三唱します。
有難いことですね。
自宅に居ながら御供養が可能なのです。
そして、中秋の名月だから御宝前に月見団子をお供えしようと、スーパーに出かけて買ってくることが、信心の志というものなんです。

たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり、まことの・みちは世間の事法にて候、金光明経には「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」ととかれ涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を・妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」との経文に引き合せて心をあらわされて候には・彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。(白米一俵御書1544㌻)

「凡夫はこころざしと申す文字を心へて仏になり候なり」
と、こころざしを持つことの大切さを教えられています。この志とは「観心かんじんの法門」を実践することであり、具体的には自身の生活や命を養うためになくてはならない衣服や食物を、仏に供養することであると示されています。そして、過去の賢聖と末法の凡夫の供養には、「事供養」と「理供養」との違いが存するものの、共にその功徳は等しいとされているのです。
 続いて、こんこうみょう経とはん経を引用し、世法上の事象と仏道は密接な関係にあること、つまり世法即仏法の義を明かされます。ところが、ぜん経に説かれる世法即仏法の義は、世法と仏法をそれぞれ別個のものとしてとらえており、畢竟ひっきょう、仏の真意にかなうものではないとされています。
 そこで真の世法即仏法の義は、法華経
「一切世間の治生産業は皆実相とあいはいせず」
との文言、あるいはみょうらくだいの言葉を引用されて、
法華経しからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」
と説かれ、あくまでも法華経の深義によって一切諸法の真実相を照らしてこそ、万物の心法・色法ともに即法華経一念三千の当体と知ることができる旨を述べられます。
 よって、その法華経の御本尊に御供養してこそ、志を持った人の命そのものを仏に捧げることと同義となるのであって、その功徳は計り知れない旨を述べられ、重ねて御供養に対する深謝の言葉をつづられ、本抄を終えられています。
御供養の精神
 供養とは「きゅうよう」の義で、仏法僧の三宝さんぼう崇敬すうぎょうし、信仰の志を形に表わすことをいいます。仏典には二種供養、三種供養、十種供養、三業さんごう供養など多種多様の供養が説かれていますが、中でも本抄では「事供養」と「理供養」の意義について述べられています。
 
 事 供 養
 「事供養」とは、先に述べたように、過去の聖者が壮絶な覚悟のもと、実際に身を投じて法を求め、仏を供養することをいいます。本宗の歴史で見れば、まつばら(千葉県鴨川市)の法難ほうなんみぎり、大聖人様をお守りするために命を落としたきょうにんぼうどうよしたか、また卑劣ひれつな弾圧に屈せず身命をして題目を唱え続けたあつわらさんれっなど、数々の法難を乗り越えて赤誠の信心を貫いた法華講衆によるしんきょうほうじゅうの振る舞いが、この事供養に当たります。
 
 理 供 養
 一方「信教の自由」が保障される今日、私たちが自身の命を仏に捧げる代わりに、三宝尊に供養することを「理供養」といいます。この理供養は、さらに「法供養」と「財供養」に分けることができます。
 
 法 供 養
 「法供養」とは、仏の所説に従って法をひろめ、人々を教化することです。現代の私たちにあてはめれば、大聖人様の御金言のままに、幾多の障害を乗り越えて折伏に励むことをいいます。また限られた時間をやり繰りして寺院に参詣したり、会合等に参加して仏法の功徳を語り、歓喜の心を多くの人に伝えていくことも法供養になります。
 
 財 供 養
 これに対して「財供養」とは、食物や衣類・香華・資材などを総本山や所属寺院の御本尊にお供えすることをいい、これによって日蓮正宗の正しい法灯が護られ、正法が興隆し、遠い未来にわたって多くの人々が大御本尊の御利益に浴していくことができるのです。
 伊豆や佐渡はいの折には、ふなもりさぶろうぶつぼうたちが身の危険をかえりみず食物などを大聖人様に奉り、献身的に給仕に励みました。また、南条家では、幕府の弾圧によって経済的に逼迫ひっぱくしたなかにあっても、大聖人様への御供養に尽くしました。このほか多くの信徒たちが、末法の御本仏である大聖人様に対して真心の御供養を続け、外護の任を全うしていったのです。
 大聖人様は、
「度々の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。いよいよはげませ給ふべし、おこたることなかれ」(同一四五七頁)
とされ、仏祖三宝尊の広大な御恩に報いていくためにも、真心の御供義が大事であることを教えられています。
 私たちは、大聖人様の使つかいとして折伏する法供養に精進すると共に、仏祖三宝尊への真心の財供養に励んでいくことが、成仏のための大切な修行となることを忘れてはなりません。

法華経は然らず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」とは、「問うて云はく、法華経の第一方便品に云はく「諸法実相乃至本末究竟等」云云。此の経文の意如何。答へて云はく、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり。」『諸法実相抄』ということなのです。

おうちに御仏壇を安置されている方は、御本尊様をお迎えされていることでしょう。
自宅が義の戒壇建立の宝塔であると、大いなる喜びを持って生きていきましょう。
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