漫画やアニメを見下す人に
なぜ、あなたは、アニメの話をするのですか?ブログのタイトルを変更するべきでは?大聖人様が迷惑します。(誠意ある法華講員)
ご質問、興味深く拝見いたしました。
日蓮正宗のススメと題してブログを運営しているのに、関係のない話が多いうえに、アニメのようなものまで取り上げるのが、気に入らないということだと思います。
まず、ブログに関して一言申しておけば、日記・雑記・エッセイ集、そのような気持ちで綴っています。
これは、あくまでも私の考えでありまして、他の法華講員さんの運営するブログがどうであるかは存じ上げません。
私の実存の根源が日蓮正宗への信仰に根差しており、四六時中、仏法のことを考えております。いい恰好して言うわけではなく、私は哲学病に罹患した人格障碍者「縁覚・独覚」の衆生だと思っております。
本来なら、私のような二乗根性の者は、仏法修行の二大修行の一つ「化他行」は、慈悲心が欠如しているために、なかなか実践できないのですが、インターネット時代の到来によって可能になりつつあると認識しています。
日蓮正宗のスローガンに「普段着の折伏を!」ってのがあるよね。
このブログが私の普段着ですよって言うと、反感を感じる人がいて、ブログでの折伏行動を批判してくる方がいます。
私は、全く気にしていないのですが、気にしていないのが分かると是が非でも邪魔しようとする人もいます。
そういう方には、御自身が三障四魔にならないよう、お気を付けくださいとしか言いようがありません。
だって、私のブログを縁にして日蓮正宗に入った人もいますからね。また、日蓮正宗信徒で継続的に読んでくれている方もいます。ですから、気に入らないなら見なきゃいいわけですよ。お金を頂戴しているわけではありませんから。
私に突っかかって来る法華講員からのクレームを概括しますと、以下のように分類できます。
の、三つにおおよそ分類できますね。
1について
個人の日記を趣味で配信しているので、許可は要りません。日本国憲法で保障されております。信者を統制したいという気持ちが宗門にあることも知っていますし、本山のネット専門お坊さんが監視しているのも知っていますが、意に介しておりません。私の自由権を行使しているだけであります。
2について
家族と近しい人間のみについては、折伏と育成が完了しております。折伏した人間をある程度まで導いた後は、個人の責任として干渉しておりません。それこそ、御僧侶の範疇だとおもうのですが。
3について
見極めるのは読み手の方の責任です。ネット社会の常識ですよね。統制の効いた放送局ではないのですから。個人が自分の考えを発信しているだけのシステムです。ブログなんてオワコンに近いコンテンツですし、影響力も動画の比ではありません。読んでみて間違ってるなって思えば、読まなきゃいいだけのことです。
さて、前置きが長くなりましたが、質問のお答えに参りたいと思います。
質問の根本は、要するにアニメみたいな下世話なことを言うなと。
では、日本のアニメが恥ずかしいレベルのものかどうかについて、考えを述べてみたいと思います。
元々アニメやマンガは「サブカルチャー」であるとされていました。今でもマンガやアニメを指して「サブカルチャー」と呼ぶ人はいますが、元々の意味は「教養ある人々が享受するハイ・カルチャー(高位文化)に対する、鑑賞するのに教養を必要としない文化」です。
子供向けとされたマンガやアニメは、日本において「サブカルチャー」とされましたし、貸本屋というメディア向けに出版されていたマンガ(少年向けもあれば青年向けもありました)は典型的なサブカルチャーでした。
現在、「巨匠」と称される手塚治虫も元々は貸本漫画の世界から出てきた人です。青年向けの「劇画」も元来はこういう「安っぽい」作品です。
こうした作品が本来の意味の「サブカルチャー」に留まっているならば、御質問のとおりかもしれません。
もともと、そういう文化のもとで生み出されて消費されていく作品群なのです。見下されて当たり前なのであって、作り手も読み手も見下されたからと言って気にもしません。
