いちいち頭で冷静に考えて行動する人は、なぜすぐに淘汰されるのか
<道徳感情>で激動の世界を読み解く【4】
管賀 江留郎少年犯罪データベース主宰
世界と人間の謎はすべて<道徳感情>で解き明すことができる?若者増加やイスラム国誕生の意味に迫った「若者が爆発的に増えると、なぜ国や社会は「甚大な危機」に陥るのか」の次は、アダム・スミス『道徳感情論』の語られざる本質について。『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』著者による渾身の論考です。
共感だけでは万事うまくいかない
リーマンショック以降の世界的な景気後退や金融危機、格差の拡大から、資本主義の行き詰まりがやたらと叫ばれるようになりました。それと同時に、なぜだかアダム・スミスが再注目を浴びるようになっています。
アダム・スミスというと、<見えざる手>なんてキャッチ−な言葉が出てくる『国富論』の著者として、市場原理主義の教祖のようなあつかいでした。ですから、資本主義が駄目になったのなら、その時点でお払い箱になるはず。逆に持上げられるようになるとは、これはまことにおかしな話です。
ところが、『国富論』よりも先に、『道徳感情論』なんて本も書いてたぞ、こっちのほうが凄いんだぞと、世界中でいろんな人が唱えはじめたのです。アダム・スミスは自由放任の市場経済の権化なぞではなく、じつは道徳や共感の大切さを語っていたという、これまでとは180度違う評価の転換が起きたのでした。
しかし、果たしてこの新しいスミス像は正しいのでしょうか。『道徳感情論』は、人間には共感能力があるという話からはじまっています。そのために、道徳や共感の大切さを語った本だと誤解されているのですが、これが大きな間違いなのです。
では、『道徳感情論』とは、いったい何が書かれている書物だというのでしょうか?
その恐るべき真実について、これから順を追って解き明してみたいと思います。何百年も前のこの本が、驚くべきことに現代の世界情勢を説明し、その解決策さえ指し示してくれるのですから。
さて、アダム・スミスは『国富論』を残したことにより、経済学の父と呼ばれています。しかし、250年前の最初の著作『道徳感情論』のタイトルからも判るように、彼の興味は人間の感情にありました。
さらには、その感情が生み出す、人間社会のなんとも摩訶不思議な秩序の仕組みを読み解くことにありました。経済の研究は、あくまでその一部でしかなかったのです。
法律や政治についての著作、さらにおそらくは芸術論や科学論、認識論の著作も書くことにより、その大理論体系は完成するはずでした。
ところが、彼の壮大なる構想は果たせずに終わります。未完成の思想体系が後世で間違った受け取り方をされることを恐れたスミスは、死の一週間前に膨大な草稿をすべて燃やしてしまいました。
しかし、『国富論』も含めて、それらは細かい枝葉の部分に過ぎません。一番肝心な根と幹は、『道徳感情論』によってすでに完成されていたのです。その根幹とはなんでしょうか。
『道徳感情論』の冒頭は、利害関係がまったくないはずの他人の喜びや悲しみに対する<共感>を持つことが人間の本性だという話からはじまっています。どんな悪人であっても<共感>をまったく持たないということはない。そのことが人間社会を動かしている原理だというのです。
こんな話だけだったら1ページで済み、あんなにまで分厚い本を書く必要はないはずです。スミスさんはここに、<公平な観察者>なんていう小難しい存在を持ち込んでくるのです。
みんなが<共感>を持っているのなら、それだけで万事うまく行くと思えるのに、なにゆえそんなものが必要となるのでしょうか。
進化生物学を先取りしていた
その本のタイトルでも判るように、アダム・スミスは、道徳は理性によってではなく、感情によってもたらされることを見抜いていました。それではそもそも、感情というのは何でしょうか。
自然界は危険に満ちてますから、とっさの素早い判断が生死を分けます。猛獣が迫ってきたときに、「これはライオンなのかトラなのか、喰われると死んでしまうから逃げようか」なんて理性的に考えていたら間に合いません。
考える前に身体が反応して全速力で駆け出している必要があります。そのために、反射的な生理作用である恐怖心などの感情が生れたのです。感情がなく、いちいち頭で冷静に考えて行動していた動物は、猛獣に喰われて絶滅しました。狩猟採集時代の人間も同様です。
さらには第一回(「誰も語らない、トランプ現象を生み出した『歴史の原理』」)で詳しくお話ししたように、人類は生存率を上げるため、言葉による<評判>を媒介とした協力関係システム<間接互恵性>を進化の過程で身に着けました。
良きことをした者には報酬を、悪しきことをした者には罰を与えたいという欲求が高まり、そのために発達したのが<道徳感情>です。
人間にとってこの協力関係をうまく機能させることは、生死に直結する切実な問題でした。しかも、あらゆる場面で判断を迫られるため、頭で考えるのではなく、感情によって反射的に反応する必要があったわけです。感情がなく、いちいち考えて行動していた者は、この仕組みから脱落して、あるいは仕組みその物を破壊して淘汰されたのでした。
さらに<共感>も、他者の喜びや悲しみの原因を理解するために必須の能力でした。「サイコパスはなぜここまで人を惹きつけてしまうのか」でお話ししたように、最初は他者の恐怖心を共有して危険からいち早く逃れるための能力だったと思われますが、人間はそれを<間接互恵性>構築のために応用したのです。
恐怖心や共感能力が欠落したサイコパスが、政治家や経営者として成功することが多いのに、いつの時代も少数しかいないのは、自然界でも人間社会でも生存に適していないからなのです。
いまだに、道徳は宗教や教育がもたらすものだと思っている人がほとんどなんですから、人間の本性に根ざしたもっと根源的なものだと見抜いていたアダム・スミスは画期的でした。
1970年以降にようやく定説となったこれらの最新の進化生物学理論を、ダーウィンが『種の起源』や『人間の由来』を発表したさらに100年前、完璧に先取りしているのです。
もっとも、道徳は理性によってではなく、感情によってもたらされるというのは、友人のデイヴィッド・ヒュームからいただいてきた考えでした。スミスさんが凄いのは、<間接互恵性>のさらに先、進化心理学の最先端にまですでに到達していたことだったりします。
それが、<公平な観察者>なのです。
いま『道徳感情論』が流行っているが…
人間には<共感>や<道徳感情>が備わっているはずなのに、なぜかうまく行かないことも多い。それはどうしてなんでしょうか。
第一回で見たような、チスイコウモリがお互いに血を貸し借りする1対1の直接的な協力関係なら、すべての出来事は目の前で起きます。しかし、<間接互恵性>では、ほとんどが見えないところで起るからです。
言葉の伝言ゲームによる<評判>のやり取りは、ただでさえ間違いが入りやすい。さらにその上に、意図的に嘘の情報を流す者までいます。自分の<評判>を実際よりも高めて、競争相手である他人の<評判>を実際よりも落とすためです。
そんな状況でも、誰が悪いことをやったか突き止めて罰を与えるため、人間は因果関係の推察能力が発達しました。
しかし、どれほど発達しようが、因果推察にはどうしても間違いが生じることになります。むしろ、<共感>や<道徳感情>によって因果関係の推論がゆがまされてしまうことさえある。