日蓮正宗のススメ

広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし

ピエール瀧さん、残念です。でも、再起を期待しております。

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ピエール瀧さん、活躍されていただけに、残念です。

ピエール瀧さん、薬物使用の疑いで逮捕されたようですね。

多くのドラマや映画、音楽活動でご活躍されていただけに、残念です。

今朝、起きてきた私に向かって妻が、開口一番「お父さん、逮捕されてるよ。他人ごとに思えないわぁ。」とのたまいました。

私は「???」。

リビングのテレビを観て、「あああっ。そう。」

我が家では、私の顔はピエール瀧さんに酷似しているということで、時々、ピエールと呼ばれることもありました。

それもあって、プロフィール画像を諸所でピエール瀧さんにしていたのですが。。。

コメント欄でもご指摘を受けまして、第二候補の海老蔵(モザイク処理)さんに変更させていただきました。

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ニュー自画像

海老蔵さんにも似てると言われることがありますので。

ピエール瀧さんには、これから試練が訪れるでしょうけども、どうか再起復活されることをお祈りいたします。

妙とは蘇生の義なり

日蓮大聖人は『法華題目抄』に、
「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり。(中略)妙の一字を持ちぬれば、いれる仏種も還りて生ずるが如し。」(御書360)
と仰せです。御本尊に疑いのない素直な気持ちで一念を込めた真剣な題目を唱えれば蘇生され境界が開かれるとの御言葉です。
 日蓮正宗法華講に入られて「妙とは蘇生の義なり」との実体験をされた講員さんは大白法など日蓮正宗機関誌の体験談で確認ができます。その体験は御本尊からの有難い功徳であり真剣に祈った果報です。
 また「妙とは蘇生の義なり」とは身口意の三業にわたり信心を実践された結果でもあります。もし、祈っても蘇生されない場合、御本尊への祈りが本当に真剣か、怠慢はないか、自らの信心に十四誹謗を犯していないかどうかをひとつ一つ省みる必要があります。

 末法においては、まったく無益な爾前権教の死の法門も、末法の大白法である妙法に照され会入された上からは、活の法門としてよみがえるとされます。
 毒気が深く入り本心を失い、ながい過去の世から邪宗邪義にまどわされてきた末法衆生も、どんな極悪人でも、ひとたびこの妙法を信じて受持すれば、いかなる罪障も朝露のように消滅して、尊極無上の仏果をうることができます。
 悪が善に、迷いの凡夫が仏に成ることを蘇生といい、その道は唯一、妙法受持以外にありません。反対に、妙法を信じない人々は、どれほどきれいな衣装で外見を飾り、気持ちを一新したとしても、それは一時的な薬の効果に過ぎず真の蘇生にはなりません。結局もとの六道輪廻という迷いの世界で悩み苦しみます。日々真面目に積み重ねられた妙法受持への疑いのない確信と信行にこそ蘇生の義が存し絶対的幸福があります。

引用元:妙とは蘇生の義なり - 日蓮正宗 正林寺 掲示板

ピエール瀧さんが、日蓮正宗寺院の門を叩いてくれるといいなぁ。 

日蓮正宗 寺院紹介 全国

海老蔵さんも若い時には、色々と世間を騒がせましたが、今では奥様の死を乗り越え、歌舞伎の道を歩まれております。

それにしても、私の人相(如是相)って。

似てるってことは、、、色々あるんですね。

十如是
教学用語

 「十如是」とは、十如境ともいい、諸法に具そなわる十種の存在の法則、諸法を十の側面から見たもので、宇宙法界の時々物々・森羅万象の存在と活動の姿を示す万物の法則をいいます。「如是」は「是かくの如ごとき」と読み、これは、ありのままの事物・事象の姿ということで中道実相を意味します。

 法華経方便品第二に、

 「佛ほとけの成就じょうじゅしたまええる所ところは、第一だいいち希有けう難なん解げの法ほうなり。唯ただ佛と佛とのみ、乃いまし能よく諸法しょほうの實相じっそうを究尽くじんしたまえり。
 所謂いわゆる諸法の如是相にょぜそう、如是性しょう、如是體たい、如是力りき、如是作さ、如是因いん、如是縁えん、如是果か、如是報ほう、如是本末ほんまつ究く竟きょう等とうなり」(新編法華経 89頁)

と説かれた略りゃく開三顕一かいさんけんいちの文で、天台大師が一念三千の法門を立てる出処しゅっしょとなった法理です。

 「如是相」とは、外より見て判別される状態のことで、あらゆる事物の相状そうじょうをいいます。

 「如是性」とは、内に具わる心と心によって積まれた性質・性癖せいへきをいいます。

 「如是体」とは、一切の事物の本体、当体のことをいいます。

 「如是力」とは功能こうのうのことで、体に具わる潜在的能力のことをいい、種々の作用を起こす本の能力です。

 「如是作」とは、力が静動二態中において、自他に及ぼす作用のことです。

 「如是因」とは、過去より相続して内心に習慣的に存在し、次の果を招く習因しゅういん、直接原因をいいます。

 「如是縁」とは、主要な原因を助けて果を成ぜしめる外的原因、間接原因のことをいいます。

 「如是果」とは、習因が成就して顕れた結果である習果をいいます。

 「如是報」とは、因と縁によって招来した結果が、さらに長く牽ひかれて現れる状態をいい、いわゆる報むくいのことです。

 「如是本末究竟等」とは、最初の相を本とし、九番目の報を末として、この本と末が究竟して等しいことをいいます。

 このうち相・性・体の三如是は諸法の本体を表し、力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の七如是はその用きを表しています。

 すべてのものは、この十種の在り方によって生起しながら、本体と用きとが互いに一体性を保っているのです。

 大聖人は『十如是事』において、三如是を仏身に約すと三身如来となり、理に約せば三諦となり、功徳に約すと三徳となることを明かされています。

 私たちが勤行の際、十如是を三回繰り返して読誦することも、この徳を我が身に顕す意味からです。

 さらに、『当体義抄』に、

 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩ぼんのう・業ごう・苦の三道、法身・般若はんにゃ・解脱げだつの三徳と転じて、三観さんがん・三諦さんたい即一心に顕はれ」(御書 694頁)

とあるとおり、私たちは、ただ三大秘法の御本尊を信じ、自行化他にわたる題目を唱えることによってこそ、即身成仏が叶うのです。

引用元:十如是 – 日蓮正宗法華講宝相寺支部ページ

 

 

一念三千法門

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