私自身は70~80年代に子供時代を過ごしていますが、「マンガは小学生で卒業するもの」という暗黙の了解があって、実際中学に入った頃に漫画雑誌の購入はやめました。
その傍らで、世の中は動いていました。1980年に入る直前から「大学生がマンガを読んでいる」ことが週刊誌で報じられるようになります(もちろん否定的論調ですが)。
『宇宙戦艦ヤマト』がテレビで放映されると高校生たちが熱心に視聴しました。従来のアニメ視聴層とは異なる年齢層ですが、プロデューサーはこの層に向けて熱心にマーケッティングをかけました。
私が大学に入学したのは1991年ですが、この頃には大学生がマンガを読むのは当たり前になっていて私はマンガ購読を再開しました。
ことに、同人漫画が「尖った」作品群を生み出したことで一部に知的流行しており、同人マンガマニアが熱心に語っていた作品群を、哲学科の購読雑誌で全部連載当時に読んでいた私は妙に誇らしかったことを覚えています。
そして、マンガやアニメがフォローする読者層・視聴者層は拡大しました。従来は対象外だった一〇代後半以降にマーケッティングされた作品群がどんどん生み出されます。つまり小学生を対象としない作品群が生み出されるようになるのです。
そこから先の話は端折ります。その後、いつの間にか、アニメやマンガは「クール・ジャパンなコンテンツ」になり、政府主導で海外への売り込みまでされるようになります。
この状態はあきらかに「サブカルチャー」ではありません。「サブカルチャー」という呼称に拘る論者は今もいますが、明らかに今のアニメやマンガは日本のメイン・カルチャーの一部であり、日本を代表する文化とまで言い切る人までいる状態になりました。
こうした中で、「心に届く作品に出会った」体験を持つ人々は「見下す人々」に腹を立てるようになります。自分の人格の一部を傷つけられたかのように振舞います。それも、サブカルチャーからメイン・カルチャーへの転換のひとつの現れなのだと言えるのでしょう。サブカルチャー時代には、そんな風に腹をたてること自体がありえないことですから。
ここで、ご質問に戻ると、いくつかのパターンに分けないと適切な回答ができないと考えています。問題なのは、現在のゲームやアニメ、マンガは巨大なジャンルをなしていて、
- A.鑑賞するのにある程度の「教養」を要する作品群
- B.そうした教養は無くとも娯楽として万人受けする作品群
- C.どうしようもないクズみたいな(それでもファンはいる)作品群
とが混在していることにあります。ご質問にある「偏見」はこの実情をうまく把握できていないところに生じているのでしょう。
私がメインストリームで語っている「進撃の巨人」は、アニメではありますが、壮大な大河ドラマです。
アニメコンテンツではありますが、日本人が初めて手にする民族的叙事詩だと思っているのですよ。
スタジオジブリ作品や、新海誠作品をも凌駕する、もっと言うなら司馬遼太郎が成し遂げられなかった偉業を成し遂げようとしているのが、原作者の諫山創さんとアニメスタッフだと思っています。下記リンクは諫山さんのブログです。blog.livedoor.jp
でね、質問者様は「進撃の巨人」を観てないのではないかと?
こういう疑問が湧くのです。
単なる偏見でモノをいう人かなと。。。
というのも、「進撃の巨人」は先に挙げた分類では、A&B共有タイプの作品なんですよ。
教養を背景に深読みをすることも可能だけど、戦闘劇や人情劇として観ても面白いように作られています。
ですから、頭ごなしに批判するようなレベルの低い作品ではないんですね。
それと、信仰は教義を覚えるだけで完結するものではないと思っています。
それなら、大石寺の本を買って読めばいいのです。
自分の実存の根幹が信仰です。
実存というのは、一人一人の人生全体です。
長い大河ドラマですが、現在、Amazonプライムビデオで無料視聴できます。
ぜひ、ご覧になってください。
過去記事もお読みくださって、信仰を語るに値しないかどうか確かめてみてください。
nichirendaihonin.hatenablog.com