私たちは何のために生きているのか?
どこに向かって生きているのか?
どこにもそんな意味はない、そのような疑問じたい意味がない、といった考え方が「ニヒリズム(虚無主義)」。
キリスト教牧師の家に育ち、そして「神は死んだ」と言ったニーチェは、この「ニヒリズム」の問題と格闘した人だったようです。
そしてそれは、もちろん今の日本、創価民・顕正民・法華講民にも通じる問題だと思います。特に2世(代々信者の過程に生まれ育った者全て)にとっては。
そして・・改めてニーチェの思想を見てみると・・。
もしかして、「進撃の巨人」のテーマはここにあるのかもしれない、と。
目次
エレンの”家畜”とニーチェの”畜群”
一生壁の中からでられなくても…飯食って寝てりゃ生きていけるよ…でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか…ーエレン・イェーガー(845年)ー
ニーチェはその著『ツァラトゥストラはかく語りき』において、人間関係の軋轢におびえ、生活の保証、平安、快適、安楽という幸福を求める現代の一般大衆を「畜群」と罵った。
その上で、永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する「超人」であるべきと説いた。超人 - Wikipedia
これはまさに、エレンの考えと似てるように見えますね。
ニーチェの考えの根底には、ある種の理想や道徳に対する否定があったようです。
たとえば、キリスト教の(この世でというよりも)「最後の審判」で最終的に救われるといった教え。
ニーチェ自身の育ちや、現代日本とはまた違った宗教観や道徳という背景もあったのでしょう。
ニーチェは、神やあの世、魂といった超越的なものを嫌い(民主主義も嫌いだったよう)、全てに意味や目的はない世界の中で、超人を目指せと言ったようです。
超人というのは、あくまで私そのものの「生の肯定」。頭で考える理想でなく、現実的・本能的な力への意思の肯定。これがニーチェの思想に根本ということです。
エレンとジーク=”反キリスト”と”キリスト”
一方、ジークはエレンとは正反対の存在。エレンとジークの描かれ方は、とくに座標に行ってからは、「キリストと反キリスト」を匂わせているように見えます。
ジークのエルディアの安楽死は、ニーチェを出すまでもなく「生の否定」そのもの。その動機は個人的な感情なのに「エルディアの救い」と合理化しているジーク(これがニーチェの言うルサンチマンに通じるかも)。対して、「イヤ、オレが地ならしでパラディ島を守りたいから」というエレン(ストレートに個人的な感情)。
ただ、、エレンの意思の結果が地ならしなら、同時に世界の人間の生は否定される。
自由を得るためには破壊するしかないという状況において、エレンは、怪物になるしかなかったのかもしれませんが。
怪物と戦う者は、みずからも怪物とならぬように心せよ。汝が久しく深淵を見入るとき、深淵もまた汝を見入るのである 。「善悪の彼岸」
善悪において一個の創造者になろうとするものは、まず破壊者でなければならない。そして、一切の価値を粉砕せねばならない。「この人を見よ」
ニーチェは、もちろん現実に破壊せよと言ってるのではなく、既成の価値に縛られるなと言っているのでしょう。
もしかしたら。
進撃では、「あえて」この破壊を現実の行動(それも地ならしという破滅的な)として描くことによって、人間の普遍的な問題ー個人と全体の間の齟齬、もしくは、人間の愛とエゴの境界線(いい言葉が見つからないけど)ーを表現しようとしている、のかもしれない。
そのためには、エレンは地ならしを起こす存在でなければならない。その方が、はっきりと問題が見えてくるから。ていうか、まあ多分そうじゃないかなと思ってます。あくまで個人的予想ですが。詳しくはないけど、昔からの哲学的、倫理的、そして世界情勢的にも現実的な問題。
自分がずっと地ならしを予想しているのは、(素直に読むとそう思えるのもあるけど)、ここら辺をよりくっきり見せてほしいし、さらに、その先がどう描かれるのかが見たいから。そして、エレンは何かを創造しようとしているのか?
2世信者に精神的崩壊をもたらす、世界の喪失
私自身は、この世界の喪失体験を二度味わった。
一度目は創宗戦争勃発の1990年。
二度目は顕正会の欺瞞に気付いた2010年。
生まれたのが1972年なので、およそ20年おきに世界観の崩壊を体験したわけだ。
二つの神が嘘であると気づいたとき、自死を願うようになっていた。
2世信者というか元2世信者に精神疾患のある人が多いのは、きっとこの世界観の崩壊に耐えられなかったからではないだろうかと思う。
私は幸いにして、哲学に縁があった。
これが支柱となり、日蓮正宗に戻ることが出来て、精神の均衡を保てたと思っている。
スッカスカの80万人体制構築を観ても、揺らがない確信
現在の日蓮正宗を見て、妄信する気にはなれない。
それでも、戒壇の大御本尊様への信は揺るがない。
健全な中庸の精神を、この10年で培うことができたためだ。
その糧となったのが、インターネットの存在。
公式発表の機関紙しかない時代であったなら、三度目の世界観喪失を味わっていたかもしれない。でも、下記に引用した、城内氏のようなブログに出会えたことなども、僥倖のひとつであろう。
全てが同じ意見ではないけども、よく似た問題意識を共有できているひとが、大勢いるんだろうな。。
ネットで宗教2世の苦悩を知る度に思うのは。。
洗脳の強さと親との確執。
つらいだろうと思う。
私も創価狂の両親のもとで育った経験があるので。
哲学者のニーチェが発狂したことは有名だけど、謗法の害毒だから。。。で片づけてしまっては、彼も浮かばれない。
ニーチェに心酔していた高山樗牛が、大聖人の仏法に心酔したのはなぜか?
念仏信者の親の元で育った、宮沢賢治が法華経の世界を童話に表現したのは?
そこに、偉大な思想があったからである。
深淵の底に、希望の光を覗き見たからではないだろうか?
進撃の巨人という作品が、今のこの時代に現れたことも偶然ではないだろう。
最後まで見守りたい。

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