日蓮正宗のススメ

凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。

「道徳感情論」でアダム=スミスが言いたかったのは、「六根清浄」の大切さだと気づかされました。

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即身成仏とは六根清浄のことなり

御義口伝巻下

法師功徳品四箇の大事
第一法師功徳の事
御義口伝に云く法師とは五種法師なり功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得意可きなり云云。
第二六根清浄の事
御義口伝に云く眼の功徳とは法華不信の者は無間に堕在し信ずる者は成仏なりと見るを以て眼の功徳とするなり、法華経を持ち奉る処に眼の八百の功徳を得るなり、眼とは法華経なり此の大乗経典は諸仏の眼目と、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は眼の功徳を得るなり云云、耳・鼻・舌・身・意又又此くの如きなり云云。

第三又如浄明鏡の事
御義口伝に云く法華経に鏡の譬を説く事此の明文なり、六根清浄の人は瑠璃明鏡の如く三千世界を見ると云う経文なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり、又は我が一心の明鏡なり、所詮瑠璃と明鏡との二の譬を説かれたり身根清浄の下なり、色心不二なれば何れも清浄の徳分なり浄とは不浄に対して浄と云うなり明とは無明に対して明と説くなり、鏡とは一心なり浄は仮諦・明は空諦・鏡は中道なり悉見諸色像の悉は十界なり、所詮浄明鏡とは色心の二法、妙法蓮華経の体なり浄明鏡とは信心なり云云、又三千大千世界を知見するとは三世間の事なり。
第四是人持此経安住希有地の事
御義口伝に云く是人とは日本国の一切衆生の中には法華の行者なり希有地とは寿量品の事理の顕本を指すなり、是を又分別品には「仏説希有法」と説かれたり別しては南無妙法蓮華経なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の希有の地とは末法弘通の明鏡たる本尊なり、惣じては此の品の六根清浄の功徳は十信相似即なり対告衆の常精進菩薩は十信の第三信と云えり、然りと雖も末法に於ては法華経の行者を指して常精進菩薩と心得可きなり此の経の持者は是則精進の故なり。 

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心

 

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心を読んでいて、ふと気づいたことがあります。

それは、アダムスミスが道徳感情論で述べた真意とは、「六根清浄」の大切さであり、六根清浄でなければ道徳感情は、却って人間世界に仇を為すということではないでしょうか?

アダムスミスは、内なる「公平な観察者」を持てと言いますが、自助努力で持てないからこそ、フランス革命に端を発したファシズム全体主義革命が勃発したのです。

私は、法華講員になりたての頃、法華講員が口にする「功徳とは六根清浄の果報なり」を、内心小ばかにしていました。

御利益がないから、そんなことを言って胡麻化しているに違いないと、邪推していたのです。

でも、

日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり

と、御義口伝にあるように、六根清浄であるからこそ、認知バイアスルサンチマンに歪まされることなく、

六根清浄の人は瑠璃明鏡の如く三千世界を見ると云う経文なり

との如き正見を獲得することが出来るのです。

天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか。

如来滅後五五百歳始観心本尊抄) 

の有名な御金言が思い浮かびます。

そして、御本尊様のことを観心本尊であると仰せられる、日蓮大聖人様の御仏智も拝することが出来得たように思うのです。 

道徳感情論 (日経BPクラシックス)

道徳感情論 (日経BPクラシックス)

 

は、一見すると退屈な本です。 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1999/11/16
  • メディア: 文庫
 

西の道徳感情論、東の論語と呼ばれることもあります。

論語の子罕編冒頭に「子罕言利與命與仁」という章があるのですが、古来、この章は「子、罕に利と命と仁とを言ふ」と訓読され、「孔子が利や命や仁について語ることはまれであった」との意とされてきました。

この章は論語を読んだ大多数の人にどこか腑に落ちないものを感じさせます。

というのも、論語のなかで「利」や「命」について述べられている個所はこの章以外にも一度ならず存在します。

ましてや「仁」に至っては論語における最高の徳目としてたびたび孔子の口から言及されているからです。

孔子の時代から二千数百年が過ぎたのち、我が国の江戸時代の儒学者荻生徂徠が画期的な新解釈を打ち出します。

徂徠によれば、この章は一旦、「利」のところで絶句すべきとされるのです。

つまりこの章を「子、罕に利を言ふ、命とともにし仁とともにす」と読み、「孔子は利について語ることはまれであったが、語るときは必ず命や仁とともに語った」と解すのです。

この解釈は論語の他の部分とも整合性がとれたものであり、積年にわたる疑念を払拭させました。

さらには「利」を「仁」とともに語ることで、「利」が倫理規範化されるという点において近代性すら感じさせるものとなりました。まさに、道徳感情論と国富論の関係性に他なりません。国富論は枝葉の論で、根幹は道徳感情論だったのです。

道徳感情論は、アダムスミス自ら死の直前まで推敲を重ね、6版が決定版として最終稿となっています。

アダムスミスの道徳感情論は、250年前から読み継がれてきました。

永らく誤読されてきたと言っても過言ではありません。

小難しい哲学用語を駆使する、ドイツの観念論があたかも高尚かつ高邁な、哲学的理念を語っているかのように、我が国では受容されてきた歴史があります。

しかし、アダムスミスも孔子も、机上の空論を語るシステムの人ではありませんでした。

二人は共に、清浄な心、アダムスミス流に言えば、「公平な観察者」を内なる心に宿すことが出来た、数少ない賢人だったのです。管賀 江留郎(かんが えるろう)氏は、私の孔子の替わりに、ブッダの思索で比較考証しています。これは、また、一連の連載でご確認ください。

要するに、六根清浄(認知バイアスの解除)は世界を救い、人間を解脱≒成仏させるほど、大きな功徳であるということだと実感した次第であります。 

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